傾ける大地−32

   三十二

 第一審で有罪に決定したとは云へ、英世にはまだ県会に出る資格があった。それで二月廿一日に開かれた臨時県会に彼は出席することにした。通常県会は十二月一日に開かれたが、九月末の総選挙で改選になった議員八十六名の中、憲友、民憲両派が相半ばし、県会は乱闘に続くに乱闘が惹起(じゃっき)され遂に知事の命令で一時停会となり、予算の決定を見ないで審議を今日まで延ばして来たのであった。

 その後、民憲派の議員に死亡者があったり、憲友派に買収せられるものなどがあって、憲友派は県会に於て絶対多数な占めることゝなったものだから、知事は安心して再び県会を開くことにした。

 英世の受げた県会の第一印象は悪かった。県会議員で酒を呑んでゐない者は、殆ど彼一人でたった。余りの不真面目に開いた口が塞がらず、真面目に予算審議をする勇気も出なかった。

 一日もこの不景気に、憲友派の積極政策を一枚看板にして、四百万円の膨張予算を立てゝゐる知事の公示した予算案には、現内閣に対する知事の奉公振りが鮮かに見えて、寧ろ知事を不憫に思ふほどであった。討論してゐる間、杉本は黙ってゐた。それと云ふのも、第一審で有罪に決定してゐるといふことが脅迫観念のやうに彼を押へ付けて彼に発言をするだけの勇気を与へなかったからだ。

 英世の眼には、知事が蛇の生れ変りのやうに見えた。亦、内務部長や警察部長が、蝸の子どものやうに見えた。二代前の知事が、百五十万円を張り込んで建てた四階建の大きな県会議事堂も、彼には一個の牢獄と見えた。八十許り竝んでゐる頭が、泥水を詰めた徳利のやうに考へられる。みんな何故生れて何故に政治をとってゐるか、それをも意識しないで、唯徒らに喧騒を極めてゐるやうに考へられてならなかった。

『大きな猿芝居ですなア』

 さう姫路の区裁判所の中で、算盤工組合の高瀬源吉が、彼に囁いたその声が、まだ耳に残ってゐる。議員等はみな猿である。資本主義の制度にあやつられて、人類の帰趨も理解しない似人猿類が、ほろ酔ひ加減で芝居してゐるのだと思ふと、馬鹿臭くて長く議席に止まってゐることが出来ないやうに思はれた。

 議場だけは素晴しく美しく出来てゐる。モザイックの天井の円窓かう採った採光の具合、雛段のやうになった議席の按配、美しく磨き上げられた議長席と番外議員席の机、敷き詰められた絨毯の上の唐草模様、凡てが芸術的に凡てが文化的に出来てゐる。然し其処には、何等の宗教的深みもなく、哲学的背景も見えず、唯、時代の唯物的生産の形式の上に湧いた虫が、ぐたぐた云ふ猿芝居にしか過ぎないと思ふと、議長に向って、氏名札でも投げ付けてやりたいやうな気がしてならなかった。

 それでも彼は辛抱して、長ったらしい憲友派の親玉、海野房之助の予算原案賛成説に耳を貸すことにした。聞いてゐても詰らないから、彼は議席にいろいろな楽書をしてゐた。海野は頻って産業立国の必要を述べ、道路政策の緊要なる理由や、警察費膨張の己むなきことを力説してゐる。余り下らないから弥次ってやらうと思った処が多くあるけれども、それも詰らないから止めとしまった。何となしに政治が厭になる。アナキストの気持になる。何もかもぶち壊したいやうな気がする。地軸の中心にダイナマイトを据ゑて、地球を爆発さしたくなる。

 そんな事を考へてゐると、机の上に愛子が悄(しょ)げてゐる姿が見えて来る。その次におけいの肉附のいゝ大きな顔が現れる。

 全地球と、愛子とはどちらが可愛い? 口惜しいやうに思はれてならない。おけいが、凭れて来る身体の重みが、幻想的に感ぜられる。

 そんな空想に耽りながら、少し眼をつぶってとろりとしてゐると、隣の議席で、
『失言取消せ!』

 と大声で叫ぶ者がある。ふと眼を醒して見ると、早もう議場は大混乱である。高砂選出の大谷真造が、議席に躍り上って、海野房之助の胸倉を引掴へて大喧嘩をやってゐる。それを取囲んで、憲友、民憲の両派が、十二月の県会の騒擾をむし返して、大乱闘を彼方にも此方にも演じてゐる。高い所から見てゐた英世は、

『またか、矢張り猿芝居だわい、歯と爪の尖つだ猿が勝つんだ、馬鹿らしい喧嘩するものは喧嘩しろ。俺はもう政治に絶望した。つまり支配したいと思ふから、こんな事になるので、御互ひに仕へようとする意志を基礎とする運動であるなら、斯うした混乱は起らないのだ。根本の問題は、支配せんとする欲望より、奉仕せんとする欲望へ転向しなければならないのだ』
こんな事を考へながら彼は、冷然として、議長席の方を睥睨(へいげい)してゐた。すると神戸新聞の記者がやって来て、

