傾ける大地-47

   四十七

 茶褐色に焼けた浜の砂地が、眼を射る。思起された芋畑のひからひた蔓が、高く積まれて厭な臭気を放ってゐる。初めから理想的な所とは考へなかったが、もう少しどうにか出来ると思って、小屋を建てたものゝ、杉本英世が、占有し得た地域は、唯小屋が建ってゐる、僅かな場所だけで、もう少し借りられると思った畑は、交渉が面倒になって、その望を果すことが出来なかった。

 その上、地主である倉地一三の父は、途方もない高い地代を要求して来た上に、厭がらせをする為に、小屋の縁側とすれすれに高い竹の柵を作って、折角美しかった前方の景色をだい無しにしてしまった。

 それに対して英世は、抗議する元気もなかった。初めから一文も地代を入れてないのだし、また地代を払ふだけの金は持ってゐないものだから、所狭く住むより外に仕方がないと別に抗議もしなかった。

 この問題に就て、黒衣会の人も同情を持ってくれなかった。選挙の為にどれだけ無料で働かせても、選挙が済めば皆算盤の人に立帰った。そして一文でも多く利得を出さうと汲々として居た。みんな吝な事ばかり考へてゐる。

『杉本はあの土地を占領してしまふかも知れない。今の中に取返して置かなければ、農民組合の調子で訴訟でもされると、うるさいから、早く立退かせる工夫を考へるんだね』

 榎本定助が倉地にさう云ったといふことを、農民組合の初田伊之助が聞いてきて、

『だからプチブルジョアのやる仕事は、どうせ碌なことはしやしませんよ』
 と云って憤慨してゐた。この話を聴いた日から、英世は高砂に居ることがつくづく厭になってしまった。
『もうこんな処に居るもんぢゃない。土地は神聖でも人間は腐ってゐる。もう少し人間が澄んでゐる所に引越したいものだ』

 こんな事を考へながら、彼は町会議員の選挙が済んでから、十日もぐずぐずしてゐた。一人で立看板を片付けたり、帳簿を整理したり、礼廻りに行く所は礼廻りに行って、尽せるだけの義務は尽した。黒衣会の商売人連中は、選挙が済めばさっさと自分の職業に帰って、後片付のことは見向きもしてくれなかった。

 略々後片刊が済んで、英世は監獄裏に住むやうな気持で、浜の小屋に帰り、「経済心理」の著作を急がうと、ビール箱の机の前に腰を下した。芋蔓の腐敗した香が、ぷーんと鼻をつく。将来のことが不安に思はれる。

 親父にも金を呉れと云ひ出す元気が無い。著作は半分も進んでゐない。罪が重い。思想は纏らない。生活が如何にも無味乾燥に考へられる。堅いビール箱の椅子に腰を下すと、急に疲れが彼の全身を麻痺させてしまふ。

 床の上に倒れて、妄想から妄想に止めどもなく考へ込んでゐると、頭が重くてのぼせるやうな気味がする。何だか手足を縛られて、井戸の中にぶら込まれた様な気がしないでもない。淋しい、淋しい。

『杉本さんは居られますか?』
 さう表に太いベース声で彼を呼ぶ声が聞える。
『人に会ひたくないなア』
 さう考へながら彼は黙って打倒れてゐた。そうすると縁側の障子をちょっと開けて、内を覗く男がある。
『杉本さんおやすみですか?』
 それは確かに、高等刑事の尾関の声であった。杉本は坐り直して、何の用であるかを彼に尋ねてみた。
『また面倒なことが出来ましたぜ。杉本さん、憲友派の連中は、黒衣会の榎本定肋や堤幸蔵他三名を選挙法違反として、今朝姫路の検事局に告発しましたよ』

 それを聞いて杉本は別に驚きもしなかった。彼は折返し尾関にその理由を尋ねた。答は簡単であった。

『それはね。選挙期日告知前の選挙運動が違法であるといふことなんださうです。何でも黒衣会で町会議員候補者の氏名を謄写版刷にして、青年団の幹部や、在郷軍人会の幹部に配ったことがあるさうですね。それを骨董屋の伊藤さんが、昨日何処かで見付けて来よって、早速告発しよったんです。あなたはそれを謄写版に刷ったのは誰か御存知ないでせうなア』

