傾ける大地-26
二十六
狭い部屋の中は、煙草の煙と、白粉の薫と、酒の香と、コーヒーの厭に焦げたやうな勾ひで一杯であった。煙草の烟を通して、乳色の光線が鈍く流れた。
女給等は正月だと云って、本町筋の呉服屋から、月賦で着物を買ひ整へ、皆きらきらした衣裳を着けてゐた。その中でも、おけいは、どうして手に入れたか、小粒のダイヤモンドの這入った帯〆まで着飾って、せきせい鸚哥(いんこ)のやうに、彼方のテーブルから此方のテープルへと、魅惑的なその瞳を持ち歩いて、カクテルの対手に飛び廻った。
下手なピアノの弾奏、甲高い女給の喚さ。
『いやよ!』
一人の酔払が、美しい女給に、妙な態度をとる、それを追払った女給の声である。七つばかり据ゑられたテーブルに、客としては、六七人しか這入ってはゐなかったが、女給は、十人位も居たらう。
視線は、瞬間的にその酔払に集った。酔払は誰あらう。町の放蕩児として知られてゐる滝村喜一その人であった。滝村には、もう一人の連れがあった。それは飲み助で通ってゐる細見徹であった。滝村は近頃、このカフェの女給をしてゐる佐野けいに夢中になってゐた。それで、憲友派の侯補者、高島頼之の選挙委員として働くよりも、寧ろ、東洋亭に来て、おけいに対手になってゐる方が多かった。おけいが締めてゐるダイヤモンドの帯〆も、実は滝付が暮れに買うてやったのであった。
細見は、放蕩児の滝村に喰付いて居れば、幾らでも呑めるものだから、近頃は殆ど朝から晩迄、彼にひっ付いてゐた。
おけいは滝村に熱心ではなかった。滝村は歴然たる妻子のある身分であり、他に二三、町芸者との関係があることを知ってゐるおけいは、唯職業的に、対手になるにしか過ぎなかった。滝村は、借家の収益だけでも、毎月五百円を下らない金持であった。そのことを知ってゐる他の多くの女給は、殆ど競争的に滝付に近づいた。お花、おきんなどが、特に熱心であった。
お花は見ようによっては、おけいより美しい顔だちを持ってゐた。然し、彼女はおけいに較べて六つも年上で、一度結婚して、今年四つになる子供まで生んだ女である。それが離縁になって、子供の養育費に困った為に、女給になったといふ噂であった。その為で、あるか、男の機嫌をとることには、一種の技量を持ってゐた。滝村は、お花の過去を知ってゐるだけに余程警戒した。然し酔うてくると、彼はところ嫌はず乱暴をするのが常であった。
細見は、滝村の醜態を見るに見かねて、滝村の注意を転換させようと努力した。
『おい、おきんさん、賭しようか、賭を』
さう云って細見は、彼と滝村の中間に坐ってゐるおきんを顧みた。
『賭って何だんの?』
髪を七分三分に分け、廂を高く結ってゐるおきんは、口に街(くは)へたシガレットを唇から離して、尋ね返した。
『君は、誰が勝つと思ふか? こんどの選挙は』
それを聞いた滝村は、急にお花の頚から手を離して、細見を顧みて云うた。
『そら、高島が勝つ! 俺は高島に賭けるぞ! (お花を顧みて)あんたも賭けんかい?』
『よし、君は高島に賭けるな、おきんさんは誰に賭けるのや?』
『うちは、誰々が候補者や知りまへんがな』
おきんはとぼけたやうな顔をして、さう云った。それを聞いてお花は、おきんに云うた。
『あんたも呑気な人やな、町がこんなに騒いでゐるのに、あんた、候補者の名前さへ知らんの?』
さう云ひ捨てゝ、お花は滝村が黙って差出したウヰスキーのコップを持って、帳場の方に立去った。滝村は、おきんの無智を罵るかのやうに、大声で叫んだ。
『これぢやァ、婦人参政権もまだ早いなア、僕等は、君等に婦人参政権をとってやらうと思ってゐるのに、現在この町で、こんなに猛烈に我々が戦ってゐる、その選挙戦の事実さへ知らん婦人があるとしては、日本の婦人もまだ駄目だね!』
滝村の声が余り高いものだから、店員らしい男に対手になってゐたおけいは、フェルト草履を引張りながら、滝村のテーブルに近づいた。そして空いてゐる椅子に腰を下して、滝村に云うた。
『何ンだんの? えらい此処は景気がいゝぢゃおまへんか?』
『おけいさん、あんた知っとってか、候補者の名前をみんな?』
