世界の賀川(5) 1925年のアメリカ
賀川は1924年から25年にかけてアメリカとヨーロッパを訪問するが、賀川がアメリカに到着したのが1924年2月だった。アメリカで排日移民法が7月に成立していた。これ以上、日本人を増やしてはいけないという風潮が高まってきた時期だった。賀川は世界的な伝道師、社会活動家としての側面と、日本人という側面と、二つを持って上陸したはずである。歓迎を受ける一方で、新聞記事だとか、日々の生活がすべておもしろい、楽しい旅ではなかった。
その証拠に、彼がアメリカでの旅を終えてニューヨークからロンドンに向かう時に、こういうことを書いている。
「船はニューヨーク港を出た。港の入り口に立つ自由の神様は霧のために見えなかった。それは私は意味あることにとった。米国は、今、霧の中にある。自由の神像は米国には今、見えないでいる」(『雲水遍歴』1926年、改造社)
暗に排日移民法を批判した文章である。
またこうも書いた。「米国国民は国民的年齢において満12歳である」。面白いのはマッカーサーが日本の精神年齢について「12歳」と言うちょうど20年前にアメリカ人に対して「12歳である」などと結構生意気なことを言っている。
その後、ヨーロッパに回って、ジュネーブで新渡戸稲造と出会う。新渡戸は第一次大戦後に誕生した国際連盟の事務局次長を8年間務めた。日本の心を世界に伝えた数少ない一人だった。台湾の総督府で植民政策に携わり、台湾人からも慕われた。1930年代に、協同組合で中野総合病院を設立した時に発起人の一人として協力した。その契機になったのは、ジュネーブでの新渡戸との出会いだったはずだ。