傾ける大地-33

   三十三

 本町筋は掘り起された儘もう一ヶ月も其儘になって居た。それは姫路の鬼政と呼ばれる山岡政吉が、斎藤新吉を苛める一つの手段であった。その為に愈々三月一日から税金不納同盟が始まった。高島町長は青くなった。さすがの斎藤も多少悄気込んで仕舞った。

 一方、堤を中心とする黒衣会の連中は角丸商会を産業組合に引き直さうと一所懸命になってゐた。そのために杉本は朝早くから晩遅く迄、自転車に乗って農村を馳けずり廻った。杉本の理想では、加古川の流域に模範的なデンマーク式農村経営をやって見ることにあった。

 それは先づ杉本肥料商店を肥料購買組合に引き直し、角丸商会を生産販売組合に引直して、農業倉庫の事務所をも兼ねて執ることに仕度いと考へたのであった。農民組合員は、加古川の流域に五千人近くもあるものだから、それ等の人々を説いて廻りさへすれば、相当の結果は得られるだらうと彼は考へた。

 彼は協同組合を作る傍ら、宗佐の丘の上に、農民学校を創設してデンマーク式国民高等学校を作り度いと云ふ希望を持って居た。彼は自転車で村々を走り廻る間、何日もさうした空想が彼の胸に湧くのを覚えた。

 三月の初めであった。浜の角丸商会で事務の整理を助けて居ると、漁師の一団が這入って来た。そして彼に是非漁業組合の組合長になって呉れと要求した。それはなんでも斎藤一派が漁業区域を独占して、トロール網を入れる計画があると誰からか聞いて来た為であることが判った。
彼等が帰って間もないことであった。写真屋の堤が、ひょっくり店に顔を出した。そして来合せた倉地と売りに出た家のことに就て話して居る。倉地は杉本を顧みて尋ねた。

『杉本さん、あなた小さい家を一軒買ひなはらんか、安い家がありまっせ。平屋造りの家を百五十円で売りますと、壊して来て自分で建てるのも面白いですせ!』

 話はすぐに纏まった。杉本は其古家を買うて、倉地の持って居る、加古川の堤防の下の牧場内に建てることにした。父の理一郎は喜んで百五十円を彼のために出資して呉れた。三月八日には、その古家の瓦から古石までが全部倉地の牧場まで運ばれた。それを杉本英世は何一つ人から補助を受けないで、独り手で建てゝみることにした。彼はさうすることによって、コンコードの聖者エマーソンの弟子トローの後嗣が出来るかと思った。

 杉本の店は余りに暗かった。南は、全部塞がれてゐるし、西には大きな倉庫が二つも建ってゐて、英世が書斎にしてゐる部屋などは、真昼の間たけ僅かに電燈なしに、書物を読むことが出来るのであった。

 それで彼は自分の健康の為にも、米国のトルドウ博士が主張してゐるやうに、光線と空気療法をやる為に、何処かの海岸に小屋掛けして、呑気な生活をすればよいと考へてゐた。それが今実現することが出来るのを見て、嬉しくて耐らなかった。

 彼が百五十円で買うた平屋と云ふのは、堤の隣の自転車屋が、今度、西洋造りに建て変る為に、その離れ座敷になってゐたものを、取壊したものだった。二間に一間半の六畳敷一間しかない小さい家ではあったが、離れに建てられてゐただけに、材木は余程いゝものだった。瓦も確かりしたもので、新しく買へば坪十二三円もするだらうと、堤は云うてゐた。

 杉本は、病後これといふ収入も無かった。然し、食ふだけ位のことは父の家でも別に不自由を感じなかったし、角丸商会は父の関係もある為に、少しの手伝をすると、日当として一日二円位の平均で、彼に小使を呉れる約束になってゐだ。

 健康もだんだん快復して、少し無理をしても、余り疲労を感じなくなったものだから、彼は、農村改造の運動に非常に趣味を感じるやうになった。で、村の人に適する村落生活の模範住宅を一軒建てた上で、みんなにその模倣そして貰はうといふ考を持ってゐた。その幻が今実現して、六畳敷であるとは云へ、兎に角彼の家が与へられ、其処で、彼は静かに、思索に耽ることが出来ると思ふと、嬉しくって耐へられなかった。

