傾ける大地-17

   十七

 細い路次の上に口入屋の看板が掛ってゐた。余り上手でもない草書で『日入所』と書かれてあるのが何だか気になってならない。愛子はステーションを降りてから幾つかの口入屋の前を通って来た。或ものは少し入口が、上品であり過ぎるし、或ものは余り穢なく見えすぎて這入る気がしなかった。

 私営の職業紹介所に行くには余りに恥かしいし、人寄りのよい大通りに面した口入屋に這入るには勇気を欠いた。彼女は彼方此方と口入屋を探して一旦は湊川新開地辺り迄出たのであったが、また再び相生町の細い路次の奥にある口入屋を思出してその方に帰って来た。

 路次に這入る右側は洋家具をを売ってゐる店で、左側は牛肉屋であった。路次の入口には黒く塗った新しい塵箱が、二三個積上げられてあった。路次の中央には小溝の上に板が敷かれであった。奥には口入屋の暖簾が見えてゐた。その上に『男女口入所』と書いた球燈が路次の上を覗いてゐた。

 愛子は勇気を出して、路次の奥に這入って行った。そして口入屋の入口のガラス戸を開いて、大胆に中に立入った。奥からお新造風の女が出て来た。そして立った儘きょときょとしてゐる愛子の頭の先から下駄の先まで点検した。

 愛子はもう極りが悪くなって、すぐ其処から飛出さうかと思った位であった。こんな弱いことではならないと自分を励ましながら、

『何処かに事務員にでも行く口は無いでせうか?』
『根っから不景気だすよってになア、事務員の口ほおまへんけど、女中さんの口だったら二つ三つ来て居りまっさ! 女給の口なら幾らでもおますぜ』

 お新造は帳場の前に坐って求人名簿を操った。
『女中さんの口ならいゝ口が掛って居りますぜ、西洋人の所で働きたげればアマさんの口もあります』

『手当はどれ位呉れるのでせうか?』
『さあ? 大抵女中さんは食って十五円位の所でせうね、そりゃ山の手の女給さんなどになると、月に四十五円になる所がありますけれど、其処は英語が判らんといかんと云って居りました・・・女給さんはどうです! 女給さんはあんたの様な好い器量だったらポチの貰ひも相当におまっしゃろから、楽して金を儲げたいと思ふなら、今時は女給さんが一番よろしゅおまっせ、あんたは何処かに今迄奉公しなすったことが、あるんだっか?』

 それには愛子も返事に困ってしまって沈黙した儘答をしなかった。一二分二人の間に沈黙が続いた。

『何処か紡績会社の女工さんに雇うてくれる様な所はないでせうか?』
『それは、つい私らには判りまへんな、宅の人が今出て居りますので、晩にならんと帰りまへんさかい、それは確とした事は申上げられまへんな』

 愛子は全く迷うてしまった。女工にならうか? 女中にならうか? 西洋人の家のアマにならうか? それともカフェの女給にならうか? その中でも彼女の最大の希望は、一月でもよい鐘紡の様な大きな紡績会社の女工になってみたいと云ふことであった。

『兵庫の鐘紡などは女工を募集してゐないでせうか?』
『彼処へ這入りたいですか? 聞いて上げませうか?』

 新造は叮嚀に和田岬の口入屋に電話を掛けてくれた。その答は否定的であった。
『矢張、今のところすぐ行けると云ふのは、女中さんか、アマさんか、女給さんと云ふところでせうね』

 愛子が余り淋しさうにして立ってゐるものだからお新造さんは馬鹿に同情して、お茶を汲んだりお菓子を持って来てくれたりなどした。それで彼女も庭に立って居る訳にはいかないで帳場の前に四角張って坐り込んだ。然し愛子は決心を着げる迄に良い時間はかゝらなかった。彼女は決心して女中奉公に行くことに決めた。彼女は口入屋の紹介状を貰って、神戸市中山手七丁目切通しの竜木信一と云ふ家に行くことになった。

