傾ける大地−29

   二十九

 第一回の公判は、二月六日に聞かれた。杉本は、検事の論告に対して、猛然と復讐し、論告の誠に無意味なることを五ケ条に亙って反駁した。

 第一、立候補の推薦は彼自身の志望より出たものではなく、全く農民組合、算盤工組合及び、高砂町黒衣会及青年団の有志者が、既に決定したる後、彼に強要したること。

 第二、算盤工組合の組合長は、労働組合の常任書記、藤本達一君であって、同君は、選挙事務に就いては、去年の春、同組合から全権を委ねられて居り、彼を推薦したる相談会に列席してゐたこと、即ち今更、十二月廿五日に、再び同組合に対して推薦を強要する必要がなかったこと。

 第三、消費組合と、生産者組合とを連絡させることは、彼の多年の理論であって、決して算盤工組合に対して利益提供にならないこと。

 第四、算盤工組合幹部、高瀬源吉は、確かに選挙委員ではあるが、検束せられたその翌日、釈放せられて帰宅する前、杉本の選挙事務所に立寄り、明らかに警察官の圧迫によって、嘘をついて来たと、彼に弁解してゐること――即ち検事の告発した証拠なるものが、全く虚偽の上に立ってゐること。

 第五、一緒に食事をしたる高瀬、栗林、伊藤の中、高瀬を除く外、両名とも組合の幹部ではなく、彼を推薦する組合の執行機関を代表せざること。

 以上五つの理由で、杉本は還挙法違反に触れてゐないことを弁明した。そして、猶事実上の証人として、お給仕に出た女中を召喚してくれと要求した。

 その席上、検事が、杉本英世に向って、絶えず『お前、お前』を繰返したので、わざわざ大阪から弁護に来てくれた小前博士は、検事に喰ってかゝった。

『荀(いやし)くも、大衆の信任を担うて、県会議員に当選したる公人に向って、お前』といふ言葉は何であるか! 無産政党の代表者だからと云って、侮蔑的態度に出ることが既に、この公判が正当なる理解のもとに、成立してゐないことを示してゐる。検事は須らく在来の偏狭な態度を棄て、公平な立場で、進捗せられんことを希望する』

 小前博士が、ぐんぐん突込むものだから、検事も大弱りの体であった。

 公判は、召喚すべき証人な決定しただけで午前中に済んだ。公判の空気を見た小前博士は、非常に悲観的であった。

『今迄、選挙法違反に問はれた場合、区裁判所で勝った例が無いんだよ。第二審ではどうか知らないが、姫路では駄目だらうね・・・然し、無効と決定する迄、県議会に出てもいゝのだから、君は矢張り、県会に出席し給へ』

 さう云って、小前博士は親切に杉本に注意してくれた。

 不正な処は無いとは信じながらも、選挙法違反に間はれて居ながら、県会に出席することは、実に厭なものである。さればと云って、杉本英世は、消極的態度をとることも出来ないので、同志と共に、積極的手段に出ることに決めた。即ち一方、選挙干渉反対演説会を開くとともに、無産政党選出議員として、県会に出て戦闘的態度をとることにした。

 二月八日高砂公会堂で広かれた選挙干渉反対演説会は、大盛況を極めた。面白いことには、この公会企で開かれた政治演説会に、初めての現象があった。それは、婦人の聴衆が数十人あったことである。どうして、斯ういふ現象が選挙後に現はれたか知らないが、普選運動によって、婦人迄が多少政治に目醒めて来たことは、事実でゐらう。

 その中でも特に目立ったのは聴衆の中に、東洋亭の女給の一団が混ってゐることであった。佐野おけいがそれを引率してやって来てゐだ。一行には、おけいの外に、おきん、おさみ、お花、おつなの四人がゐた。おきんのやうな世間知らずの女が、どうして選挙演説を聴きに来るやうになったかと云へば、それは極簡単な理由であった。

 おけいの予言が当って、滝村は、とうとう金の指環を、彼女に買うてやらなければならなかった。金の指環を見たおきんは、大いにおけいを崇拝するやうになり、おけいの云ふがまゝに、選挙運動のファンになった訳である。

 演説会が終って、聴衆が帰った後でも、女給の一行は帰らうともしなかった。

『おきんさん、あんた、杉本はんの顔を近くに寄って見たいと云はりましたな、わたいは、杉本はんを此処へ連れて来ますよってに、あんた杉本はんの顔を穴の開く程見なはれよ』

 さう云ひ残して、おけい一人公会堂の縁伝ひに、辯士室に這入って行った。残された女給等は、静かに待ってゐることが出来ず、小走りに、手を繋いで、辯士室に繰込んだ。――恰も、活動写真の辯士室か、名高い俳優の化粧部屋を訪問するかのやうな気持で。

 英世は、おけいの顔をよく党えてゐた。それで叮嚀にお辞儀をした。おけいが、
『おめでたうございます。私は一人で、あなたがお勝ちになるやうに、不動様に御願をかけてゐたのです。御勝ちになったと聞いた時に、私は自分のことのやうに喜びましたの。今日は店のものも大勢、あなたの演説を聞かして貰ひに参りましたの。みんな一度あなたのお顔を遠くからでなしに近くに寄って拝みたいと云ひまずから、一寸拝ませてやって下さいまし』

 感激的な身振りを混ぜながら、彼女が挨拶してゐると、どやどやと、白粉の匂ひと共に、女給の一隊が繰込んで来た。応援団辯士が目を丸くして一行を見てゐる。

『杉本さんも隅に置けんなア、女給さんの間にファンが出来たのやなア』
『あれは何処の女給や?』

 さうした囁きが、部屋の片隅から洩れた。
『旦那おめでたうございます』

 おきんは、さうした言葉で挨拶を述べた。お花は、如何にもしをらしく、小さい金縁の名刺を渡して、何処かの令夫人がするやうに心からの祝辞を述べた。おけいは非常に得意である。
『旦那、これからすぐお宅にお帰りですか? お帰りに、ちょっと東洋亭にお寄りになって、 コーヒーでも一杯召上って下さいませんか!』

