傾ける大地-38

   三十八

 英世はやっとのことで終電車に間に合った。愛子は泊って行けと、外套の裾を捕へて放さなかったが、無理にも振り切って電車に飛び乗った。

 英世が、彼女に残した最後の言葉ははっきりしたものであった。
『夫が監獄に這入ったから、その間に逃げ出さうといふのは、余りに卑怯だ。あなたは断然、東京に帰って行って、夫の為に尽しなさい!』

 この言葉で突き敵された愛子は、海岸の砂地に泣き崩れてしまった。然し終電車の時間が近づくと、何時迄も、愛子の側に居れないものだから、彼は逃げ出すやうにして電車に飛び乗った。

 英世は愛子の悲しむことを知ってゐた。然し彼は、これ以上、自個の魂を撹乱することを好まなかった。

 ――女は一種の芸術品だ。鑑賞する気持によって、美しくも見えれば、醜くも見える。強くも見えれば弱くも見える。然し、愛は性慾以上に深く、そして神秘的にも考へられる。永遠のマドンナは性慾以上である。聖浄を破った男女は、も早やマドンナを崇拝する気持にはなれない。マドンナは過去に属してゐる。過去を拝むものだけが、聖浄を知ってゐるので、俺には永遠に聖浄は帰って来ない。俺は一生、一人の女にしか触れたくないから、おけいは永久に俺を棄てゝもおけいは永久に俺の妻だ。俺には妻は一人しか無い。否、おけいが俺の妻であると云ふのではない。俺は一人の女にしか俺の膚をゆるさない。愛子は過去のマドンナだ。おけいは淪落のマグダラのマリアだ。然し俺は一人以上の女を愛することは出来ない。最初の、そして最後の女に肌を許した以上、俺にはもう他の女を恋する権利が無いのだ。低は永遠に罰せられたカインの末裔だ。俺は自らをエデンの花園より逐放して、荊棘(いばら)の道を跣足で歩く。愛子は、永久に俺のものではない。腐った恋は俺の魂を汚す。俺は聖浄の世界へ昇って行く。おけいが帰らなければ帰らないまでのことだ。俺は独りで天国の門を這入って行く。

 曾根で降りて、十四五町の道を、彼はとぼとぼ、浜の小屋迄歩いて帰った。そしてトラピスト修道僧がするやうに、床の上につ跪(ひざまづ)いて、愛子とおけいの魂の為に、静かに祈った。愛子の為には、その夫の犠牲になり得るやうに、おけいの為には、彼女が再び彼の胸に帰って来るやうに――

 十分間位も祈ってゐたらうか。祈が済んだ時小屋の外側に、着物の裾摺れと下駄の音がした。

 誰であらうかと、耳を澄ましてその足音に注意したが、その足音はまた何処かに消え去ってしまった。それで彼は、静かに床の中に這入ったが、いろいろな事が頭の中に浮んで眠りつけなかった。十分位してまた着物の裾摺れと確かに女下駄の音と思はれる前の足音と全く同一の、微かに砂を踏む足音とが、小屋の前に聞えた。それがどうも愛子のそれのやうに考へられてならない。「若し愛子だとすれば本当に済まない。淋しい彼女の魂を慰めることの出来るのは、自分一人だ」と考へた英世は布団の中から這ひ起きて、さっと表の戸を開いてみた。

 果せるかな、共処に立ってゐた女は愛子であった。彼女は戸の開けた瞬間には顔を真正面に向けて英世を見たが、その次の瞬間には、頭をうなだれて顔を俯せてしまった。

 余りの意外に驚いた英世は、それが愛子の幽霊ではないかと訝った位であった。東京から死に場所を探しに来たと云ひ、東京に帰ることが出来ないと云った彼女が、その儘、舞子の浜に入水して亡霊となって出て来たのではないかと怪みもした。

 で、彼は跣足のまゝ砂地に飛び下りて泣きながら立ってゐる彼女の肩に手を掛けた。臨月が、かすかに彼女の鬢の辺りを照らす。愛してやりだいといふ熱情が、彼の胸にこみ上げて来る。