 其処は兵庫に大きな燐寸工場を持ってゐる人の本宅であった。口入屋で教はった通り、表玄関から這入らないで、裏木戸から通って台所の方に顔を出した。最初に出て来た人は六十位の年格好に見える御隠居さんだった。顔の所々に斑点のある口の大きな眼の丸い顰面(しかめつら)をしたごつごつした言葉使ひをする人であった。愛子は叮嚀に踏台の所に手をついて御隠居さんにお辞儀をした。

『あんた少し上品過ぎて見えるな、うちの炊事が出来るかいな?』

 御隠居さんは嗄枯(しわが)れた声で愛子にさう云った。それには愛子も参ってしまって、顔を赤くした儘仰向いた。実際愛子は明石の叔母の家に預けられるまで、自分で炊事をしたことなどは一度もなかったのである。したいと思ってもさせてくれなかった事がその大きな原因でゐった。愛子は御影石で畳んだ堅い庭に立ったきり、今すぐにでも逃げ帰りたい様な気持でゐた。御隠居様の後から奥様が出て来た。奥様の後から十八九の娘が出て来た。其の二人は御隠居様の傍に坐って、じろじろと愛子を見つめて、そして御隠居様と話をしてゐる。

『こんどのお松どんは少し上品過ぎますな、勤まりますやろかな、家内は大勢だし、お客様は沢山あるし、ゐんまり華奢な人では勤まらん様に思へるがな』

 愛子は奥様が話してゐることが何を意味してゐるかをよく知ってゐた。今日彼女は極黒っぽい縞お召に、一等悪いと思ふ袷帯をしめて来たのではあるけれども、見る人かち見れば、彼女が下品な家庭に育った女でないことだけは、その眼もとを見てもすぐ感付かれることであった。その手は曾て労働したことのない、余りに柔な形をしてゐた。奥様が心配するのも尤もである。

 御隠居様は云うた。
『うちではな、少し長く辛抱してくれる女中さんでないと使ひ難うおますよってにな、あんたの様な華奢な人でない人が欲しかったんです』

 奥様が合図したものだから、娘を残して二人は奥に這入って行ってしまった。華美な模様にハイカラな髪を結うた娘だけは、さも憐れむべき動物が、女中奉公に来たと云ったやうな態度を示して、相変らずじろじろ愛子の顔を見てゐた。待ってゐる間、愛子は台所の構造を見廻したが、そこは実に不便な旧式な台所であった。未だに瓦斯も引かないで、薪で御飯を炊いてゐると見えて、縁の下に沢山薪が積上げてある。神棚には毎朝毎晩お燈明をあげると見えて、新しい土器が、七つ八つ竝べてある。押入れと炊事場の距離が遠い。床と流し場の石畳の水平の差が大き過ぎる。そこは杓文字(しゃもじ)一つ取りに上るにしても一々下駄を脱いで階段を二つ上って二間も歩いて、押込の中にある杓文字を取らねばならないように出来てゐた。御隠居様がまた出て来た。そしてこんな事を云った。

『真にわざわざ来て下すって有難いんですけれども、家ではもう少し年のいった女中さんが欲しいと思ってゐたものですから、今日のところではあなたをお断り致します』

 余りに飽気ない断りの言葉に、愛子はその儘竜木の家を出た。そしてまた相生町の口入屋の方へ急いだ。『親の云ふことをきかないからこんな苦労をしなければならない』。そんなにも考へた。然し亦最も強く生きる為に、最も聖く高い道を選ばなければならない。その為にいろいろな犠牲を払ふこともまた止むを得ない。

 秋風がさっと吹いて、路傍のプラタナスの葉が黄色く斑点を染出して、神戸の裏山の青草が黄ばんで見える夕空に、愛子は心持哀愁の想ひを抱き乍ら、また例の口入屋の帳場の前に坐った。

 その晩遅くまで愛子は、口入屋の主人公から奉公人の捌(は)けて行く口に就いて面白い話を聞かせて貰った。それは殆ど彼女にとって初めての世界であった。女給の内幕、妾奉公の話、さうした話がより多く出た理由は、或ひは愛子がさうした方向にに向く代物であるかも知れないと、口入屋の主人公が考へだものらしい。

