傾ける大地-27
二十七
其処へどやどやと、六人連れの一行が這入って来た。
『いらっしゃい!』
と細見の傍に腰を掛けてゐたおきんが、疳高い声で叫び乍ら、入口に近いテーブルに彼等を導いた。彼等は、演説会の帰りと見えて、話は選挙の事ばかりであった。
『全く乱暴だね』
『さうかなア、内務部長といふ奴も怪しからぬ奴ぢゃなア、そんな事をするかね、其奴は露骨だね』
さう一人の男が云ふと、もう一人の男が、椅子に腰掛けながら、『僕も癪に触ってね、余程その場で怒鳴ってやらうかと思ったのだけれど、まあ遠慮した訳なんだ。今頃道路視察もあるまいぢゃないか。道路視察なら一人で行けばいゝに、高島を連れて歩かなくともいゝ訳だがなア、それが君、十六ケ村皆廻ったと云ふからなア、選挙干渉もこれ迄徹底すりゃア、勲章が貰へらあ。多分内務大臣の上野義光が訓令したのぢゃろが、憲友派もやりよるね』
一人の者が、ウヰスキーを注文した。おきんは黙って、帳場にそれを取りに行く。
後からまた二人の客が這入って来た。そして、テーブルが皆ふさがってゐるのを見て立去らうとする。それを一等奥のテーブルでお酌をしてゐた、おきみと云ふ女給が、大声で呼び止める。そして、細見の前のテーブルに導く。この二人も選挙演説会の帰りらしい。頻って演説会の噂をしてゐる。
『無茶ぢゃなア、君、あんなに圧迫したら、却って民衆の反感を買ふだらうがなア』
さうした言葉を耳にした細見は、
『どうかしたんですか?』
と、その男に訊き質した。
『杉本の応援演説は皆弁士中止で満足に話したのは、大阪がら来た小前博士だけでしたよ。杉本さんの演説迄が、弁士中止だからたまりませんなア、あんなに圧迫してもい善いもんですかなア? 却って民衆の反感を買ふやうに、僕等には思へまずがなア』
後からまだ一人の客が這入って来た。そして、六人組に加はった。その男は大きな声で、報告めいたことを云うてゐる。
『警察の前は人だかりで一杯だ。何でも滝村の算盤工組合の幹部が検束せられたのを、奪還すると云って、組合員が押掛けて行ったらしい。あんなに圧迫せられらや、無産政党も耐らないね。何でも警察では、杉本一派を徹底的に叩き潰すらしいぜ・・・憲友派は、今夜当り徹夜して、買収に取り掛るといふ評判だね。一票三円位だと云うてゐるよ』
彼の声が余り大きいものだから、細見も入口の方に振向いて、耳を澄まして聞いてゐる。
亦、表のドアが開いた。
『いらっしゃい!』
と、柱に懸ってゐる細長い姿見で、髪の格好をつくろってゐた、おつなといふ女給が、声をかけた。這入って来たのは、男かと思ふと、子供連れの女であった。年格好は三十五六と見える、上品な、世話女房風のところがあった。彼女はおつなの所まで近づいて、小さい声で、
『滝村は、こちらに来て居りませんかいな? ちょっと急用がありますので、居処が判れば教へて頂きたいんですが』
と、もの静かに尋ねた。おつなはすぐ、おきんに眼で合図をした。おきんはつかつかと彼女の処に近づいて云うた。
『先前お見えになってゐたやうですが、何処かへお出ましになったやうですよ』
さう教へられて彼女は、叮嚀にお辞儀をして出て行ってしまった。彼女が帰って間もなく、またすぐに大きな木推頭(さいづちあたま)をした、伊藤唯三郎が這入って来た。彼は町内の有力者でこの辺りの家は大抵、彼の所有に属してゐた。彼はつかつかと、帳場まで進んで行って、女主人公に尋ねた。
『滝村さんは此処には来なかったかいな? 今夜のやうな晩に、事務所へ顔を出してくれんと、ほんとに因るんぢやがなア』
女将は叮嚀にお辞儀をして、おきんを呼んだ。
『二階に滝村の旦那がいらっしゃるかどうか見ておいで』
おきんは二階に上って行った。
『あんたん処は高島に入れて呉れるだらうな?。頼んどくぜ。杉本のやうな悪い男に入れちゃいかんぜ』
おきんはすぐ二階から引返して来た。
『滝村の旦那は、鼾かいて寝ていらっしゃいますわ』
『困るなア、明日は投票日で今夜は徹夜して廻るって、皆で手分けしてるのに!』
さう伊藤は独言のやうに云うた。
『旦那今度の選挙は、えらい規則が難しいといふぢゃありませんか。今迄と違って戸別訪問が出来ないやうでございますなア』
『何アに、そりゃ表面さ。選挙委員が出来ないばかりで、我々がする段になりゃ、何のことはない。警察も署長もみな此方に付いてゐるから』
『これが大分要りまっしゃろな!』
女将は、親指と人差指で輸を作りながら、にたりと笑った。
『ハ、ハ、ハ、ハ・・・』
伊藤は豪傑笑ひをして何も答へなかった。帳場に居る人が、伊藤唯三郎だと知った、御用記者の細見徹は、静かに歩み寄って、叮嚀に挨拶をした。
『どうですか形勢は?』
『やア君か、杉本が今日は取調べを受けたって云ふぢゃないか!』
『さうですってね、例の算盤工組合の違反事件なんですが、ありゃ物になりますぜ!』
フランス刈にした頭髪を、片手で撫で上げながら細見はさう云った。
『何でも、さうあってもらはんと、こちらの形勢は少し悪いやうなんでなア。今日も、或方法をとってゐるんぢゃが、肝腎の会計役の行先が解らんのでなア、みんなで手分けして探してゐるやうな始末なんだ』