『知らんなア』
 それだけで尾関は帰って行ってしまった。彼はまた其処に倒れて、尾関の云ひ残して行った事件に就て、目をつぶった儘考へ込んだ。そして社会単位の無い政治運動が、如何に誌らないものであるかをつくづくと瞑想した。また表に人声がする。出て行って見ると、恐ろしい風をした、黒波聯盟の北山退助といふ男であった。頭から

『金を呉れませんか、杉本さん、食へないんで困ってゐるのです。あなたは今度の選挙で余程儲けたといふ評判ですから、東京迄の旅費を貰ひに来ました』

 さう云った彼は、猩々のやうに、長く伸びた頭髪を両手で後方に撫で付けた。
杉本は、一円の金も持ってゐなかった。それで正直にさう答へた。
『ぢゃア、あるだけ下さい』
 で、杉本は衝動的に、蟇口を開いて銅貨と銀貨と取混ぜて、七八十銭あった金を全部彼の手にあけ渡した。
『尠いなア・・・』

 さう云った儘、感謝もせずに黒波聯盟の乞食は姿を消してしまった。その日の昼、英世は食はずに居った。然し、ぞれを別に悲しいとも思はなかった。

『一日や二日、人間は食はなくとも死ぬものぢゃない。断食療法をして居ると思へば、胃の掃除が出来て、却って達者になることが出来る』

 そんな呑気なことを考へてゐた。それでも彼は書きさしの「経済心理』の本だけは、何処かで出したかった。弱り目に祟り目といふが、水ばかり飲んで小屋に籠城してゐた翌朝、東京の本屋から不景気で出版出来ないと返事してきた。

 それは何よりも彼をがっかりさせた。彼は気が遠くなったやうな感じがして、その日の昼は親父の所に行って昼飯を食はして貰った。然しまた小屋に帰って、寝そべったまゝ、何もしないで考へ込んでゐると、前の畑では、倉地の一族がやってきて、しきりに芋を掘ってゐる。

 然し一言は彼に言葉を懸けてくれない。それで彼も敢て言葉も換さなかった。夕暮になって、英世は少し元気が出たので、また書き出した。十分も書いたかと思ふ頃に、ひょっくり生方正之進がやって来た。

『此処は呑気でいゝなア、こんな所に居ると勉強が出来るでせうなア、簡易生活もこれだけ徹底すらと面白いなア、・・・時に
杉本さん、今後の町会はどうなるでせうね。それに就て御意見を伺はしてくれませんか』

 ビール箱の上に腰掛けた英世は、もう一つのビール箱に腰掛けた生方正之進に云ふた。

『僕のやうな権力に縁の遠い人間は、政治には向きませんよ、支配慾の強い人間でなければ政治は出来ませんね。僕等のやうな
実際の社会運動者は、協同組合でも作って居ればそれが一番善いんでせう。さう思ひますよ。今日のやうに権謀術策で人を陥れようとするやうな政治運動は、私等には向きませんよ。私等は先づこつこつ社会単位の組織運動にでも努力しませう』

 生方は霜降りの涼しさうな洋服に、派手なネクタイを着け、髪を油で綺麗に撫で付けてゐる。彼は巻煙草に燐寸で火を点けながら、うまさうに喫み続ける。

『えらい引込思案になりましたなア。そんなに政治を嫌はれちゃア、高砂町会の覚醒も全く絶望ですなア』
『そこですよ、生方君。今日の都会に於て純粋の政治といふものは永久に行はれないでせう』
『それはまた合点が行かぬことを云はれますなア』