『今頃どうしたの? 愛子さん、どうして来たの?』
 愛子は泣いた儘、顔を俯せて彼には何も答へなかった。それで、英世もまた貰ひ泣きをした。

『愛子さん、泣かないで下さい。神の聖き宿命です。我々はその宿命を変吏しようと思へば、変更出来ないこともありません。然し、我々が、神聖の道を選ぶから、我々はこんなに決定せられるのです。あなたはあなたの道を選んで、その上に衝き進んで行かれました。そして私はまだ、私の道の上を転がってゐるのです。私はこの道を変更したくないから、この淋しい決定を、私の運命として受けて居るのです』

 と、彼は月を仰いだが、月の輝きが眼に映って、涙の雫がダイヤモドのやうに光った。
 愛子は俯向いたまゝ袂の先を噛んでゐた。

『よく判りました。よく判ってゐるのです。それだから、私はこんなに迷うてゐるのです。あなたが神聖の道を選ばれゝば選ばれる程、私はそちらの方に引き着けられるのです、私は東京に帰ります。そしてあなたの云はれた通り、夫に仕へます。それが私の宿命なのでせう。私はあなたの云はれる、神聖なる決定の意味がよく判ります。私はその神聖な決定を伝うて、あなたの胸に帰って行きます。私は、自分の罪を贖ふ為に、人の罪を荷って行きます。私はそのことを云ひに此処迄来たのです。私は本当に生れ変って東京には帰ります・・・然し・・・』

 それから先、愛子は咽んで声が出なかった。英世は男らしく云ふた。

『あゝ、本当に嬉しい。私はあなたの外愛することは出来ないと思ってゐたのです。そして私は、あなたに叛かれた時に、反抗的に迷路に這入って行きました。然し、今私は、その迷路から目醒めて居ります。私は神と神聖に生きるのです。私はあなたを心から尊敬してゐますが、私は人間として、あなたを愛することが出来なくなりました。私はあなたを神の子としてのみ愛します』

 新緑の五月とは云へ、真夜中は相当に寒かった。殊に愛子の身体は冷えてゐた。それで彼は小屋の中に這入ることを勧めた。然し彼女はそれを肯じなかった。

『あなたは、この小屋に私と一緒に住みたいと迄云ったのぢゃなくって? ちょっとお這入りなさいよ、余り外は寒いから――』

 風が出て来た。片割月が、幾つかの乱雲を忙しく切り抜けて行く。
 さう勧められでも、彼女は銅像のやうに立って其処を動かなかった。

『東京に帰る前に、私はあなたから、私を赦してやるといふその一言が聞きたかったのです』
 さう云って、彼女は英世に飛び付いて来た。

 そして、両手を英世の二つの肩に打懸け、彼女は頭を彼の胸に沈めて、強く泣いた。

『もう善いのだ。愛子さん、あなたは私に赦される罪なんか有りやしません! お互ひぢゃないか。あなたがそんなに云ふなら、私もあなたに赦して貰はなければならない。まあそんなに云はないで、ちょっとだけでいゝから坐ってくれない?』

 英世は小屋に一つの歴史を附げたかった。彼は魂の底より愛子を愛してゐた。そして、その愛を拒絶すべき理由もなかった。勿論彼は、社会を怖れて、その愛を拒絶してゐるのでもなかった。彼は、神に就て考へてゐた。そして、神から出発することによって、愛子をより神聖な立場から愛し得ることを考へてゐた。然し彼は、彼が心より愛した初恋の天使に一瞬間でいゝから、彼の「カルメルの山荘」に、その刻印を押して欲しかった。彼は彼女の坐った場所を、神聖な場所として永久に記念したいとまで考へた。