『御感想はありませんか?』
 と、聞くものだから、

『別にありませんね。県会は喧嘩議会ですからね。少しやらんと気が済まんのでせう!』

 さう云って大声で笑って後を濁すと、その新聞記者も笑ひながら向ふに行ってしまった。巡査が這入って来る。警察部長が飛込んで来る。知事が慌てゝ逃出す。議長が大きなベルを何度も鳴らす。混乱が続く。議長の散会の宣言が、三度も大声で叫ばれる。それでもとっ組合ひがまだ静まらない。

 杉本は余り詰らないから、その日はその儘高砂に帰って来た。帰ってみると、おけいから厚ぼったい手紙が届いてゐた。それには、何故近頃会ひに来て呉れないのか、といふ怨みたらだらの文句が竝べられてゐた。夕刻頃、彼が店先に坐ってゐると、綺麗な納戸色のお召の着物をきたおけいが、店の中を覗きながら往ったり来たりゝてゐる。初めは棄てゝおかうと思ったが、余り可哀相だったから、彼は、おけいを店に呼び入れた。

 店に這入って来たおけいは、立った儘、恥かしがって、どうしても腰を下さうとはしなかった。五分位彼女はもぢもぢしてゐたが、まだ懐から一通の手紙を取出して、彼に手渡したまゝ逃げ出すやうに帰って行ってしまった。その姿が余りにいぢらしいので、彼はすぐその手紙を懐にして、彼女の後を追っかけた。

 街には、もう電燈が所々灯いて、西は赤く焼けてゐた。道々おけいの手紙を読んでみると、

『あなたに添ひ遂げられないなら、もう生きてゐる効がないから、死んでしまはう』と書いてあった。無学な何も解らぬカフェの女給ではあるけれども、斯う思ひ詰められると、流石の英世も考へざるを得なくなった。死なしてしまふのには、余りに惜しい。然し一生の妻としては、余りに無学である。婀娜(あだっ)ぽいことから云へば、愛子に較べて遥かに優れてはゐるが、余りに職業的になったその態度には、何だか杉本の好まない処があった。

 勿論、童貞の所持者ではなからうし、一生を通じて貧乏に甘んじるかどうか、その性格にも疑はしい点が多くみった。然し思ひ詰められると、慰めてやりたいやうな気がする。理屈なしに凭れて来た彼女に対して、理屈なしに愛してやりたい。

 彼は次郎助町の東洋亭まで、そんな事許り考へながら歩いて行った。そして、おけいが居るかどうかを尋ねた。お花が出て来て、愛想よくおけいを呼びに、二階に飛上って行った。然しおけいはどうしたことか降りて来ようとは云はなかった。それで英世は、充たされない心持で東洋亭を出た。浜に廻り、ゆっくり散歩して、人の顔が見えない程暗くなってから家に帰ると、店の戸口におけいが待ってゐた。

『おけいさん、そんな処で何をしてゐるの?』

 さう云って近づくと、おけいは、英世の胸に摺り寄って唯泣くのみであった。

『ぢゃァ、散歩しよう』

 英世は、堤防の上を二人で散歩しようと、人通りの少い裏路を選って、加古川の堤防に出た。二人で歩いても、おけいは一言半句物を云はなかった。実際話題と云っては何も無かった。

 只おけいは、杉本の返事を待ってゐたのであった。彼は外套を着て来なかったから、川伝ひに海から吹いて来る風が、迚も寒く感ぜられたが、おけいも嚔(くさめ)を連発してゐた。それで二人は寄り添って、ダンスをしてゐるやうな姿勢をとって並んで歩いた。堤防の上を五六丁も歩いたと思ふ頃、おけいは彼を見上げて尋ねた。

『手紙お読み下さいまして?』

 おけいは、英世に抱かれて歩くことが余程幸福であったらしい。さう云った声が如何にも冴えてゐた。恋人としてではなく、唯一人の処女として愛する気で居る杉本にとっても、斯うした瞬間が幸福でないこともなかった。風は寒くはあるけれども、相接近して歩くと、柔かいおけいの肌が、直接彼の五体に触れて、彼女の温味が洋服の上衣の上からでも感ぜられた。

『勿論読みましたよ、随分長い手紙だね』
『御返事戴けませんか?』
『返事って何に?』

 その声を聞いておけいは、杉本の腕を振切って立止ってしまった。
 そして顔を袂で覆うて泣き出した。それには杉本も弱ってしまった。

『おけいさん、どうすれば可いって云ふの? そんなに僕を困らすもんぢゃないよ。僕が独身で送るつもりだったら、君はどうするんだね。僕は今結婚が厭なんだ。君一人熱心になったって仕方がないぢゃアないか。カフェに遊びに来いと云った処で、僕は酒も呑めないしさ、ぼんやり遊びに行かれもしないぢゃないか!』