 杉本は心持ち身体を生方の方に乗り出して、彼の二つの瞳を生方の瞳の上に見据ゑて、大声に云ふた。

『今日の都会といふものが、七八割通りまで無益な刺戟の結晶体である商品を取扱ふ為に出来てゐるんです。化粧品店、活動写真館、縮緬問屋、煙草屋、香水屋、酒屋、砂糖屋、料理店、カフェ、待合、遊郎、芸者屋、運道具店、雑誌、寄席、東西屋、劇場、金魚屋、楽器屋、ラヂオ屋、数へて行けば限りはないが、それが無ければ、人間が餓死すると云ったやうなものは一つも無いぢゃありませんか。詰り都会といふものは、経済的勢力に余剰が出来て、人間が生理的生存より、心理的存在へ移行する為めに成立した、刺戟の有機的組織ですなア。それでその刺戟の結晶体を生産する労働階級も、必要なものを生産してゐた昔の労働者とは、余程性質が違って来てゐるのです。労働者迄がブルジョア化してゐるのです。いや労働そのものが、刺戟の授与者としてのみ存在するやうになって居るのです。だから楽器会社の争議がどれ程永く続いても、社会は何等の痛痒を感じません。速力を尊ぶ文明も、矢張り一種の刺戟に生きてゐるのです。新聞、雑誌も一種の観念的刺戟です。機械戦工だけは最も生産的のやうに見えるが、機械といふものも我々の筋肉の延長したものにしか過ぎません。だから、衣食住に必要な筋肉作用が与へられると、それ以上は皆刺戟運動の為に費されてしまふんです。そして衣食住に必要な筋肉運動は、今日では田園と山林が引受けてみます。だから都会は、全く刺戟の結晶体として出来上ってゐるんです』

『はゝア、書いて居られるのはさういふことなんですか』

 生方はシガレットの灰を叩き落しながらさう云った。鉛色の空が芋畑の上に見える。

『さうするとあなたは、都会に於て、真面目な政治は永遠に出来ないといふことを御考へなのですね』
『さう悲観はしてゐないのですがな。今日のやうな刺戟の型の上に出来た都会には、愛想を付かしてゐるのです。洋品店と骨董屋と女郎屋と呉服屋の威張る都会は、褒めた社会ぢゃありませんなア』
『詰り、憲友派の連中はあなたの説によると、悪性の刺戟曲線の上に出来上ってゐる政党っていふ訳ですなア』

『いや憲友派ばかりぢゃありませんよ。黒衣会も同じことですよ。さういふと悪いけれども、金が欲しいといふ妙な所有慾に犯されてゐる精神病患者の多い都会では、純粋の政治などは出来やしませんよ。近代人の刺戟に対する欲求があまりに飽満で、中世的禁慾と純化を欠いてゐ為に、近世都市は実に堕落してしまったんですなア。花火で云へば「あられ」のやうに刺戟を追ふて飛散ってしまふものですから、纏りが付かんのですなア。詰り、それが永久の投機性を生む原因ともなり、永久に不景気を繰返す起因ともなるのでせう。だから、協同組合でも作って、欲望に対する協同的節制を行ひ、欲望な純化しなければ、人類は永久に救はれるものちゃありませんな』

『四畳半の哲学者は徹底してゐるなア。さうすると、当分あなたは政治運動はお廃めですか、政治運動に愛想をつかされた訳ですなア』
 ビール箱におさまり返った杉本英世は、かぶりを左右に振って、

『いや、さういふ訳でもないんですがね。今日の欲望の型をそのままにして置いて、幾ら社会革命を叫んでも駄目です。それは玩具の風船玉を破裂させるやうなものです。資本主義社会と云はれるものは、マルクスが考へるより以上に、心理的に考へて、薄弱な幻影の上に立ってゐます。その幻影の上に科学的社会主義を立てた所で何にもなりやしません。そんな事で人類の幸福が来るなら、子供のふくらます風船玉の上に、新社会を立てた方が遥かにましです。私はもう少し本質的に考へて、社会の根本的欲望革命から始めなければならないと思ってゐるんです』

『さうすると矢張り、宗教的に行くより仕方がないですなア?』

 曇りが雨になった。倉地の家の者は、芋畑から急いで引上げて行った。西窓に大粒の雨が激しく降りかゝる。雷だ。電光が激しくちらつく。乾ききった砂地が急に湿ふて、堤の松の木が美しくなった。杉本は、自然の瞬間的変化に気が引かれて、生方との会話を打切り、縁側に出て、美しい夕立の過ぎ行くのをうち見守った。

