傾ける大地-25

   二十五

『杉本の演説会は、いるも盛んださうだね』

 モーニングを着て町長の椅子に納まった高島は、高等刑事の尾関に、椅子を勧めながらさう云うた。

『実際、うっかりしよると、憲友会は負けてしまひますよ。何しろ、無産政党の方は、口の立つ者ばかりでせう。杉本を初め、弁護士の村田賢二、労働組合の藤本や初田、また応援に来てゐる新見栄一にしても、みな巧いですからなア。山手方面はさうでもないやうですが、海岸の人気と云ったら、迚も素晴しいものですなア。相生でも二見でも別府でも会場の中に這入ってゐる者よりか、外側に立ってゐる者が多かったですなア。全く素晴しい人気ですよ。そして策戦も上手です。大抵一日に、六ケ処位弁論戦を続けてゐますねえ。午後に三ケ処やって、晩にも三ケ処位やってゐるやうですよ』

 尾関は、飲みかけた湯呑茶碗を、口許まで、運んで猶語り続けた。

『実際、平素から組織のある団体には、これからの選挙運動は負けますなア。杉本の方では、農民組合の組織の無い処が、加古郡三町十六ケ村の中、六ケ村だけださうだから、実に連絡がよく出来てゐて、演説会でも何でも、手配りが巧く行ってゐるやうです。それに、矢張り働く者が多いから、ビラ配りでも巧いことやっとります。選挙費等でも、農民組合の組合員が、一円宛醵出(きょしゅつ)したさうですから、元気が全く違ひますね。鳩里村の事務所などに行ってみると、みんな米の持寄りで、三度三度握り飯を作って、まるで戦争に行ったやうな気持でやっとりますが、ほんとに羨ましいですな。・・・そら、憲友会の事務所に行った時と、気分が違ひますよ。此方は滝村のやうに、事務所ヘウヰスキーの壜を持って来て、ちびりちびりやってゐる連中があるかと思へば、二階では朝から晩迄、碁や将棋をうってゐる選挙委員もあるのですからね。少し緊張味が足らんやうです』

 尾関の報告に顔を曇らせた町長は、

『そんなこっちゃ困るね、いゝ弁士は居らんかいな? 昨夜の母里村の演説会は大失敗だったよ、君、算盤工組合が、隣村で演説会をやったものだから、村の青年は皆そっちの方へ行ってしまって、こっちの方はたった聴衆が十六人しかなかったよ。もう吾々の言論では民衆の心を繋ぐことは出来なくなったんだね』

 さう云って、町長は静かに茶を呑んだ。

『今の形勢ぢゃア、杉本が最高点でせうなア。警察本部の方でも、さうした観測をしてゐるやうです。此処で若しも憲友一派が負けたとすりゃ、それこそ大変ですね』

 尾関は、「朝日」の紙袋から、シガレットを一本抜き取ってさう云った。ますます味方にとって不利な形勢を聞かされた高島頼之は、わざと小さい声をして、尾関に尋ねた。

『君、算盤工と云へば、例のあの事件は問題にならないのかい? 署長は何でも、問題にすることが出来ると云うてゐたが、さうして呉れると、此方も大分助かるがなア』

『問題にしようと思へば、出来ますがね。少し上手にやらんと味噌をつけますからなア』
『君、頼むから一奮発してくれんか? 政府の勢力で、ぐわんとやってくれなけりゃ、与党は助からないよ。今度は何しろ、来年の総選挙を控へてゐるからなア、巧いことやらんと、吾々の地盤を失ってしまふことになるから、少し、応援して貰はんと困るね』

『いや、その点はよく心得て居ります。いざとなれば巧いことやります。なに、算盤工組合の幹部は、皆腰の弱い奴ばかりですから、片っ端から検束して、少し訊問しますと、すぐへこたれますよ。そのあたりは、本部の久野君と、よく相談して良い時機を見計らって、積極的に出ませう』

 さう云ってゐる処へ、斎藤新吉が顔を出した。

『高島君、今の先、県庁から電話が掛ってね、内務部長が、君と一緒に、道路視察の名目で、加古郡全体の村役場を廻ってくれると、云うてよこしたよ、・・・そして君、土肥からも・・・確かに受取っておいたよ』

 斎藤は、言葉少くそれだけ云うて、すぐ立去らうとした。彼は高島を小僧にしか思ってゐないのか、如何にも勿体振って、お辞儀の一つしないで、下駄をごとごと云ばせながら戸口の方に出て行く。高島は、斎藤が最後に云った言葉が、少し気になるとみえて、尾関には一言も云はないで、その儘、つと椅子を離れ、戸口迄走って行って、斎藤を呼び止めた。

 『土肥からは幾ら来ましたかね?』

 高島は、人に聞えないやうに、彼の口を斎藤の耳元に当てゝさう尋ねた。

『うむ、五千円だけ!』
『えらい少いなア! それ位の金ぢやア、運動も何も出来やアしないぢゃありませんか!』

『当にはならんけれども、滝村も少しは出すと云ってゐたよ。余り当にはならんけどなア、彼奴は、加古川の砂利採掘権を欲しがってゐるから、その約束さへしてやれば、二三千円は出すだらうと思ふなア、その他にまだ二三出すといふ連中もあるから、まあ心配し給ふな!』

 さう小声に云って斎藤は、町役場を悠々と立去った。彼の後姿を見送った高島町長は、傀儡師(かいらいし)に棄てられた人形のやうに、古ぼけた町役場の玄関口に、竪くなって立疎んだ。