傾ける大地-39

   三十九

 四年目毎に行はれる衆議院議員の総選挙がやって来た。新聞紙は毎日のやうにそれに就て報道した。憲友会も民憲会もをさをさ準備を怠ってゐない様子であった。本当から云へば、杉本英世なども無産政党の味方をして、大いに働かなければならない所だらうが、小学生同盟休校の渦中に投じた彼は、全くそれを一同外視せざるな得なかった。

 然し仮令、無産政党として努力したにしても、労働組合だけを当てにしてゐては、多くの得票を得る望が無かった。高砂町の無産階級は二つに分れてゐた。即ち、初田によって代表せらるゝ農民組合の一派と、服部によって代表せらるゝ共産系の一派は、杉本の関係で互ひに相容れないものがあった。服部が杉本を攻撃すればする程、農民組合は労働組合から離れて行った。そして、町の中心勢力である衛生組合や青年団に於ても、必ずしも一致して、無産政党に賛成することは出来ない立場に置かれてゐた。

 さればと云って、服部一派が絶対多数を得ることも出来なかった。志田義亮は監獄に這入ってゐるし、之を援助する斎藤新吉は、町民の呪ひの的であった。それを目当に乗込んで来た民憲派の候補者は、余りぐっとした男ではなかった。

『こんどは棄権しようかい』
『どいつもこいつも詰らぬ奴許りぢゃなア』

 そんな声が青年達の間に寄ると触ると聞えるのであった。
 選挙期日の五月八日には、高砂町で、棄権した者が五割五分であったと、翌日の新聞は報告してゐた。新聞はその選挙民に自覚の少いことを悲観的に論評してゐたが、実際はその反対で、民衆は愚劣な候補者に対して、投票することを潔く思はなかったのであった。

 然し、結果に於て憲友派は、兵庫県第四区で最高点を勝ち得た。土肥謙次郎の後援した梅田三郎は、輸入候補ではあったが、一番しっかりしてゐた。彼は元香川県の知事をしてゐただけに、選挙民の間に一番評判が良かった。だが、どちらかと云へば、選挙民は一般に中央政局に対して、直接興味を持たなかったし、熱狂の程度も少なかった。当選者の氏名と票数を報じた号外を手にした杉本は、三上実彦にこんなことを云うた。

『知事の古手や弁護士許りが、まだ幅を効かしてゐるやうなことでは、真の政治はものになりませんね。国民生活の根本に触れた産業の各方面を代表する憂国の士が出て来なければ駄目ですなア』

 それに対して、三上は、賛意を表した後、こんな事を云うた。

『もう今日の形の議会制度は古いね。同じ代議政体をとるにしても、産業別にして生活を基準とした評議制度を執るか、それとも専門家を集めた委任政治にするかしないと、今日のやうな掴み合ひの衆議院を、幾ら繰返して居っても駄目だね、衆議院といふ所も高砂の町会な延長したやうなものだらうが、さうすると実に詰らぬものだね』

 三上の言葉に、杉本は全く鬱ぎ込んでしまった。そして、一晩中かゝって、新しき時代の社会制度に就て考へ続けた。だが、人格的社会組織の外、別に善い妙案も浮ばなかった。