傾ける大地-18

   十八

 秋の日は早く経った。そして杉本英世はまだ保釈の許可を得ることは出来なかった。彼は三ヶ月以上も未決監で無為に過した。九月八日に予審廷が開かれ、それは僅か三日の中に済んだが、公判はなかなか開いてくれなかった。そこにはいろいろの理由もあったらうけれども、受持らの看守は『事件が面倒な奴は背後に廻るんです』

 と簡単に答へた。予審判事が暑中休暇をとった為に、無用な時間を未決監で送らせられ、その上に、事件が面倒臭いからといふ理由で延ばされては仕方がないと思ったが、それに対してどうすることも出来なかった。散歩に連れて出て呉れる看守に聞いてみると、拘束の儘起訴せられてゐるのだといふことであった。別に重い罪を犯した訳でもないに、例の町会革新問題に関係したばかりに、当局が大事をとって彼に保釈を与へないのだと考へた英世は、政治と云ふものゝ裏面を一層暗く考へざるを得なかった。

 予審が済んでから二週間も過ぎて、彼はやっと父の手紙で彼が騒擾罪並に公務執行妨害の罪名に問はれて、公判に廻ってゐることを知った。

 秋の日は早く経った。未決監の生活が長引くと共に、彼は多くの参考書と原稿用紙を差入れて貰って、ゆっくり著述に取掛る計画を立てた。暖かい中国の空にも、秋の音信が柿の葉の落ちる物音によって伝へられた。朝晩はペンを握る手がだんだん凍える様になった。そして後十日で百日になると知った日に、彼は一種も絶望を感ぜざるを得なかった。

 何の罪もなく、さうだ、別に農民を煽てた訳でもなく、唯、小作人に同情して立入禁止を中止する様に嘆願したと云ふだけのことで、騒擾罪並に公務執行妨害の罪に問はれて、三ヶ月以上も未決監に呻吟せねばならぬかと思ふと、社会と云ふものが、如何に間違った所であるかを考へざるを得なかった。

 昼の間一生懸命に思索に耽ってゐる時には、それ程迄に感じなかったが、夕方の点呼が済んで、サーベルの音が廊下の彼方に消えた後、彼は冷い一枚の布団の上に坐って、自分の運命に就いてつくづく思ひめぐらした。

 この上こんな生活が一年も一年半も続いたらどうなるだらう、身体の水蒸気がだんだん蒸発して、しまひには、骨と皮だけになって、人間の乾物が出来はしないか? 何だかもう一度この冬は略血しさうに思はれてならない。行先きが暗い。屠場に引かれる牛の様に、彼は目隠しをされて永遠の沈みにかけられてゐら様に考へた。

 時によると彼は『××だ! その外に社会を改造する道は全然知無い』さうまで思ひ詰めることも屡々あった。愛子からの音信も絶えてない。友人の差入も止った。唯、家から差入れて呉れる一日一円の弁当が、辛うじて続いてゐるだけである。彼は性欲をも恋愛をも胸の中から除外した。彼はその冷やかな牢獄の空気に赤血球迄が凝結して行くのを感じた。

 反逆の血が燃えない訳でもない。然しそれすら冷こい運命の前には唯一片の煙の立行く様に等しかった。淋しい。淋しい。窶(やつれ)れた頬の上に、冷い涙が静かに流れて行く、墓場、死、冥府(よみ)、さうした一切の形容詞は、余りに暗い彼の心を表白するには足りなかった。

 それでも彼はさうした闇の中に、静寂の気持を愛する工夫を覚えた。静かに。静かに。静寂への足どりは隙間から這入って来る風のそれにも似て、空の中に空を満さしめる神秘の力を持ってゐた。一切の人間性を消した後に、一切の静寂が彼の胸を充たした。しづかに。静かに。彼はその呼吸を止め脈搏を止めて、無生物の世界に同化して行った。其処に云ひ難い安息の泉が発見せられた。