傾ける大地-46

   四十六

 開票のあった翌日、カフェ東洋亭を自分の家のやうにしてゐる細見と服部は、いつものやうに日暮れ方、東洋亭に足を向けた。そしていつに似ず、二階座敷の賑やかなのに気が付いて、女給のお花に尋ねた。

 『今日は何ぢゃね?』
 さう云ひながら服部は、二階に上る階段の下に竝べられた沢山の下駄を見つめた。
 それを聞いたお花は、にたにた笑ひながら服部に答へた。

 『凱旋祝やがなア、あんたも上って行きなさい』
 『凱旋祝って何ぢゃい?』
 『勝った方の当選祝だすがな』
 『杉本来てるか?』
 『いや来て居らりゃしまへん。おけいさんに顔を合はすのが厭と見えて、来てやないのやろ、あんたがあんなことを書くよってに』
 二階では歓声が挙ってゐた。そして折々大勢の拍手の音が聞えた。
『癪に触るなア』

 服部はさう云ひながら、細見の腰を下してゐる隅のテーブルに近寄って行った。おけいが二階から降りて来た。それを服部が呼び寄せた。

『おけいさん、誰々が来てゐるんぢや?』

 胸の上に帯を〆めたおけいは、白いエプロンを、ほんの型ばかりにつけてその紐を背中で蝶々に結び、白粉で頚を真白に塗り、眼の周囲を紅で紅く彩ってゐた。彼女は服部に答へようともしなかった。二人が見てゐる前で、懐から美しいコンパクトを取り出し、小さい化粧鏡に見入った。そして口を喰ひ縛ったり、白粉の刷毛を頬ぺたの上にはたき付けたり。お窶(やつ)しに一生懸命になってゐる。

 細見はおけいの横顔を見つめながら、冷かすやうに云うた。
『今夜は杉本さんも来ないのに。そんなにおやつしをしなくてもいいぢやないか』
 それに対して眉の上を人さし指で撫で付けながら、おけいは答へた。
『いゝわよ、杉本なんか。もうラヴしてゐやしないわよ』
『お前は女優になるって云ふが、本当か?』
『そんな事どうでも可いぢゃないの』
『あれから杉本に返事書いたか?』
 服部は冷かし半分に尋ねた。

『知らないわ。あんな肺病患者に手紙書いて耐(たま)るもんか!』
『だってお前も、一時は杉本に熱中してゐたぢやないか!』
 服部は折返しさう叫んだ。
『そりゃ女だもの、惚れる時には惚れるのさ。然しあんな乞食小屋へ嫁に行ったって、仕方がないぢゃないの。化粧水の一瓶だって買ってくれやしないわ』

 おけいは鏡に目を据ゑて、頻って頚の辺りの白粉の延び加減を気にしてゐる。
『おい、おけい、今夜誰が来てる? 三上さん来てゐるか?』
『三上さんって誰?』
『お前、三上さんを知らんのか。あのお医者さんよ』
『あの髯の・・・あの人なら来てゐないよ。助役の田島さんに、胡麻塩頭の衛生組合の人に、それにいつも黒の厚司を着て来る人がありますやないか』
『あゝ、榎本と堤か、あの騒動の時に。よく此処に来た若い人だらう! あの人も来てゐるか? 今夜も厚司を着てゐるか?』
『いゝや、今夜は上等の洋服を着て居られますわ。そりゃ議員さんやもの、黒の厚司ぢゃうつらんわなア』
『宗旨変へしよったな』

 二階では余興が初まってゐるらしい。拍手と歓声が相次いで起る。お花が段梯子を降りて来た。
『おけいさん、ちょっと検番に電話かけて頂戴! 芸者はん五人と、舞妓はん三人。大至急東洋亭まで』
 おけいは慌しく化粧袋を懐に捩(ね)ぢ込み、電話口まで走って行った。
『誰々呼んだらいゝのやろなア」
 独言のやうにさう云ひながら検番に電話をかけた。おきんが二階から飛び下りて来た。
『おけいさん、大変! 大変! 榎本の旦那が酔ははって御馳走や! 御馳走や』