 彼は堤の下の砂丘の傍に、新しい彼の「御殿」の敷地を決定し、鎌でその辺りを先づ打開き、縄を張って位置を定め、立った儘黙祷して、ひとりで地鎮祭を執行した。

 四辺は葭(よし)ばかりで、木は一本も生えてゐなかった。本当に殺風景な処で、まるで沙漠の真中のやうな気がする所であった。トローはワルデンの森に、栗鼠や鹿を友として、一年半を送ったといふが、それに比べて彼の理想郷は、余りに殺風景な処にたてねばならなかった。

 左手を大きな堤が眼界を区切り、後の方は、乳牛が三匹這入ってゐる荒壁塗の牛舎が、半丁許り隔てゝ建ってゐた。右の方は、一丁位行くと、港になってゐる堀割で、その堀割を斜に渡ると、角丸商会の事務所に、すぐ行けるやうになってゐる、

 少しも詩的な所は無かった。然し彼はわざとその場所を選んだ。否、其処を選ばざるを得なかったのだ。第一、その他に土地を貸して呉れる所がなかったのが一つ、第二には、家が近くて便利であること、第三はさうした殺風景な処でも、手の入れやう次第でどんなにでも美化することが出来ることを村の人達に見せてあげたいと思ったこと。これらの原因がこの沙漠に彼を追ひ込んだのであった。

 それで彼は南側を総硝子にして、北側に押入れを付け、西側に入口を、東側に大きな窓を、そして北側の偶に便所を付けることにした。彼がこつりこつり余り馴れない仕事をひとりで為てゐると、倉地に聞いたと云って、初田伊之助が仕事を休んで手伝ひに来てくれた。

 初田は器用な男で、榎本よりは仕事の段取が上手であった。彼は、角丸商会の荷車を借りて、四隅の柱の下になる台石を買ひに行ってくれた。四隅の石が加わると、初田は次から次へと、木を組合せてくれた。そして三時間と経たぬ中に、棟上が出来るやうになった。

 其処で一休みして、角丸商会から、昼飯時に休んでゐる榎本や、その下に使はれてゐる二人の番頭を呼んで来た。そして、棟上の手伝ひをして貰った。

 川の方から爽かな微風が吹いて来て、棟の上に上った杉本の頬ぺたを撫でた。杉本は天を仰いで春の真昼の太陽に感謝した。それから彼は、大勢と一緒になって、屋根板をベタべた釘で張り付けた。見る見る中に家の形が出来てしまった。

『トタン張にしておけば、もう今夜此処で寝られますなア』
 さう云って初田が杉本をひやかした。榎本の一隊が帰った後、杉本は初田に手伝って貰って、床を張り詰めた。それだけでその日は暮れてしまった。

 小さい家ではあるけれども、杉本がその家に寝られるやうになる迄、彼れ此れ十五日掛った。屋根を葺き、壁を塗り、押込を付け、入口にヴランダを取付け、アンペラで天井を拵へ、周囲に藤の棚を造る為に、不思議に日は早く経ってしまった。独りで基礎工事から屋根葺きまでやってみると、家全体が自個の拡張であるやうに考へられて、実に愉快で耐らなかった。彼は一生を通じて、小屋を建てゝ居た二週間位、愉伏な日を経験したことはなかった。彼は立体的の芸術家であることを自ら認識した。

 彼はどんな庭をその周囲に造らうかと苦心した。どんな森をその周囲に造らうかと色々考へてみた。彼は初田に合歓木(ねむのき)が砂地によいと聞いて、合歓木を彼の家の周囲に植ゑることにした。彼は、ビール箱で机と椅子と本箱を作った。

 ビール箱を二つ合せて、その横に蓋を打付けると、立派な大きなテーブルが出来た。ビール箱を半分に切って、その後に板を打付けると、立派な椅子が出来た。唯一つ困ったのは電気燈であった。砂原の真中にあるものだから、電柱を一本建てないと、電線を引いてやらぬと電燈会社は応じてくれなかった。それで彼は、十五円はり込んで、大きな電柱を一本立てた。彼は塒(ねぐら)の出来ることを非常に楽しみにした。それは人家から遠く離れて、おけいと楽しく二人で暮し得る可能性が、日一日多くなったからであった。