農村の若者がつくった龍水時計(1) 伴武澄

 戦後、賀川豊彦が埼玉県桜井村に創業した農村時計製作所は、曲折を得てリズム時計に発展する。この会社には技術者養成機関として「時計技術講習所」があった。全国から農業青年を集めて、時計製作の技術を学ばせ、それぞれの故郷で時計工業を興す夢があった。「農村に工業を」「日本を東洋のスイスに」という想いはやがて長野県の北伊那で実現する。

 小説『幻の兵車』で登場人物の三好克彦に岐阜県で時計工場をつくる夢を語らせる場面がある。
 三好は主人公、木村蔵像の故郷、岐阜県美濃で語る。
「木村君、この付近は土地も広いから農村工業を作るには持ってこいだね。僕は年来の理想を、この付近で実現しようと思っている」
「僕は、懐中時計の部分品を、農村の青年の副業にしたいと思っているんだが、この付近なら出来そうだね」
 賀川は農村改革のため、立体農業を推進したが、一方で農家の次男、三男が現金収入を得る場として「農村工業」が不可欠だと考えていた。そのころの工場はすべて都市部に集中し、農村から都市に労働力が流れる結果、スラムが増殖していた。

 賀川は長年スラムに住み付き、貧しい人々の生活ぶりを見ていたから、その実態をつぶさに知っていた。農村に工場ができれば、彼らは都市に流れ出てスラムに住む必要はない。賀川にとって、農村工業という概念はスラム街の防貧対策のひとつでもあった。

 時計技術講習所の第一期の入学生は昭和21年4月から、桜井村に集まった。脱落者もあったが、2年後に彼らは故郷に帰った。講習所には長野県の青年が多かった。岡谷工業という学校の果たした役割が大きかったとされる。その卒業生によって千曲川時計、龍水時計という二つの時計メーカーが生まれた。千曲川は長くは続かなかったが、龍水時計は上伊那で雄々しく立ち上がった。

 北伊那の辰野町に近代時計博物館がある。1996年に野沢和敏さんが自費で建設した。2008年9月、博物館を訪ね、野沢さんから話を聞いた。

 野沢さんはリズム時計の役員でサラリーマン生活を終えたが、実は時計技術講習所の第一期生でもあり、龍水時計の「創業者」の一人だった。岡谷工業高校の3年の秋。父親から講習所の話を聞かされたという。父親は地元の農協の幹部だった。北伊那では養蚕が盛んで、伝統的に製糸業は協同組合的に運営されていた。

 北伊那の農協は龍水社といって、製糸工場も経営していた。賀川豊彦の影響を受けていた当時の北原金平社長は本気で時計製造に乗り出す覚悟でいたらしい。野沢さんらが研修を終えて帰郷すると養蚕の建物の一角が「時計工場」としてあてがわれた。(続)