傾ける大地−30

   三十

 英世は、多少安心してゐた。と云ふのは、最早や、県会議員に当選した以上、そんなに意地悪く、敵方も追究して来ないであらうと思って。

 それで彼は、久し振りに阪神地方に出て、応援に来てくれた新見栄一や、村田賢二などを御礼廻りの意味で訪問してゐた。家を出てから四日目の朝であった。彼が村田の事務所で雑談に耽ってゐると、高砂から電話が掛って来た。それは姫路の区裁判所の検事が、愈々選挙法違反で、彼及び算盤工組合の幹部を、不拘束の儘起訴するといふ初田伊之助からの通知であった。

 まさかと思ってゐたゞけに、その電話を聞いて、彼はしっツこい敵の態度に、業を煮やした。

『癒に触るね! 馬鹿にしてらあ、憲友派の奴らは、俺を取り殺してしまはなくちゃ、安心が出来ぬと見えるね、あゝ! 俺はもう政治が厭になっちゃった!』

 さう大きな声で独言を言ひ乍ら、隣の部屋で事務を執ってゐた村田の処に歩み寄った。告訴状を整理してゐた村田は英世が黙って彼の机の前に立ってゐるうち窶れた姿を見上げて、

『まあさう元気を落さなくってもいゝよ。消費組合で売ってやると云ったことが、利益提供になるなら仕方がないぢゃないか。斯うしたことが無ければ、政界の覚醒といふものは出来ないんだ! 小前博士にも頼んで、弁護の労をとって貰はうぢゃないか。事実ないことはないのだから、敵が吾々を陥れるにしても、天を仰いで吾々は恥ないぢゃないか』

 大きな陶器の火鉢の中には、木炭が真紅に燃えて、その上にかゝった鉄瓶から、勢よく湯気がたってゐた。鼠色の灰と、赤い火の色と、青磁色の滑らかな陶器の色彩の配合が、英世の眼をひいた。彼はどっかと傍にある椅子に腰を下して、火鉢の灰の上に意味もなく、文字を書き初めた。

 また自宅から電話が掛って来た。そして、公判は明日だと通知して来た。余り急なので、英世一も意外に思ふ程であった。その電話に、いつも元気のいゝ英世も、全く打萎れて、村田がいろいろ対策に就いて話しかけたが、物も云はないで沈んでしまった。英世は独言のやうに灰を掻き乍ら云うた。

『政治なんて云ふものは、まるでわざわざわざ罪人を作るやうなものだなア、黙ってすっ込んで居れば、誰も俺を怨みはしないだりうが、少しばかり社会的正義を、高唱しようとすれば、俺を罪人として監獄にぶら込むんだな。よし、俺も覚悟がある!』

 彼は蒼惶(さうくわう)外套を片手に持って、村田の事務所を飛出した。一人になった英世は、電車にもよう乗らないで、梅田駅まで、もの思ひに沈み乍らひとり歩いた。彼の眼は涙に滲み、彼の胸は狂はんばかりに掻き乱されてゐた。

 翌日、彼は姫路の区裁判所に出頭した。驚いたことには、彼の外に、十六名の算盤工組合の会員も起訴せられてゐた。薄汚い姫路の区裁判所は、この連中で一杯になってゐた。

『政治などいふものは、まるで猿芝居のやうなものですなア!』
 さう縞の羽織を茄た高瀬源吉が、杉本英世に云うた。

『わたいは、検事にうんと云ってやりまんね。無茶だんがいな、事実無いことを事実のやうに報告して、それで起訴しようなんて、本当に良心のある人間の出来た仕事ぢゃおまへんなア』
十時過ぎになって、やっとのことで公判が開かれた。型の如く裁判長を中心に、検事判事が高い壇の上の両側に坐る。そして被告は、裁判長を見上げなければ、話が出来ないやうな処に一塊になって坐る。

 英世にとっては、この区裁判所の高壇が、第一滑稽に見えて仕方がなかった。何故アメリカの法廷のやうに、裁判長と被告が机を挟んで対談が出来ないだらうか? 日本の裁判所の構造は、はじめから被告を罪人扱ひにして、裁判長が、被告を見下すやうな構造になってゐる。

 それが第一間違ってゐる。それに裁判官の時代遅れの法服、それが滑稽に見えてならなかった。天理教の布教師が、裁判官の真以をして、同じやうな着物を着てゐるが、英世は天理教の布教師に裁かれてゐるやうな気がしてならなかった。

 型の如く、姓名、原籍、現住所、族籍、職業等を、次から次に訊き質して、機械的に審理が進行する。裁判長は、高い壇の上から被告を捕へて、『おまへら、おまへら』と連発する。如何にも彼告等が破廉恥罪を犯した重罪犯人の如く裁判所の空気は、如何にも被告を侮辱してゐた。それが癪に触ったと見えて、今日の公判がもう終るといふ頃になって、小前博士は裁判長に喰って懸った。

『荀しくも県会議員に当選せられた人は、天下の公人であるに拘らず、この裁判所の空気は実に、その公人を見ること恰も、重罪犯人なるかの如く、何等尊敬を払はれないことは残念なことであります。敢て裁判長の反省を促します』

 黒のモーニングを着た小造りの小前博士は、滔々と裁判長に迫った。それに対して、裁判長から軽い答弁があった。その日の公判僅かに四十分、証人を五人この次の公判の時に取調べることにして、閉廷した。

 公判廷を出る時に、小前博士は、杉本英世を慰めるやうに云うた。

『あれだから困るんだよ、もう初めから罪人としてみくびってゐるんだから、吾々が云はうとするやうなことは、決して受付けて呉れないんだからね。第一審では駄目ですよ。区裁判所の判事などは、大胆に検事の起訴を翻すやうなことをしようとしないから、まあ初めから第一審に負けて、第二審で調べ直さすやうな方法を取るより仕方がないね』

 算盤工組合の人々はみな不安さうに見えた。我も我もと、小前博士の傍により添うて、

『有罪だっしゃろかなア!』
『裁判長の剣幕は荒うおますなア!』
 さう云ひながら博士の鑑定を要求するのであった。
『自暴ぢゃ、自暴ぢゃ、これから駅前で一杯呑まうかい!』

 大声に叫びながら、いが粟頭の伊藤健三は、裁判所を飛出した。杉本等は、小前博士と一緒に法廷心理を論議しつゝ、一塊になって裁判所を出た。

 それから二週間後に、杉本英世は有罪に決定し、二百円の罰金に処された。無罪になったものは唯一人で、十五名のものは皆有罪と決定した。証人の言葉は一つも採用せられないで、裁判長は飽くまで、警察の調書を基礎にして、判決を下した。杉本は直ちに上告した。小前博士は、第二審では多分大丈夫だらうと云ふ確信を発表した。