傾ける大地-37

   三十七

 毎日の新聞は、磯部川事件を大きな活字で書き立てるやうになった。そして志田義亮が愈々収監せられたことを報道した。それから間も無く、正親町男爵が取調を受けてゐることを三面記事は伝へた。

 その記事が出てから三日目であった。俥夫が、達者な女の手で書かれた一通の手紙を高砂の杉本英世の処まで届けて来た。英世がそれを受取ったのは、例の小屋の中で夕飯を炊いてゐる時であった。彼はその手紙の封を切らない中に、その中に何が書いであるかを想像することが出来た。

 それは勿論、愛子からの手紙であった。その手紙に依って、正親町実世は、贈賄罪に問はれて収監せられてゐるといふことが判った。手紙は簡単なもので、夫は放蕩であり、将来に就て案ぜられるから、是非一度相談に乗って呉れないかと云ふ事だけしか書いてなかった。

 その手紙は余程慌てゝ書いたと見えて、何処で何日会ひたいとは書いてなかった。それで、英世は人力俥夫に尋ねた。

『この方は今何処に居られるのですか?』
 舞子の万亀にお出でゞございます。できたら一緒にお出で下されば、好都合だって仰しゃいましでございます』

 その手紙を持って、英世は暫くの間、行かうか行くまいかと心の中で迷うた。
 ――深入すれば恐ろしい罪を犯すことになりはしないか? それは一極の悪魔の誘惑ではないか。寧ろ小屋に一人居た方が安全なのではないか?――

 竈の上に懸けた味噌汁が吹き出した。彼は慌てゝ蓋を取る為に、炊事場に駆け込んだ。鍋の蓋を取りつゝも、彼の動悸は高くうった。表には、納戸色の着物を着た愛子が、彼を待ってゐるやうに思はれてならない。

 ――愛子は余りに卑怯だ。今頃になって、私に用事があると呼出しに来た処で、余りに遅い、彼女も傷ついて居れば、私も傷ついて居る。彼女は私が肺病であることを怖れただらうし、亦、私の貧乏であることを苦にしただらう。そして私を裏切って華族に買はれて行ってしまった。あー遅い! 余りに遅い!――

 彼は、竈の下の火を見つめながら、鉄の長火箸を片手に持って、心の中で悶えた。

 ――然しおけいも憎たらしい。矢張り彼女は、カフェの女給以上には出ない奴だ。彼女は私の小屋を罵って、『乞食小屋のやうね』。さういったきり、もう来なくなってしまった。その後私に振り向きもしない。然し、別府の一夜で私は永遠に傷ついてしまった。――

 彼は女の余りに弱いことを悲しまざるを得なかった。今度も亦、愛子に騙されゐのではないかと思ふと、わぎわざ舞子迄会ひに行くことは、煩はしく思はれた。――「一生を懺悔の生活に、この小屋の中で人の罪に泣きつゝ送ることも、一つの工夫だ』――さう彼は考へもした。けれども彼は愛に飢ゑてゐた。深入しない程度で、愛子に会ってみたいといふ気がした。こっそり人の居ない処で、人生に就て語ってみたいと云ふ気もした。それで彼は、黒の厚司を洋服に着変へて、車夫と一緒に、電車で舞子の万亀楼迄出掛けた。

 二階のこぢんまりした八畳の間に通された英世は、其処に見違へる位、垢抜けのした若い愛子が、奥様らしい嬌態(しな)を作って机に凭れて坐ってゐるのに気がついた。上下揃ひの大島紬を着て、描更紗の如何にも上品な帯を締めた愛子は、

『まあ嬉しい!』

 さう云った感傷的な言葉を、心持ち笑ひ乍ら発したけれども、おけいのやうな熱情的な態度は示さなかった。控へ気味の彼女は、

『かうしてお目にかゝってみると、何からお話していゝか、自分にも見当が付かないんです』
さういって彼女は、白い絹のハンカチを目許に持って行った。

『今夜あなたは泊って行って下さることは出来ませんか?――私はあなたに聞いて頂きたい長い長い話があるのです』

 それに対して、英世は、
『今、寺小屋をやって居りましてね。朝八時から授業があるものですから、今夜はどうしても帰らなけりゃならないんです。然し大変でしたね、正親町さんは、今何処の監獄ですか?』