おきんは、さうおけいに尋ねた。
『うち知てるわ』
『ぢゃア云ってみろ!』
さう滝村は突込んだ。
『高島さんは憲友派の候補者でせう? 民憲派からは大谷真造さんが出てゐて、中立からは消防組合の水野繁太郎さんが出て、無産政党からは杉本の若旦那が出てゐるんでせう?』
『こら偉い!』
細見は、おけいの答に吃驚したやうだった。
『それ位のこと知ってゐますよ』
滝村はすぐおけいに尋ね返した。
『おけいさん、ぢゃア誰が勝つと思ふか、賭せんか、賭けを。わしが負けたらム金の指環を一つはり込んでやるよ。君は誰が勝つと思ふか?』
『きっと金の指環を買うてくれますか? きっとね?』
さう云ってゐる所へ、お花がウヰスキーのコップを持って来た。
滝村はそれを受取るなりすぐ一口に呑み干して、おけいに云うた。
『嘘云ふか? 俺が?』
『ぢゃア私が負けた時にはどうしたらいゝんです? 私は何もあなたに上げるものは無いわ』
『うむ、ぢゃア、かうしよう。君が負けたら、わしの云ふことを聞いて、岩屋へ一晩泊りで遊びに行くことを約束しろよ』
お花とおきんは、その言葉を聞いて、異口同音に叫んだ。
『うちも連れて行って欲しいわ!』
『私はもう先に負けとくわ!』
『これぢゃから困るね、女は』
細見は如何にも傲然と、煙草の煙を一息に鼻から吹出して、さう云うた。
『旦那は高島さんでせう。・・・細見さん、あなたは誰が贔屓(ひいき)なんですか』
『勿論高島だよ。高島が勝たなくっちゃ誰に勝たすんだい! 君、誰が勝つと思ふか?』
『私はね、滝村さんが怒るからもう止めときますわ』
『卑怯ぢゃなア!』
細見はを手でウヰスキーを呑み干してさう云うた。
「わしは、怒らしないよ。賭けぢゃないか、誰でもいゝから名前を云へよ』
滝村は、細い眼を更に細くしてさう云うた。
『云へと云へば云へよ、賭ぢゃないか』
『いやよ、あんたに殴られると怖い』
『をかしい奴ぢゃなア1』
酔うた滝村は、おけいの身体に触れたいばかりに、理屈を付けておけいに接近して来た。彼はいきなり、おけいの両腕を摑へて、
『云へって云へば、云へよ!』
『ぢゃあ、云ひませうか?』
お花は添口をして云うた。
『云うたらいゝんだわ。賭に相手が無かったら詰らんぢゃないの』
『ぢゃア云ひますよ・・・私は屹度杉本さんが勝つと思ひますよ』
さう云うておけいは、仰向いて床板の上に唾を吐いた。細見は滝村の顔を見て、
『えらいこと云ひよった・・・杉本はえらい所に同情者を持ってるなア。おけいさん、あんた杉本さんを知っとんのかい?』
『はア少し』
『何処でぢゃ』
滝村は不思議さうにさう尋ねた。
『比奴、ますますをかしいぞ、おけいさん、あんた何処で杉本に会ったの? 演説会にでも行ったのかい?』
『いゝえ、会った処は云へないんです』
『えらい勿体振るなア、余程杉本を贔屓してゐるとみえるなア』
おけいはその言葉を開いて、滝村の顔を見たが、彼の顔が曇ってゐるので、すぐ立去らうと席を立った。滝村はそれを押止めて云うた。
『敵と味方ぢゃなア、君と彼とは。俺はもう君に棄てられたのかなア?』
さう云って、滝村は机の上に顔を伏せてしまった。滝村の心理を知ってゐるおけいは、すぐその座をはづして、ひとり淋しく、ビールを呑んでゐる店員風の男の前に立去った。滝村はほんとに泣いてゐた。おけいが或事を暗示する為に、わざと高島の政敵を名指したと考へてゐるらしい。お花は滝村の両手を握って、
『お苦しいんですか?、 二階へ上って横におなりになったらどうなんです?』
その言葉に力を得た滝村は、すぐお花に連れられて二階に上って行った。そして間も無く、お花は滝村の使ひだと云って、
『おけいさん、滝村さんがね、ダイヤモンドの注入った帯〆を返してくれ、と云って居られますよ』
と大きな声で、二階から怒鳴りながら降りて来た。それを聞いたおけいは、白いエプロンの下から、ダイヤモンドの這入つだ帯〆をすく解いて、床の上に叩き付けた。お花は、それを沈黙の儘拾ひ上げて、とんとんと二階に上って行った。おけいは平気な顔をして、お客のコップにビールをさした。