傾ける大地-19

   十九

 小さい港には瀬戸内海の各方面から集る帆船で一杯になってゐた。多くは京橋地方に捌けて行く野菜類を岡山、香川、徳島、淡路、扨(さて)は広島辺りから積んで来たものであった。港の水は青く澄んでゐた。紙会社に運ぶパルプが勢よく揚荷せられてゐた。浜に面した角丸商会では、之等の帆船から下される青物一切を一手に引受けて一々捌いた。若くはあるけれども榎本定功はその商会の中心人物として、凡ての釆配を振った。

 直角になった浜の東側には二百坪許りの広いトタンで出来た上屋があった。其処には薩摩芋、キャベツ、梨、茄子等が、籠に入れられた儘堆(うづた)かく積上げられてあった。その美しい色彩、変化ある輪郭が、青い港の水と相対比して何とも云へない平和な、そして自然の恩恵を思はしめる様な印象を与へた。船頭が忙しく船を洗ってゐる。小さい伝馬が港の中を彼方此方と滑る様に駆違ふ。榎本は他の二人の青年と一緒に船頭に代ったり、奥地に積出す送状を書いたりしてゐた。

 この店は五万円の小さい株式会社の組織になってゐて、杉本英世の父理一郎なども、その株主の一人であった。株主の中には公民会一派の人達も二三居た。その中でも最も多く株を持ってゐた者は、公民会の中で最も汚いと云はれてゐる滝村喜一であった。

 例の黒衣会の町会革新運動が此処に迄崇(たた)って来て、滝村は黒衣会一派の多くの者が投資してゐる角丸商会を占領しようと云ふ計画を立てた。そのやり方が随分露骨なので、専務取締役としての榎本定助はいつも困ってゐた。公民会一派の者も滝村喜一を後援して、榎本定助を何等かの方法で角丸商会から追出し、その後を公民会派一派の者で支配せしめようと、榎本に対する干渉を怠らなかった。

 町民大会があって以来、彼等の運動は一層露骨になって来た。角丸商会の上半期の成績は余り思はしくなかったが、それでも三千円許りの純益を上げることが出来た。それで榎本は従業員一同に五百円許りの賞与金を分配した。それはお盆の前の日のことで、別に取立てゝ云ふべき事ではなかった。ところが杉本英世が農民組合の事件に関係して姫路の未決監に入るや否や、すぐ滝村喜一はその金のことを問題にした。彼は突然弁護士を代理人として賞与金分配無効の告訴を裁判所に提起した。

 そんな馬鹿らしいことはあるもんかと榎本は最初嗤った位であった、がそれは矢張り本当であった。滝村が貸与金分配無効の訴訟を提起した理由は頗る簡単であった。それは株式会社の定款によって『純益金一割以上を賞与金として分配してはならない』となってゐるに拘らず、一割以上も分配したことは不法行為であると云ふのであった。

 これには榎本の方にも落度があった。去年の九月、総会の席上、店員を励ます為に貸与金は純益金の二割迄してもよいと云ふ決議が出来てゐたのであったが、榎本はついうっかりしてそれに対して公の手続を踏むことを怠ってゐた。それに付込んだのは滝村喜一である。

 それには奥の奥がある。榎本は滝村喜一が組合長をしてゐる高砂信用組合の理事でゐった。ところが、高砂信用組合は殆んど高利貸にも等しい金を廻してゐた。それを知ってゐた榎本は七月の理事会で、滝村を告発すると云っておどかしたことがあった。それが癪に蝕って滝村は先手を打って榎本を告発した。

 これ迄も滝村は少し許り家に蓄財があることを笠に着て、随分酷いことをやって来た。黒衣会の連中は滝村一派が高砂町に於ける風紀を紊す源泉であると狙ひをつけて、彼等の不道徳を糾弾することを恐れなかった。さうしたことも狭い高砂の町ではいろいろ難しい感情の疎隔を来す原因となった。

 杉本英世の父理一郎は榎本定助が大好きであった。それで何かにつけて榎本の相談に乗った。そして榎本は英世の父には親切であった。英世が未決監に留まる日が永くなると共に、理一郎は店の事まで一々榎本に相談に行った。
今日も理一郎は朝の郵便が店先に配達せられるや否や、眼に涙を湛へながら浜の方にむいた。さうしてその一通の手紙を榎本に見せた。

『斯うなると思ったがもう断念せねば仕方がないなア』
 さう理一郎は榎本に云うた。理一郎が、榎本に見せたのは、外務省から来た英世に対する免職の通知であった。
『これを知らしてやってもいゝもんかいなア、どうしようかなア榎本さん』
 老人は泣いてゐた。それを見た榎本はほろりとした。やゝ暫くして榎本は理一郎にこんな事を云うた。

『咋日、生方君に会った時に聞いたのですが、土肥のお嬢さんは。家出をしてゐるのですってね』
『土肥の親父さんは他処へやりたいのやけど今時の娘はなかなか無理なことを云うても聞かぬからなア』