『私は何も結婚して下さいと云うた党えはありませんよ。唯「愛してやる」と一言だけ云うて下されば、私は満足するんです』

 あまり暗いので、おけいの美しい顔の輪郭も見えず、杉本は少しも性的の昂奮も感じない。彼は、愛子と二人でよくこの堤防の上を散歩したことを思ひ出して、今も猶、愛子がその辺りに持って居るやうに考へられて、本気でおけいを愛することが出来なかった。

『あなたは、私をお家の女中にして下さることが出来ませんか?』
『女中? あなたの手にひゞを切らして水仕奉公が出来るかい?』

『出来ますとも。私は女給になる前、大阪の泉尾の郵便同長さんの処で二年余り、女中奉公してゐたんです。然しをこの大旦那が妙な事をしやはるよってに、帰って来たんです』

 さう云っておけいは、道の真中に蹲(うづく)まってしまった。

『寒くないの? そんな処で蹲(しゃが)んぢゃったら風邪ひくよ!』

 彼女は沈黙して何も答へなかったが、一分位経って、

『どうせこの世に用事が無いんですから、風邪ひかうと、水に溺れようと、私は出来るだけ早く寿命を縮めたいんです!』

 余り無茶を云ふので、杉本は余程振り捨てゝ帰らうかと思ったりなどした。然し考へてみれば如何にも可哀相なので、おけいの右腕を捕へて、無理にも立上らせた。それからおけいは、杉本に引張られながら、また堤を川下の方に歩き出した。

『ではね、あなたは私を妹のやうに可愛がって下さることは出来ませんか?』
『そんな事は容易いことだよ。それ位のことで君は満足するのかい?』

『満足しますとも。満足しなけりゃ、仕方がないんですもの。私はあなたのことを皆よく知ってゐるんですよ。此の間も家へ帰って、お隣のおかみさんに皆聞いて来たんです。それで私はあなたに同情してゐるんですよ』

『えらい同情だね』
『ぢゃア、あなたは私の兄さんね』
『うム、君は僕の妹だよ』
『あゝ嬉しい!』

『おい、おけいさん、君は僕が県会議員になったから、僕を崇拝してゐるのと違ふか? そんな事だったら、今度僕が県会議員を止めたら失望するぜ』

『ちっとも失望なんかしゃしませんよ。私はあなたが乞食であっても、恋する時には恋しますよ』
 それを聞いて杉本は大声で笑った。
『えらいこと云ひよるね!』

 闇の中に、広い二丁もあらうと思はれる加古川の川底だけが白く光って見える。針の先で突いたやうな小さい星が、まばらに雲間から覗く。妹にしてやると云ってみたものゝ、愛子よりは遥かに若い濃艶な娘と一緒に歩いてゐると、更に深刻な衝動が、杉本の胸の中に湧かないものでもなかった。

 それで彼は、おけいを竪く抱き〆めて、接吻の一つでもしてやりたいと思った。然しまた考へ直すと、さうすることが何だか詰らないやうに思へて、敢て積極的な行動もとらなかった。妹にしてやると云ってからおけいは急に元気付いて来た。そして、彼女と滝村の関係をいろいろと評説し始めた。

 それはカフェにありさうな話で、杉本には面白かった。一時間半位も堤防の上を散歩してゐたであらうか。何だか辺りがしいんとして来た。その間、彼等は、誰一人にも逢はなかった。冷気は一層加はって来た。杉本は風邪をひきさうになったので帰らうと云ひ出した。で、また相生橋の方まで歩いて帰った。

 橋の袂の電燈で、おけいの顔を初めてすかして見たが、彼女の顔は、高砂地方では見られない程の美しい顔であった。それは愛子に比べても数段美しく見えた。その眼、その鼻筋、その頬ぺた、そして、絹のやうに柔かい皮膚脂・・・英世は衝動的に瞳の中に捻ぢ込んでやりたいやうに思ふた。

 今迄毒婦型だと信じ切ってゐた彼は、一時間半の会話によって、おけいが実に優しい女性であることを発見した為に、愛子以上に愛してみる気になった。それでおけいと別れることが惜しくなった。杉本はまたおけいを誘うて、相生橋を東へ渡った。そして、電燈の下に来る度毎におけいの顔を覗き込んだ。いつ見てもおけいの顔が光ってゐる。次の電燈が待ち遠しい。

 相生橋を渡ってしまふ頃には、彼はもう完全に、おけいの奴隷であった。それから二人は手を繋いで、曾根まで歩いた。其処で電車に乗り、別府で降りて、二人は小さい宿屋に落着くことにした。