傾ける大地-35

   三十五

 女給のおけいが、しげしげ店に顔を出すやうになってから、妹の俊子と父の理一郎は、英世に対して余り好い感じを持たなくなった。妹はいつも兄と顔を合せないやうに努めてゐるやうに見えた。父の理一郎は侮蔑の言葉をさへ彼に浴びせかけた。

 浜の小屋に移ってからは、父と妹の冷やかな顔を見ることは少くなった。それで彼は努めて自分の家に帰らないやうに努力した。小屋の東側に炊事場を設け、彼は独りで自炊することを覚悟した。彼は乞食のやうな生活に甘んじようと努めた。自炊することは愉快であった。けれども、二度三度温い汁やお菜を炊くことは面倒臭かったので、茶漬や焼味噌で簡単に片付けるのが常であった。

 あれだけ熱中してゐたおけいは、近頃ちっとも小屋に寄り付かなくなった。それに対して英世は一種の憤激をさへ感じた。

『おけいの奴、俺が貧乏して、評判が悪くなると寄り付きもしないのだ。覚えて居やがれ!』

 そんな復讐的な考も時には胸の底に湧いて来るやうに感ぜられた。彼は毎日のやうに角丸商会の帳付けに出掛けた。そして暇があれば、経済心理学の書物を書かうと、種々の書物に読み耽った。

 町には、税金不納問題が続いた。ぞれが発展して、遂には小学生の総同盟休校迄唱道せらるゝやうな気運になって来た。その計画をしたものは、高砂同和会の服部政蔵と、高砂労働組合常任書記の藤本達一の二人であった。三月も過ぎて桜が咲く時になつだけれども、水道工事は少しも進まなかった。

 それで高砂労働組合が中心になって、町民大会が開かれ、之には滝村喜一などの公民会内の不平分子も参加することになった。農民組合も黒衣会も参加の勧誘を受けた。それで各々数名の代表者を送り、大会を意義あらしめるやうに画策せられた。大会は頗る盛んなものであった。そして満場一致を以て、小学生総同盟休校の決議が通過した。

 その案が出ることを知った杉本英世は、大会に上す前、極力阻止せんと努力した。彼は藤本にも服部にも、それ迄して反対することは児童の精神教育上善くないから、外の方法をとってはどうかと勧めてみたが、

『これ位せんと、向ふは目が醒めしまへんぜ』

 さう答へて二人は杉本の忠告を聞入れなかった。四月の第二の月曜から小学生の総同盟休校が始まった。小学生は全部町内にある三つの大きな寺院に集められて、黒衣会の連中が、自ら教へることゝなった。県庁から県視学が飛んで来た。神戸から新聞記者の一隊が繰込んで来た。三つの学校に二人づつの高等刑事が付けられた。藤本は景気が好いので喜んでゐる。

『大成功ですね。こんなに巧いこと結束するとは思はなかった』

 彼は無雑作にさう杉本に云うた。激動が児童の魂に刻む、厭な印象を恐れてゐる杉本は、何ともそれに対して答へなかった。

 変ったことの好きな児童は、比較的静粛に授業を受けた。机が無いものだから、第一日はみんな机無しで授業をやった。二日目からは、各自後柑箱を持って来さすことにした。

 新聞は、大きな活字でこの事を報告した。町役場は大恐慌を来した。臨時町会が開かれた。高島町長が辞職すると云ひ出した。斎藤は辞職する必要はないと諌止(かんし)した。

社会主義者の煽動によって斯うなったのであるから、我々には全然責任が無いので、この上は唯、警察官の活動を俟(ま)つより外、道は無い。小学児童を全部休学させ、警察にも届けないで、恣まゝに不潔なる寺院に多数の児童を集めて授業をすることは、明かに小学校令の違反である。町会一致を以て乱暴な同盟休校を弾圧し、主謀者を処罰して貰はなけりゃいかん』

 それに対して三上は猛烈に反対した。そして不思議にも滝村が、三上の言論に賛意を表して、大いに斎藤攻撃を始めた。その結果、公民派の絶対多数を以て知事に、煽動者取締を依頼することだけを決議して、その日は別れてしまった。

 然し警察はどうともすることが出来なかった。服部は高砂警察に呼出されて取調を受けたが、次のやうに答へて来たと報告した。

『税金を納めてゐないので、町の小学校にお世話になってもお気の毒ですから、遠慮して登校させぬことにしたゞけのことです。税金を納めるやうになれば、学校にも出します』

『明答! 明答!』

 さういって藤本は、軽くそれを受取った。同盟休校が長引くにつれ、神戸の諸新聞は勿論のこと、東京の新聞迄がこの問題を深く注意し始めた。神戸の新聞には、小学校令に違反してゐるから、罰金を払はさせられるであらうとか、税金不納同盟に対しては、強制執行に依って、執達吏が差向げられるであらうとか、取々の噂が掲載された。