市ケ谷の監獄なんです。面会に行ったのでしたけれども、とうとう会はしてくれませんでした・・・然し、善い教訓なんですよ。さうですね、あれは私が嫁入してから、もう六ヶ月になりますが、一緒に暮したことは一ヶ月と無いでせうね。志田さんは夫の悪いお友達でしてね、いつも赤坂の溜池に二人でぐづり込んで居られるのです。さうした事が今度のやうな結果を生んだのです。今の政治家などといふものは、裏に廻れば仕方がない人許りなんですね。何でも華族と云ふのが千戸位あるさうですが、それに私生児が五百人からあるのですって』

 別れて僅か六ヶ月足らずであるけれども、境遇の変化の為でもあらう。愛子の言葉が、美しく澄んで来たことゝ、その表情が如何にも大人びて来た事を、英世は甚だしく感じた。

『身体は達者なんですか?』
 英世は改めてさう尋ねた。
『いゝえ、行ってからすぐ病院通ひを初めましてね。手術を受けるやら、注射をするやら、去年の末は大騒ぎをしました。正親町は恐ろしい病奇の保持者でしてね。一時私はもう死んでしまはうかと思ってゐました』

 彼女は顔を顰(しか)めてさう云った。
『それは一体何病なのですか?』
『お恥しい話ですが、人様に云へない病気なんです』

 愛子は少しの間、口を噤(つぐ)ったが、また蕾のやうな唇を開いた。

『最初淋病でしてね、後には梅毒もあることが判ったんです。私は全く神の罰だと思って、凡てを断念(あきら)めてゐるのです。正規町はそれ許りではないのですよ。もう大学に居る頃から何人もの女に関係して、子供が二人まであるのですって。全く仕方がないんですよ。だから貰はれて行っても芸者並にしか取扱ってくれなくって、愛なんか感じたことは一度もありませんの。一体かうした生活でも続けて行かなければならないのでせうか? 殊に私が手術を受けてからといふものは、家に帰って来たことは一度も無いのです。小遣ひは勿論一文も呉れませんしね。私は何度決心して離縁して貰はうかと思ったか知れないんです。離縁は一体罪なんでせうか? 正親町は明かに姦淫を犯してゐますわね。「姦淫の故ならでは云々」とありますが、私はもうあんな男といつまで連れ添うてゐても詰らないから、この際帰って来ようかと思ったりなどしてゐるのです。父も余程今度は吃驚してゐるでせう』

 愛子は存外冷静に話を片付けて行った。硝子障子越しに明石海峡を見渡すと、五月の海は膏を流したやうに滑かで、暮れて行く空は、紫を一面に塗ったやうに輝いて見えた。大理石のやうに堅くなった愛子は、二つの火箸の上に両手を置いた儘、英世が凝視してゐる方角をじっとうち見守った。北側の松原には、子供の戯れてゐる声が聞える。のどかな新緑の夕暮人生に疲れた若い二つの魂は、暮れ行く青海原の上に、白く描かれた潮路の波紋の行末を瞬きもしないで見つめた。

『こんな時にはどうしたら善いんでせうね? 本当に教へて下さらない? あなた、私本当に疲れてゐるんです。私は何度死なうと思ったか知れないのです。実はもう一思ひに海にでも這入って死なうと思って、此処まで来たのですが、亦思ひ直して、あなたに教へられて、明るい世界に引張り上げて貰はうと思ったものですから、御無理な云うて来て頂いたのです』

 二人の話は、女中が夕餉(ゆうげ)を運んで来た為に、途中で切れてしまった。二人は食ふ気もしなかった。愛子は葡萄酒を取り寄せて、それを英世に薦めた。英世は愛子の変った態度に驚いた。

『愛子さん、あなたは御酒を召し上るのですか? 近頃?』
『えゝ・・・葡萄酒でも飲まなければ、夜睡られないのです。私はもう無茶苦茶なんです。東京で皆様が召し上るものですから、つい、それに負けてしまふんです。悪いとは知りながらも余り清い人が、私達のグループの中に居らないものですから、つい、その方に引かれるのです。それにね、英世さん、近頃、東京の若い人達の間には妙な事が流行りましてね。巌然たる夫があっても、他にラヴアのあることを平気で云ふやうになったのですよ。妙な傾向ですね。私はまだ煙草は吸はないけれども、皆新しい人の仲間では煙草を吸ふのですよ』

 ぽつりぽつり、静かに物語って行く愛子は、如何にもしっとりした佳い女であった。永いこと口髯も剃らないで、髪は生え流しにしてゐる英世は、自分の余りに非芸術的なのと、愛子の余りに上品なのとを比較して、もう二人の間に、渡すことの出来ない淵の出来たことを思はざるを得なかった。

