傾ける大地−36

   三十六

 メーデーが近づいた。高砂労働組合の幹部は、是非今年は盛大な労働祭な挙行したいと意気込んだ。そしてそれには、無産小学校の児童も全部参加させたいと云ふ意嚮(いこう)まで洩した。杉本はそれに異存はなかった。然し、服部政蔵が、第三インタナショナルの労働歌を児童に教へて、それを示威運動の時に歌はせたいと云ふことに就ては、杉本と服部の間に意見の相違があった。

 黒衣会の人々も服部の意見には不賛成であった。それにも拘らず、服部は、そ知らぬ顔をしてその歌を生徒達に教へ始めた。高等刑事は中止を命じて呉れと杉本に申込んで来た。で彼はその事を服部に伝へた。然し服部は、彼の注意も聞かないで、続けてその歌を児童に教へた。警察側では職権を以てそれを中止すると云ひ出した。たうとう服部も仕方無しに、その歌を児童に教へることを中止した。

 メーデーが来た。そして児童は昼から旗行列をするといふ計画になってゐた。ところが突如として中止命令が、警察署から伝達された。その為に労働組合員ばかりの示威行列もおぢゃんになってしまった。労働組合幹部の間では、之を妙にこじらして取った。それは杉本英世が、ロシヤ系共産主義を嫌ってゐるものだから、それとなく警察を通して中止せしめたのだと邪推したのであった。

 労働組合の幹郎は、検束せられてもよいから、メーデーは盛んにやると決議してゐた。さうして警察の中止があらうが無からうが、そんな事にはお構ひなしに、大いに気勢を挙げる手筈になってゐた。小学児童も、運動会に名を藉り連れ出す計画であった。

 然し、杉本が余りにおとなしく出て、無産小学伎の児童を全部外に出さないことにした為に、服部一派の計画は全く外れ、落胆した幹部連は、その晩カフェで一杯呑んで、反杉本の気勢を挙げた。彼等は声明書を作成した。そして無産小学校から全部手を引くことを決議した。その声明書の中には、杉本を売名家と罵り、ブルジョアの手先、警察のスパイだと迄罵倒してあった。

 杉本はそれを見て鬱(ふさ)ぎ込んでしまった。目的の為には手段を選ばない、それらの人々を気の毒に思った。然し彼は、一部の人々の為に多数の児童に悪い印象を与へたくなかった。余りに強い憎しみの精神や、余りに強い階級闘争の感情を、児童の心に吹込みたくなかった。その為に彼は、児童の旗行列を労働者の行列から引き離したまでのことであった。

 杉本に対する不信用の決議は、五月二日の朝、高砂労働組合の組合員等の子弟達六十名が突然無産小学校から脱退して、旧小学校に復帰することに依って、一層奇妙な結果を生んだ。之等の児童は多く、高砂モスリン株式会社の社宅に住んでゐる小供達許りであったが、喜んだのは小学校長岩本光顕であった。

 彼は之等の児童を使って、少くも五百人位は奪還したいと計劃した。杉本としては、児童全部を小学校に復帰せしめることに就て何等反対はしなかった。元来、彼は始めから同盟休校に賛成してゐなかったのだ。それを服部や、藤本が強ゐて主張するものだから、引張られていった迄のことであった。

 それにも拘らず、発起人が自ら先んじて、その子弟を小学佼に復帰せしめるに到っては、杉本もその余りに無定見な事に対して、憤激すら感じる位であった。さればと云って今更、無条件で千名に余る子供等を、学校に帰すことは出来なかった。町毎にある衛生組合は、みな水道問題が片付くまで、同盟休校に賛成してゐた。それで最初始めた時とは余程性質を異にしてゐた。杉本はこの町民の要望を裏切ることが出来なかった。

