農村の若者がつくった龍水時計(2) 伴武澄

 昭和23年11月、時計づくりが始まった。素人軍団が2年、時計づくりを学び、さっそく生産に取り掛かるのだから、夢多きスタートといっていい。野沢さんによれば「工業高校を出たのは僕だけだったから、僕がリーダーになった。工場長のようなものだった」。生産の準備を段取りする一方で、掛け時計の「設計」が続けられた。部品づくりのため近隣に10の工場が立ち上がった。

 時計の部品をつくるため、伸銅が必要だった。銅がないので高射砲の薬莢を「くず屋」から買ってきた。これを近くの伸銅工場に持っていって「銅板」にしてもらった。機械類は桜井の工場からの払い下げが主で足りない分は東京で調達した。すべてが手作りだった。

「講習所の先生たちは東大の先生だったり、精工舎の元技術者たちだったから、講義のレベルは相当高かったはず。われわれは恵まれていた。単なる座学ではなく、隣の工場で実地に研修もしたから時計づくりにな自信があった」

 野沢さんの回顧によると「時計はできた。動くには動いたが、日常的使用には耐えられなかった。北原さんには『故障する時計は売るな』と厳命された。だから商品になるのに結局2年もかかった。北原さんはよく我慢してくれたのもだと思う」

「われわれは意気盛んだったから、どこにもない時計とつくろうと励んだ。中三針方式の時計はまだ日本にはなかったから、これを目指した。時針、分針、秒針の3本が重なったものだ。次は30日巻。これはセイコーと愛知時計と龍水社しかつくれなかったが、難しすぎて試作品はお蔵入りとなった」

 昭和30年には龍水時計の生産した掛け時計が通産大臣賞に輝いた。役人が工場見学にやってきて「土間でのままの工場にびっくりしていた」そうだ。賀川はこれを海外「東南アジア協同組合会議」にまで持って行き、「これは日本の農民がつくりあげた時計だ!」と演説して廻った。

 そんな龍水時計の試行錯誤が20年以上続いた後、龍水時計リズム時計の傘下に入った。経営が悪化したからではない。海外進出を図ろうとしたが、北伊那には人材が不足していたからだった。北伊那での生産は2007年まで続き、生産は中国に移管されて工場の役割は終わった。

 野沢さんに信州に精密工業が集積した理由を聞いた。龍水時計の役割は決して小さくないが、機械工業技術者を育てた岡谷工業高校の存在は大きいと答えた。学校と協同組合思想、そして向上心の高い農民が「日本のスイス」を育てた。もう一つ忘れて成らないのが賀川豊彦の熱意だった。