『暗くなったから散歩に出ませんか? 誰も見る人が無くってよ』

 さう云って、愛子は英世を散歩に連れ出した。淋しいのであらう。愛子は英世の傍に寄り添うて、堅く彼の手を握り〆めた。そして無言の儘、二人は誰も人影の見えない舞子公園の砂原の上を歩いた。二町位歩いた後、愛子は英世の顔を覗き込んで云うた。

『赦して下さいね、みんな私が悪かったんですから』
 愛子は英世の掌を堅く握りしめた。二人の間に暫く沈黙が続いた。
『ゆるして下さいも何もあったものぢゃありませんよ・・・』

 さう云って英世は語尾を濁らせてしまった。それに対して愛子は、云ひ難さうに、少さい声で独言のやうに答へた。

『あなたはまだ私を愛してゐて下さいますか?』
 それに対して英世は、何にも答へなかった。それで彼女は、折返し彼に尋ねた。

『あなたは怒っていらっしゃるのでせうね? 実際は私が悪いんですから、私はあなたを棄てるつもりぢゃなかったのですけれども、仕方なしにあゝなってしまったのです。境遇に負けたのです。凡て私が悪かったんですから、宥して下さいね・・・』

 さう云って愛子はハンカチを取出して目を拭いた。英世は泣いてゐる愛子があまり可哀相なので、男らしく云うた。

『過去のことを云ったって仕方が無いんですよ。私も弱いのですから、あなたに赦して貰はなければならないことがあるのです』

 二人は手を引合って、海岸に下りて行った。澄み切った五月の夜の空には、美しい星がダイヤモンドのやうに光ってゐた。然し、控へ気味な英世は、少しも積極的に恋を語る勇気を持たなかった。斯うして歩くことさへ、地獄の近道を歩いてゐるやうに思へてならなかった。

『お前は人妻と歩いてゐる。姦通してゐるのだ』

 さうした声が、ひっきり無しに胸に蠢いて、彼は、愛子のやうに能動的に出ることは出来なかった。何だか職業的ではあっても、おけいを抱き〆る方が、遥かに罪が無いやうに思へでならなかった。それで彼はわざと話をはづして、最近彼が建てた小屋の話を詳しく物諮った。それを聞いた愛子は、

『まあ、そんな処で私も住みたいわ。あなたは私が離婚すれば其家に入れて下さいますか?』
 端的な質問に、英世は本当に弱ってしまった。
『私は乞食となっても善い、もう少し意義ある生涯を送りたいのです』
 英世が余り返事を遅らすものだから、愛子はじれったさうに、彼のを手の甲に接吻して云うた。

『本当なんですよ、真剣なのですよ』
 返事を迫られた英世は言葉さへ明瞭によう発音しなかった。
『私は弱い男ですから、今何ともよう答へません。その時になってみなければ判りませんよ』
『あんまりだわ、それは余り酷いことないの』
 さう云って、愛子は英世に背中を向けてしまった。然し、また暫くして、
『私は愛に飢えてゐるのです。一言でいゝから、愛してゐると云って下さい。それでなければ私は今夜、この海に這入って死んでしまひます』

『そんな無茶を云ふならば、あなたは勝手にしたら善いでせう。私はあなたを愛してゐるのですけれども、姦通が厭なんです。私も、最初あなたに会った時のやうな清い人間ぢゃないのです。然し私はどうかして、自分を贖ひたいと悶えてゐるのです。あなたが死んでしまひたければ比処で死んだがいゝでせう。そんなことを云うて嚇かすなら、それはあなたの勝手です。私は恋愛を道楽にすることは出来ません。どうもあなたの今迄の態度は去年の夏前のあなたの態度とは、大分違ってゐると私には感ぜられるのです。あなたは悪くなりました。私はあなたが、仮にもそんな事を云うて、私の純潔な心を紊さうとしてゐるのを好まないんです。交際するなら友人として交際しませうよ!』

 その言葉を聞いて、愛子は持ってゐた英世の右手を振り落して、絶望的に小声で云うた。

『あゝ、冷っこい! お友達なら沢山世界にありますよ。あなたは私がどれだけあなたを思ってゐるかを、お知りにならないのです・・・』

 それから愛子は永々と、夏の真最中、燐寸女工として労働したことを物語り初めた。それを俊子から聞いてゐた英世は、彼女の口から直接にそれを出いて、耐へ切れなく悲しくなった。

『一緒に死なうか? 愛子さん? 人生は余り悲しいね?』

 さう云った時に、愛子は其処に打倒れてしまった。英世も愛子の背中に折重なって泣いた。
一時間、二時間、時は容赦なく経ってしまった。

 右側の欠けた片割月が、大阪湾の東の山脈の上に、を出した。二人は猶も泣き続けた。