 それに対して、労働組合の人々は実に馴れたもので、少しも動揺しなかった。新関紙に掲載せられた記事を見て、わざわざ兵庫県佐用郡の山奥から、無産小学校を教へたいと一小学校長が、夫婦で杉本英世を訪問して来た。実際杉本は小学生の同盟休校に就ては、積極的の態度をとってゐなかったが、新聞紙はまるで彼自身の計画ででもあるかの如く発表した。

 そして、新聞記事を作る為に、三ケ処の寺院で開かれてゐる小学校を、無産小学校といふ名で書き立てだ。それがこの小学校長をして高砂町を訪問せしめる理由になったのであった。

 団結の力といふものは恐ろしいもので、案じてゐた寺小屋式の教育が思った以上によき成績を挙げた。学校では劣等児として取扱はれてゐた児童が、急速な進歩を見せた。それで町内でも無産小学校の評判が馬鹿によかった。

 之には写真屋の堤幸蔵などが大いに貢献する処があった。彼は殆ど寝食を忘れて、自ら授業に当り、元小学校の女教員であった彼の妻ちゑ子と共に専心努力した。新聞記者の生方正之進の如きも、生徒が可哀相だといって午前中教へに来た。倉地も商業学校を出てゐるといふ理由で、午前中先生に頼まれた。

 杉本英此は、藤本達一の意見に反対してゐた位であるから、第一日は授業に出なかったが、余り子供等が可哀相だと思ったので、二日からは積極的に助けた。

 さうなると大友良知の妻君は、師範学校出だから頼んで来い、青山の妻若は女学校出だから少しは教へることも出来るだらう、医者の三上実彦も衛生講話に引張り出せと、云ったやうな具合に、父兄達が志一つにして、いろいろ工夫するものだから、今迄考へなかった面白い小学校が出来上ることになった。生徒達も真剣な先生達に動かされて、真面目に勉強するやうに見えた。

 無産小学校が盛大になるにつれて、焼きもきしたのが、小学校長の岩本光顕であった。彼は県会設員選挙の時には、杉本英世に同情した一人であったが、自個に対する不信任でも決議されたかのやうに、首席訓導の藤本喜三郎と二人で、無産小学校の生徒を奪還する方策を色々と考へた。

 千百人から出席してゐた小学校に、毎日出席する生徒は四十人を越えなかった。その四十人の児童といふのは、大部分公民派の町会議員の子弟達と、その従事員の子供等であった。出席者が余り尠(すくな)いので三十人に近い教職員は、毎日無為に苦しんだ。そして生徒等も気乗がしないで毎日遊んでしまった。

 生徒の中にはお寺の学校の方が面白いと云って学校を抜けてお寺の方に行く者さへ出来て来た。校長は毎日のやうに町役場に出掛けて、善後策を打合せた。然し町長の高島にも別に名案はなかった。それ所ではない、税金不納同盟が長引く為に、教員の月給さへ支払ふことに困難を感ずるやうになってゐた。

 それで高島町長は止むを得ず、威嚇的に強制処分を断行する決意をきめた。そして、四月二十九日突然、県警察部の援助を求めて、杉本商店を初めとし、黒衣会の幹部七名の自宅に執達吏を差向けた。

 何も知らなかった父の理一郎は、箪笥や鏡台に封印の貼られるのを見て泣き出した。執達吏の帰った後、父理一郎は息子の所に飛んで行った。

執達吏がたうとう来よったぜ、どうしたら善いんや?』
 さうした父の問ひに対して、英世は軽く答へた。
『するやうに為せたら善いんさ。お父さん、なんぼ執達吏だって、命を取って行くって云やしませんよ』
『それはさうだけど、面目無くってな!』
『面目なんか云って居れば、いつまで経っても町制は刷新されやしませんよ!』

 父理一郎の帰らぬ中に、英世が教へてゐた浄光院の中庭は、執達吏の封印を付けられた黒衣会の仲間の者で、忽ち賑はしくなった。そして、皆執達吏が家に這入って来た時から、出て行く迄の模様を面白さうに語り合ってゐる。

 時々大きな笑の爆発が、庭の椿の枝先を震はせる。春の日はぽかぽかと、徳川時代から建ってゐる古いお寺の表座敷の黄ばんだ障子を照らし付ける。鶏の一群が庭を横切る。燕が軒をかすめて飛ぶ。大勢のものは、芝居でも見てゐるかのやうに、笑ひ興じる。

『鶏や燕の世界にも執達吏は居るやろかな』
 鶏を見ながら一人が尋ねた。
『島の世界に執達吏があって耐るものか。それは人間の世界だけぢゃ』
 その答に大勢はまたどっと笑った。