 そんな話をして居る所へ、雑穀商の倉地一三が這入って来た。
『君、斎藤はうまいことをしよるぜ、到頭加古川尻の砂利採掘権を県庁に行って取って来よったよ、それで今迄青年会の五六人の者が小さく採集してゐたものが、もう十月一日から取れなくなるんぢやさうな、それになア君、加古新田の官有地も払下げて貰ったらしいぜ、何でも志田の所へ行ってうまい汁を吸うて来たらしいなア、今度は加古川高砂の間を電車にするって云ふぢゃないか、その為に志田が視察に来ると云ふがありや本当かい?』

『うむ、彼奴かい、今の軽便鉄道の競争戦をやるんだよ、それはもう随分前から云ってゐるぜ、滝村などはそれを当込んで種々な計画をやってゐるらしい』

『杉本さんや青山君が未決監に這入ってゐる間に、うんと仕事をして置くつもりなんだらう。何でもこの際、水道敷設権も、ものにするらしい、この間加納さんが県庁に呼出されたのは水道問題の話であったらしい、どうやら県当局の意見では私設会社を許可するって云ふことだ。それで加納さんは、もうこの上職には留まれないと云って居ったよ』

 倉地は、榎本と同じく丈の短い黒い厚司を着て、その上に思モスの兵古帯を締め、腰にぴかぴか光る鉄の長い一尺許りの米指を差してゐた。彼は胸まで来る高いカウンター台に上半身を寄せ掛け、忙しく送状を書いてゐる榎本の筆先を見つめながら云うた。

『ちらっと僕は或人から聞いたのだがね、何でも土肥のお嬢さんが兵庫のある燐寸会社に女工となって働いてゐると云ふ噂を聞いたのだが本当かいな』

 榎本は驚いた様な眼付をして、その広い額を上に向けた。

『あの人のこっちゃから、或ひはそんな事があるかも知れんぜ、兎に角真面目だからなア、何でも家では華族の家に嫁りたいと云ってゐるさうぢゃね、家では困ってゐるだらうな、秘密探偵まで頼んで探し廻ってゐると云ふことを高等刑事が云うてゐたよ、君は愛子さんが燐寸工場に居ることを誰から聞いた?』

 奥まった船頭の溜場では、炭火を囲んで船頭連中が薩摩芋を焼いてゐる。その香が如何にも芳ばしく店までにほうて来る。理一郎は、
『まだ茄子が出て来るなア』
 と独言の様に云うて浜の方に出て行く。
 倉地は小声で榎本に囁く様に答へた。

『うちへ来る馬力引がな、確か土肥のお嬢さんに違ひないと云ふんだ。何でも水木通りの公益社へ見っともない風をして這入って行くのを見たと云ふんだ。種々事情を聞くものだからなそんな事はないだらうと云っておいたのだが、若しかするとあの人のことだからさうした態度をとってゐるかも知れないので、君だったら真偽を知ってゐるだらうと思ってちょっと今朝寄ってみたんだ・・・然し君、杉本さんも青山君もえらい長いぢゃないか、裁判所もえらい妙な事をしよるね』

 さう云ってゐる所へどかどかと人相の悪い、土方の親分らしい男が二三人の子分を連れて、角丸の店に這入って来た。帽子も取らないで、突然榎本に向って大声で云うた。

『榎本定助君と云ふのはあなたですかね、僕は山田政吉と云ふ男ですが、ちょっと君に話したいことがあるのだが、其処迄来て呉れませんかな』

 眼を上げた際に、榎本の頭にある直覚が閃いた。それは山田が店を荒しに来たのであると云ふことであった。山田は小学校裏の埋立を請負ってる有名な悪い土木請負師で高砂では鬼政で通ってゐる。

 それと気の付いた榎本はわざと平気を装うて、
『今朝は忙しいんでしてね、あんなに荷物も積上げてあるやうな次第ですから、手が抜けないんです。御用がおおりでしたら此処で承はらせて頂きませう』
『さうですか、詰り忙しいと云ふのですね』
『さういふ訳なんです』

『実は他の事でもありませんがね、あなたはこの店を私に売って呉れることは出来ないでせうか?』

 余り突飛な質問に榎本も返事することを暫く躊躇った。土方らしい無茶なことを云ふもんだと気が付いたが、彼は飽まで親切な態度を持して答へた。

『これは私一人の会社ではありませんでしてね、株式会社になってゐるものですから、総会を開かなければどうすることも出来ないんです』

『だけれども君は株式会社の定款に認めてゐない行為を平気でしてゐると云ふぢゃないかね、人に聞くところによると、君ひとりの専断で会社をどうでも出来ると云ふことを聞いてゐるのだが、それは嘘かね』