 その晩、彼女は口入屋の路次をすぐ出て、五六軒目の所にある小さい宿に泊った。

 翌朝、彼女はまた朝早く口入屋に行った。然し思はしい口もなかった。それで彼女は口入屋に頼らないで探してみようと云ふ元気を出して、兵庫の鐘紡の方から竜木の燐寸会社の辺りをうろついてみた。

 それは倦怠い、長い、単調な道であった。長く雨が無いものだから、歩く度毎に土埃が腰近く迄上って来て咽(む)せるほどであった。汗がだくだく出る。秋とは云へ頭から照り付ける太陽を肩に受けると随分暑かった。髪がほざける。帯が重い。裾捌きが巧いこといかない。懐の具合が心配になる。こんな苦労をするならいっそ高砂の家に帰ってしまはうかと悪魔が囁く様に聞える。

 さうかと思ふと亦、姫路の監獄に居る杉本英世の幻が埃の中から白い浴衣がけの姿で現れて来る様にも見える。眩暈が来る。幻想が漂ふ。顔がほてって来る。動悸が苦しい。便所がつかへて来る。咽喉が乾く。何処を歩いてゐるのか判らない。

 唯目につくのは小さいゴム会社の煙突許りである。まるで燐寸の軸を二百本か三百本灰の中に打立てた様に、細い鉄管が小さい工場の屋根一から空中に飛出してゐる。然し煙の出てゐる煙突と云ふのは殆ど一本もない。

 神戸はこの上もなく不景気である。昼まで歩いたけれども何の役にも立たなかった。舌の根が乾いて、サイダーかアイスクリームが飲みたい。ブルヂヨアに育った愛子は、自分が迚(とて)も職工にはなり切れないと、ひとり嘆いた。漸く道端のうどん屋に這入って腹を作り、また歩き出した。

 それは丁度一時頃であった。小さい燐寸工場の前に女工入用の下札を見つけた。すぐ這入らうと思った。然し考へてみると自分の着物が少し良過ぎる。そこで愛子は古着屋に行って、木綿着物を買求め、それに着換へ、此処まで出直して来ることに決心を着けた。

 然し神戸の地理に委しくない愛子は、古着屋が、神戸のどの辺りにあるのか少しも見当がつかなかった。それで亦口入屋迄帰って来た。口入屋の硝子戸に手を掛けた時はもう四時過ぎであった。彼女はがっかりしてもう一歩も歩けない様な気がした。

 然しお新造が風呂に誘ってくれたのでついて行った。恐る恐るお新造に古着屋のある所を教へて貰った。お新造は根掘り葉掘りして愛子の身分を訊質さうと努力した。然し愛子は『事情がありますから云へないんです』と云って身分に就いては少しも物語らなかった。
お新造は愛子の美貌を頻って賞賛した。悪い気もしなかった。附合ってみるとお新造もまんざら悪い人でもなかった。よく新聞に出てゐるステーション近くの日入屋が誘拐をすると云ふ話も、斯うした人には当嵌(はま)らないのだと、却ってさうした社会にある温かい人間味を味はさせられるのであった。

 風呂屋の気分もよかった。それは迚も冷たい高紗の家では味へないやうな面白味のあるものであった。お新造は宿に泊らないで家に泊って呉れと強く主張した。然しその晩もまた昨日の宿に帰って行った。

 こっそり兵庫大仏前の古着屋を探して歩いた。さうして木綿の古着の高いのに吃驚してしまった。家に帰れば済むものをと思ったが、たうとう十円ばかりの金を出して田舎縞の袷一枚と帯を買うて来た。翌朝入口屋に行って着物を着換へ、昨日探しておいた兵庫水木通り二丁目の公益社に足を向けた。