 労働組合の幹部は、色々なことを云うて、杉本を排斥し始めた。その第一は、彼が無産階級の裏切者であり、大の売名家で、県会議員になれば、はや全く農民組合に尽すべき義務をも怠り、滝村俊作の妻お高などに対しては、約束した補助金を送らないで棄てゝあるとか、無産小学校は労働組合が始めたに拘らず、景気が好くなると彼はそれを占領してしまったとか、彼は階級戦争には臆病者であって、抗争的精神を欠いてゐるとか、更に進んでは、女給おけいとの関係を悪くとって、他人の恋人を奪ふ偽善者であるとまで云ひ布らした。服部一派は謄写版に刷って、それを戸別に配布した。

 杉本を罵って、他人の恋人を奪ふものと断定したに就いては、理由の無い訳ではなかった。おけいの恋人といふのは実は服部自身であった。おけいに対して滝村俊作も熱心ではあったが、服部政蔵も狂熱的であった。そして二人の関係は、おけいが高砂の東洋亭に来た翌日から始まったもので、滝村や杉本に比べては遥かに古いものであった。

 おけいも服部の熱心に動かされて、一時は夫婦約束迄した位であった。服部には立派な妻君もあり、三つになる子供もあった。服部はそれを永く隠してゐた。彼の妻子は、広島の彼女の里に預けられてあった。それをふとした事から、おけいが感付き、服部との約束を破棄した。そして二人の間は言葉も交さぬ程冷淡なものになって了った。

 それからおけいは、服部の手から逃れる為にわざと、力強い庇護者を尋ねて廻った。それが彼女をして、或時には滝村に行かしめ、或時には杉本に走らしめた理由であった。

 服部は、極端な唯物論者で、杉本などとは全くその行き方を異にしてゐた。彼は、『飯を食ふ如く女が欲しい』と、いつも口癖のやうに云ってゐるだけに、カフェの女給は誰彼なしに手を付けた。彼は元、大阪藤永田造船所に組立工として働いてゐたが、大正九年労働争議の時首になり、それから流れ流れて、高砂にやって来た。

 高妙に来た時は、小さい月二回の新聞を発行したいと云って、藤本を頼寄って来たのであったが、労働組合を手伝ってゐる中に、同和会の書記に頼まれて、新聞の方は止めてしまひ、労働運動ばかりやることになった。細見徹とは新聞をやると云ふ話から親しくなり、細見の紹介で家具屋の滝村喜一に接近し、滝村に頼まれて税金不納同盟の運動や、小学生同盟休校の問題に関係するやうになった。

 県会議員の選挙戦の時には、杉本の為によく働いたが、杉本に金が無いことを知った彼は、一層親しく滝村の方に接近して行った。

 労働組合は、月給として僅か二十円しか彼に支給出来なかったので、彼は内職として、何か金を掘出す口を尋ねなければならなかった。その為に彼は好んで新しい事件を作って行った。水道問題が起って以来と云ふものは、全く細見と共に滝村の幇間(ほうかん)のやうになってゐた。
おけいが英世に遠ざかるやうになったのは、服部が滝村に近づくやうになってから後の事で、服部はおけいを滝村に譲り、再びおけいと言葉な交すやうになり、滝村に忠義立てをする積りで、おけいが英世に行くことを阻止した。

 服部はおけいに英世の欠点を一々説いて聞かせた。第一彼の肺病でゐること、そして貧之であること、その上県会議員は全くおぢゃんになってしまったこと、従って幾らおけいが熱心であっても、先に行っては見込の無いことを力説した。無学なおけいはそれに動かされた。そして滝村の云ふが儘に、九州別府に遊びに行ったり、厳島見物に出掛けたり、大いにモダン・ガール振りを発揮した。

 斯うした関係で、杉本英世と服部政蔵の関係は妙にこじれてしまった。細見の関係してゐる新聞には、『杉本英世に与ふ』といふ論文が、三日も続いて載った。それは匿名で書かれたものであったが、彼を売名家と罵り、彼を無産者階級を利用して、私慾を逞うする好色漢であると罵倒したものであった。勿論それは、筆の達者な服部政蔵の書いたものであった。