 倉地は榎本の身の上が心配になるので、それとはなしに隅っこに立った儘二人の会話を聞いてゐた。
『いやそんな事はした覚えはありませんよ』
『為た覚えがない?』

 さう云ふなり、鬼政は持ってゐた太いステッキでカウンター越しに榎本の頭を激しく衝いた。然し榎本は敢て抵抗しようともしなかった。

『もう一度云ってみろ、貴様は会社の定款に書いてないことを為てゐるのぢゃないか!』
『それは確かに私が悪かったんです、然しあれも去年の暮に、臨時総会で純利益の二割以内に於て賞与金を分配してもよい、と云ふことになってゐたからさうしたまでの事で、私が悪いとすれば唯登記することを怠ってゐるだけのことなんです』
ハンチシグ帽に半ズボンを履き、厚いスコッチの脛まで来る靴下を穿いた鬼政は、犬の様に吠えた。

『誤魔化しを云ふな、誤魔化しを。俺は今日は株主の資格で来てゐるのだぞッ』
 さう云ふなり、彼は懐から一枚の株式証券を取出した。それは紛ひもなく株式会社角丸山会の株券であった。榎本はすぐ感付いた。

 滝村が自分の持株の一つをわざわざ山田政吉名義に書替へて、角丸商会乗取の算段を廻らしてゐると云ふことを。榎本は全くえらいことになったと気が気ぢゃなかった。
 其処へ高等刑事の尾関と司法刑事の秋山巡査の二人が這入って来た。
『やあ!』

 と尾関は鬼政に言葉を掛けた。それに対して山田政吉は一言の答もしなかった。独言の様に榎本を睨み付けて、
『小僧の癖に生意気だよ、嘘つきめ!』
 さう云って頬の筋肉をびくびくさせてゐる。

 暫くの間それを傍から見てゐた尾関は、馴れ馴れしく、彼の肩に手をのせ静かな調子で言葉をかけた。
『山田君、話はどんなことか知らないけれども、まあ怒らないやうにしてくれ給へ、こちらの方も忙しさうだから、余り荒立たしい声を出すと、何事が起ったかと皆が心配してやって来るからな、今日のところは僕に預けて呉れんか』

 尾関の顔も見ないで、熱心に送状を書いてゐる榎本をみつめてゐた鬼政は、肩を揺ぶらせて、尾関の手を振ひ落し、
『縁起が悪い、人の肩なんか押へるない!』

 毒々しい濁った声で、さう尾関に云ひ捨てて、碌々挨拶もしないでつと表に出て行ってしまった。奥の溜場で見てゐた五六人の船頭衆は口を揃へて大声に云うた。
『厭らしい奴もあるもんぢゃな』
 鬼政と入代って杉本理一郎が這入って来た。

『榎本さん、鬼政は何の用事で来たんだい?』
 さういきなり理一郎は榎本に尋ねた。
『例の賞与金分配問題を事件にしようとしてゐるのですよ、厭な奴です、この店を売れっていふんですよ』
理一郎が浜から這入って来たのを見て、尾関はすぐ理一郎に尋ねた。

『やあ杉本さん、恰度よい所でお目に掛りました、実は只今お宅へ伺ったのですが、此方に来て居られるといふことを承はったものですから、此方まで追駆けて来たのですが・・・若しやあなたさんは土肥のお嬢さんのを処を御存知ぢゃないでせうか・・・愈々正式に捜索願が出たものですからな、尋ね歩いてゐるのです、少しも見当が付きませんでな、まあお宅から尋ねてみようと思って来たのです』

『さあ、長いこと手紙がないから少しも見当がつきませんな、土肥家では判らんと云ひますか?』

『もう家出してから二月以上になるさうですが、葉書一枚寄こさんさうですな、姫路の未決監にも昨日調べに行ったのですが、御子息様の所にもちっとも便りなさらんさうですな』

『此方で取込んでゐるものですから、ついぞ息子にも縁談の話なんか聞いたことがありませんのでなア、どんな事になってゐるのか私にはとんと目見当が付きませんわい』

 湿った低い声で理一郎はさう云ひ捨てゝ、うら寂しい影を後に残してまた表に消えた。一人の刑事は、其処に居る榎本や倉地には用事が無いかの如く、これで義務を済ましたといった様な態度で、

『さよなら』
 の一言を残して彼等もまた立去ってしまった。船頭の溜場から相変らず芳ばしい芋を焼く香がして来る。榎本は奥の溜場に向って、大声で叫んだ。

『松っあん、いゝ香がするな、焼けたら二つ三つ此方に持って来て呉れんかい!』

 その声に薄暗い奥の溜場から五十格好の男で、瞳が水色に澄んだ、額に横皺の多い銅色をした人の好ささうな、縞の厚司を着た船頭が、三つ四つのほっくり焼けた薩摩芋を両手で摑んで持って来た。麗かな午前十時頃の太陽が、ぽっかり簿記台の上を照して、すでに塗ったデスクの枠や、青羅紗の上を後期印象派の絵の様に浮上らせた。