 彼は引摺り込むやうにして、彼女を小屋の中に引入れた。彼女は六畳の間の中央に据ゑられた。彼女は急に快活になった。
『あゝ、泊って行きたいわ!』
 涙を拭き乍ら、彼女は泣き腫らした瞼を開いて、英世の瞳を凝視した。
『さうなさい、さうなさい。蒲団は無いけれども、大蒲団を二つに折って寝さへすれば私は寝られるから、今夜は泊って行って下さいよ!』
『あゝ、本当に泊って行きたいわ・・・自動車に帰って貰はうかしら?』

『あなた自動車に乗って来たの? 何処に待たしてあるの?』
『あの小さい橋があるでせう・・・あすこで待たしてあるのです・・・だけど矢張り帰らう、矢張りあなたの云はれる神聖な決定の方が善いから』
『泊って行きなさいよ!』

『あなた誘惑するのね。本当にこの小屋はよく出来てゐるわ。何だか落着があって善いわ、あゝ、こんな小屋が出来るのであれば、東京なんかへ行くのぢゃなかったのに・・・』
『自動車を断って来ますわね』

 さう云って、英世は立ちかけた。それを愛子は無理に引止めた。

『私もう帰りますわ。だけど・・・何だか一つまだ気懸りがあるのです。それはあなたの「宥す』といふお言葉をはっきり聞かなければ帰れないやうに思ふのです』

 愛子は心持ち頬笑みながら、さう云うた。鈍い十六燭の電燈が、愛子の智的に輝いた顔を美しくぼかして見せる。英世はかうした瞬間をこの上なく幸福に思うた。

『宥しますとも、宥しますよ。私はもうとっくの昔に、そんな事なんか忘れてしまってゐるのです』
『有難う、ぢゃア私はもうこれで帰りますわ』
『もうあなた帰るの? 何だか頼りないね。一晩この小屋で語り明かして欲しいねt!』

 堤の松林に、風が強く当る。愛子は立上った。そして杉本に握手を求めた。

『神聖な決定が待ってゐますから、もう私は帰りますわ。私はあなたを愛してゐるから、あなたの云はれる通りにします。私は今晩帰って行くのも、あなたの命令を聞いてゐるからなのですよ。咎めないで下さいね。私はこれから宿に帰って、明日一番ですぐ東京に引返します。まあ善かった! 私はこれで安心して東京に帰られるわ』

 さう云って、彼女は閾(しきい)の所まで歩み出した。然し、閾をまたいだなり、また立竦んでしまった。

『矢張り泊って行きませうかね? 私はあんな淋しい処に帰るのは厭ですわ! この小屋の方が幾らいゝか知れない!』

 さう云ふなり発作的に、閾の上に泣き伏してしまった。英世は、愛子の煩悶をよく知ってゐる。で、今更、何と云うて慰めていゝか言葉を知らなかった。然し斯う云はれてみると、「泊って行け」といふ勇気も出なくなった。彼は、傍に坐り込んだまゝ、静かに祈った。五分間も彼女は閾の上に泣き伏してゐたが、急に身体を起して、砂地の上に下りて行った。そして何も云はずに、五六歩浜の方に歩いた。それを英世は沈黙のまゝ追駆けた。

 片割月が二人の肩を照らす。それが、何だか暗示的に見られてならない。遠くに、漁師が艪を漕いで、港に帰って来る音が聞える。裏の方に馬が、ことんことん、厩の床を蹴る音がする。何処かで一番鶏が鳴いてゐる。橋の袂まで送り届けた英世は、自動車の中で寝転んでゐた運転手を起して、愛子を車に乗せた。愛子は沈黙の儘、唯頻って涙を拭いてゐる。

 自動車は爆音を立てゝ走り出した。英世は橋の真中に立って、冷い真夜中の空気を胸一杯吸ひ込み、静かに月を見上げた。銀の鎌のやうに冴え切った月は、神秘的な光を地上に拗げる。彼は真夜中のその神聖な瞬間を感謝した。何も音が聞えない。月だけが光ってゐる。しづかにしづかに、彼は宇宙の神秘の中に沈んで行く。