 大きな瞳を、魅惑的に輝かせたおけいは、さう英世に尋ねた。英世がまだ答へない中に、労働組合の常任書記、藤本達一が、杉本英世の代りに答へた。彼は労働組合の旗を巻いて、今やサックに詰めてゐる処であった。

『杉本さん一人を連れて行くんかい?、わしらは除け者ぢゃな!』
 その声に吃驚したおけいは、豊矯な顔を藤本に振り向けて、すぐ答へた。
『どうぞあなたもお出で下さいませ』
『たった二人だけかい、御馳走するなら皆にして呉れんかい!』

 さう云はれて、おけいは室内に何人居るか数へてみた。其処に八人居た。杉本と、藤本を除いた外に、農民組合の初田伊之助、顧問辯護士の村田賢二、算盤工組合の高瀬源吉、黒衣会の榎本定助、倉地一三、それに、高砂同和会の服部政蔵の八人であった。

 おきんは、おけいの顔を凝視して云うた。
『皆様がいらっしって下すったら、なほ結構ですわね』
 それに反対を祢へたのは倉地であった。
『私はもう遅いから失敬します』

 養子の身分である倉地は、さういふことに対して頗る厳格であった。彼はさういって立上った。それに倣ったのが榎本であった。

『私も失敬します』
 算盤工組合の高瀬はそれに続いた。
『私は、まだ三里も自転車で帰らなければなりませんから、帰らして貰ひます』
『ぢゃア僕も失敬しよう』

 さう云って杉本の手を握りに来たのが、辯護士の村田賢二であった。彼等は次から次へ、姿を消した。そして後にはパンフレットの整理をしてゐた高砂同和会の服部と、組合旗を仕末してゐた藤本と、その夜の入場料を清算してゐた初田伊之助だけが残された。

『えらう、寂しくなったなア』
 藤本は、サックの口を、太い麻縄で縛りながらさう云うた。
『旦那、お寄り下さいますか?』
 おけいはさうだめを押した。
『君、どうするかね?』
 杉本は、藤本を顧みてさう尋ねた。

『まだ早いですから、ちょっとお寄りになったらどうですか。・・・私は今夜、初田君の家に泊めて貰ひますから、少し位遅くなっても大丈夫なんです。あなたが行ってやれば、この人達もさぞかし喜ぶでせう』

『まあ嬉しい!』
 さう云って、小躍りしながら喜んだのは、佐野おけいであった。
『初田君、勘定は帰ってからしようよ、手伝ってやるよ。服部君、行かう、行かう。東洋亭の女給さん達に一杯呑まして貰はうや』

 男四人に女五人の一行が、東洋亭に着いたのは、十時半過であった。女給の連中はテーブル二つ続けて、一行を歓迎した。おけいのはしゃぎ方は並大抵ぢゃなかった。藤本も初田も相当に強いので、黙り込んでウヰスキーを呑み続けた。

 藤本は少しも酒が飲めないものだから、唯、炭酸水だけを飲み続けた。ぐづぐづしてゐる中に一時間経ってしまった。然しこれと云ふ話も無かった。みんな沈黙勝ちであった。たゞ服部とおきんは相当に親しいと見えて、二人の間には面白さうな会話が交されてゐた。十一時半が来たので、杉本は椅子を離れた。

 おけいは送って行くと云ってきかなかった。杉本は固辞した。然しおけいは、黙ってついて来た。カフェを出て二人は並んで歩いた。月の無い寒い晩で、西風が激しく吹いてゐた。二人は沈黙の儘数十間歩いた。

 おけいは右手を懐の中に突込んで、何かもぢもぢしてゐた。英世も若い男である。全く悪い気もしなかった。然し、公判に対する不安と、最近彼が嘗めた、失恋の苦杯に、彼は、そんなにやすやすと、彼の傍に歩む無智な女給を抱〆める勇気を持たなかった。

『もうお帰りなさいよ、おけいさん、もう結構ですよ』
 彼は、少しく苛立った気持で、さう云うた。おけいはさう云はれでも、猶二三歩ついて来たが、突然、立止って両手で顔を蔽て泣き出した。泣かれてみると、それを振り棄てゝ帰る勇気を、英世は持たなかった。

 夜番が、鉄の金棒を引摺って、町を通る。夜なきうどんが、怪しげな眼で二人を見る。二人の通ってゐる町とは直角の方向に、淋しい笛を鳴らしながら按摩が週ぎて行く。英世は、おけいが職業的に泣いてゐるのぢゃないかと思って、余程振り棄てゝ立去らうと思ったが、東洋亭で一時間許り彼が見たおけいの態度は、全く職業的でもないといふことを観取した。それで、英世は、おけいの肩に手を懸けて、

『泣かないでね、おけいさん、淋しければまた近びに来て頂裁、何でも相談に乗るからね』
さう英世が、彼女の顔を覗き込んで云った時に、おけいは初めて、顔から両手を離して、小さい声で彼に尋ねた。

『ほんとに? ほんとですか?』
 彼女は、長い袂の端を噛み乍ら、懐から一通の手紙を取出して、杉本を見上げて云うた。
『お願ひですから、この手紙をお読み下さいませんか・・・』
 それを杉本に手渡すや否や、彼女は逃げるやうに、言葉も交さないで、飛んで帰った。空にはオリオンが高く昇って、銀河が低く地球を覗いてゐた。