『生き返りましたなア』

 生方も外を見ながら杉本にさう云つた。
 それから三日目のことであった。小屋に引籠って杉本が書きものをしてゐると、見覚えのある鬼政の子分が、倉地の使ひだと云って、小屋の明渡しを要求して来た。杉本は心良く先方の云ふ通りにすることを約束した。彼は小屋に対して何の執着も持ってゐなかった。紋は倣底した無産者として、今は高砂の町をすら棄てることを考へてゐる時だったから、忿懣の色をすら表はさないで、『出来るだけ早く片付けますから、少しお待ち下さいませ。その中に御希望に添ふやうに致しませう』
さう柔く杉本が出たものだから、鬼政の子分も余り大きい声を出さないで、

『頼みます』

 と一言云ひ残して立去ってしまった。その晩また生方がやって来た。彼は独りぼっちの杉本に同情して、細見徹の関係してゐる地方新聞に、杉本英世の悪口が出てゐたと云って、それを見せに来たのであった。それは、ゴシップとして書かれたものではあったけれども、明らかに黒衣会の人々から出てゐる記事であった。

『例の騒擾狂杉本英世は、倉地家の所有地に小屋を立てた儘、一文の地代も払はず、其処を占領しようとしてゐるので、今度愈々立退命令を食ふことになった。二代日大杉栄の姿が高砂町から消え去る時も近いであらう』

 これだけのことではあったが、事情を知ってゐる生方は、杉本に同情して男泣きに泣いてゐた。何でも斯うした態度に出るのは、憲友派と黒衣会の妥協が成立した為だといふことを、生方は杉本に告げた。

 憲友派が榎本一派を選挙法違反で告発したその晩、黒衣会が、憲友会の積極政策に余り反対しなければ、告発を取り下げるといふ妥協案が、鬼政から榎本の方に持出された。

 その妥協が成立した宴会の席上で、憲友会から杉本英世放逐案が、遊廓経営者の伊藤唯三郎と、水道工事を請合ってゐる鬼政から提議せられ、黒衣会がそれに賛成したといふことを生方は英世に告げた。

『それ位のことが落ちだらうと僕は思ってゐたが、矢張り地方の青年は弱いね。ダンテが、フロレンスの町を逐はれたやうに、我輩も故郷を逐はれるんだね。預言者は故郷に重んぜられずか。それも可からう。死者そして死者を葬らしめよだ。こんな因襲的な町はこちらから御免蒙ることにしようかな』

 七輸の上に懸けた鍋の蓋を取り乍ら、杉本が独言のやうにさう云った。

『夕飯はまだなんですか? 今夜のお菜は何ですか?』
『茄子を煮てゐるんです。自炊すると不規則になっていつも遅くなるんですよ。先刻、飯を食はうと思ってゐた所へ、鬼政の子分がやって来て、立退を云ひ付けて来たもんだから、こんなに遅くなったんです。然し、自炊といふものも愉快なものですね』
『あなたのやうに徹底できると、人生も気楽で善いですなア・・・然し、杉本さん、高砂の町を余り怨まないで下さい。高砂にも憲友会や黒衣会の連中ばかりぢゃなくて、目の開いた人間は皆あなたに感謝してるんです。あなたが播いた種はいつかは生えて来ます。それを疑はないで下さい』

 杉本は、東側の竈の上から、炊きたての飯を持って来た。
『一杯食ひませんか、男の炊いた飯もなかなか美味いですよ』
 さう彼は生方に云った。生方は何と思ったか、板間に腰を下し、
『夕飯は済まして来たけれど、預言者の炊いた飯、紀念に一杯食はして貰はうかな』
杉本は、生方の茶碗に山盛り飯をついだ。そして更に、だしで煮た茄子を、三つ四つ、皿に盛って、生方に差出した。生方は、 大口に一杯、飯をぱくついて云った。
『こりゃ、なかなかうまい、これぢゃ杉本さんも宿屋の飯炊き位出来るなア』
 生方の気持を察した英世は、庭に向いて腹を掛け、嬉し涙に咽(むせ)んで、暫くの間、顔もよう上げなかった。