傾ける大地-34

   三十四

 延び延びになった第二審も、判決の結果有罪と決定した。そして罰念二百円の云渡しがあった。杉本英世は、直ちに大審院に上告することにしたが、弁護士連中は全く悲観的であった。神戸地方裁判所の大きな階段を下りる時、小前博士は彼を顧みて云うた。

『この間、人から聞いたんだが、君に対する圧迫振りは余程露骨であったと見えるね。選挙の前日、君を検束して置いて、憲友派の連中はすぐ、八方に自転車を走らせ「杉本はもう選挙法違反に引懸ってゐるから投票しても駄目だ』と云って、触れて廻らせたんだってね。酷いことやるね! 全く無茶だね! この筆法で無茶をやりよると、国家の前途が案ぜられるね。都会で圧迫すると、すぐ新聞が書くものだから、民衆の知識が余り発達してゐない田舎で、うんと
やるらしいね』

 小前博士は、大きな革の折鞄をを腕に抱き込み、外套の衿を立て、英世と足並を揃へて、裁判所の門を出た。

『実際、無茶もいゝ加減にせんと、国家の前途を謬(あやま)るね、今の先も、弁護士室でみんなで話したのだがね、淡路などは、憲友派と民憲派の勢力競争が激しいものだから、道路が短冊型になって付いてゐるといふことだね。何でも対手方の県会議員を選挙する地方には、道路を少しも付けてやらないで、自党の地盤に属する処だけは広く大きく付けてゐるんださうだね。かういふこっちゃア全く困るね』

 それに応へて杉本は、憲友派が最近、彼の選挙区内に於て計画してゐる色々な土木工事や利権問題に就て、知ってゐるだけのことを話した。小前博士はそれに対して、一々領きながら云うた。

『憲友派の連中ぢやアそれ位の事はやるね』

 電車の停留所に出る迄、二人の会話は続いた。その間小前博士は、最近憲友派を中心として捲き起されてゐる、磯部川水利権問題に就て、いろいろその裏面史を杉本に話した。

『何しろ君、農林次官の印籠を胡麻化し、自党の搾取連の云ふ儘に、県で立てた成案を全部反古にし、絹川一派の政商連に、磯部川の水利権を全部やってしまったのだからね。そのり為に県民の損害は八百萬円を下らないと云ふことだよ。全く酷いことなするね。それには例の志田義亮も関係してゐて、裏面で大に運動した一人ださうだ。何でもその為に志田は家宅捜索を受けたといふことを此の間東京で聞いたが、この次の選挙の時には、志田のやうな男を代議士に
出したらいけないね』

 杉本は磯部川事件の内容に就て少しも知らなかった。幾ら政党が悪い事をする時代とはいへ、それ程迄腐敗してゐるとは考へられなかった。小前博士の言葉は殆ど凡てが彼にとって驚異だった。さうした大鷲の前に甘日鼠のやうな彼が、いと小さき犠牲として粉砕されることは、如何にも当然であるかの如く考へられた。話が少し切れた後に、小前博士は彼に尋ねた。

『磯部川事件に土肥謙次郎といふ男が、関係してゐるやうに皆が云うてゐるが、土肥っていへば、君、高砂の男だね、高砂にはそんな実業家が居るんかね?』

 それに対して杉本は答へた。
『それは何でせう・・・志田と土肥の関係でせう? 志田は土肥の財力を背景にして、色んな事をやってゐるやうです』

『何かね、土肥の娘といふのが、正親町男爵の処に貰はれて行ってるのかね。その正親町といふ男も今度調べらられたらしいね』

 杉本は思ばざる処で、彼の古傷に関係のあることを持出されたものだから、胸をどきっとさせた。それで彼は正親町男爵とその瀆職(とくしょく)事件との関係を、小前博士に訊き直した。裁判所前の大通りは、代書人の店許りが竝んでゐて、頗る静かであった。英世は脊の低い小前博士がどんな返事をするだらうかと、心持ち仰向いて博士の顔を覗き込んだ。

『東京の評判では、志田が余程甘(うま)いことをするつもりだったらしいね。東洋電力会社の別動隊として、東亜アルミニウム会社といふのを作り、正親町男爵をその社長として、二千万円位の水力電気会社を物にするつもりだったやうだね。正親町が調べられたのはその関係であったらしいよ。何しろ、君、この狭い日本に水力電気の会社が十四五もあって、みんな互ひに競争してゐるのだからね。各々貪欲な代議士連中と組んで、あらん限りの醜行を演じてゐる訳なんさ、全く仕方が無いね』

『余り新聞には書きませんね』
 杉本は訝しさうにさう聞き直した。
『いや少しは書いてゐるのだがね、ちょっちょっと経済欄に出る許りで、三面記事にはならんからね、世間の人は余り注意しないんだよ。然し、東京の弁護士仲間では比の頃この話許りで持ち切ってゐるよ』

 杉本は、自分の恋人を奪ひ去った正親町実世が、瀆職事件に関係して取調を受けてゐることを聞かせられて、多少痛快でないこともなかった。もしかすると愛子が再び彼の懐に帰って来るかも知れないと考へもした。
 電車の停官所で小前博士と別れ、彼は、その儘高砂に帰った。