 其処では訳なく雇うてくれた。然し日給と云ふのがをかしい程僅かなので、愛子は自分(ひとり)でに吹出した。それは食ふにも足りない一日たった四拾銭しか呉れないと云ふことであった。然し彼女は喜んで公益性の女工になることを承諾した。すぐ問題になったのは何処から通ふかと云ふことであった。そこで職長に開いてみた。

『何処かこの近くに下宿させて下さる所はないでせうか?』
『自炊でもしなはるんやったらな、間借りだけは出来まっさ、高うおまっせ?』

 兵庫神戸の言葉には主格を抜いてしまふことが多い。それが如何にも滑稽に聞える。

『あんた月五円位出しなはるか、きいて来てあげるわ、菊松の所の二階の四畳半が空いてゐると云ふことだった』

 職長は工場の方に這入って行った。さうして暗い大開通十丁目の裏筋に住んで居る、細川菊松と云ふものゝ二階に空間のあることまで教へて呉れた。すぐ彼女は約束して、口入屋から其処に引移ることに決取りた。

 愛子は余り事件が面白く発展するものだから薄気味が悪くなって来た。細川菊松の家は階下三間に二階二間の小さい家であった。二階は電車の車掌夫婦が一つの部屋を借りてゐた。そして菊松の夫婦が二人とも一公益社に通勤してゐた。家の留守番は菊松の老母がしてゐた。が家は何となしに暗い感じを与へた。

 工場での仕事は燐寸の箱を作る機械に、薄い木片を喰はせて行くことであった。それはまるで子供のする様な仕事であった。午前七時から午後五時迄十時間労働が強ひられた。そして単調な筋肉労働が毎日続いた、昼はそれでも三百人近くの男女職工が、がちゃがちゃやるものだから、まだ気の紛れることもあった。

 然し気の詰る様な労働街に帰って来ると全くうんざりしてしまって、手紙を出す元気も、活動写真を見に行く勇気は勿論のこと、本の一ぺーヂをすら読む元気も無くなって、風呂に入りに行く位が、最大の楽しみと変ってしまった。さうして一週間は夢の様に過去った。
労働問題も社会運動も、女子大学に居た時は相当に研究したつもりでゐったけれども、そんなものは何の役にも立たなかった。燐寸女工の間に新聞を読む者さへ稀であった。男女関係は紊(みだ)れて居り、猥褻な話が平気で行はれる。それは燐の埃よりか愛子の胸を窒息させた。

 女工の間に幾つかの党派がゐった。それは多く職長の親戚関係や仕事の上の監督者の関係でさうなってゐた。愛子が工場に行った翌日、乾燥室が爆発して、十四になる娘が大きな火傷をした。奉加帳が廻って来た。奉加帳と一緒に頼母子講の勧誘がやって来た。優しい美しい女工もるるかと思へば、毒婦型の女工もあった。

 さうして菊松の女房のおゆきは毒婦型の女工の首魁でゐった。彼女は燐寸の首に薬を着けるのが役目であった。仕事もよく出来た。容貌もちょっとよかった。彼女は不良処女団の様なものを工場内に組織してゐた。昼休みになるとそれらの一団は、工場の隅っこに寄って、穢しい絵の交換をしたり、吃驚する様な厭な批評を平気でしてゐた。それは迚も愛子の様な山間知らずの処女にとっては初めてのこと許りであった。

 彼女等は愛子にすぐ弁天さんと云ふ綽(あだな)を呉れた。それは愛子の顔立が弁天さんによく似てると云ふ為であった。誰も愛子をお愛ちゃんと云ふ人は無かった。弁天さんと呼べば愛子は「はい」と答へなければならなかった。

 愛子の器量がよいと云ふので、男工も女工も彼女の顔を見に来た。それが少からず菊松の女房の気に障った。それで工場に行く時でも誘ってくれることはなかった。

 菊松は博奕を打つ悪い癖があった。さうして女房のおゆきは活劫気狂であった。小学校に行く様な大きな子供が、一人あったけれども、それをお婆さんに放りつけておいて、毎晩のやうに活的写頁を見に出掛けた。

 愛子はさうした家庭を見るにつけて、貧乏するのは当然だと考へた。彼等は収入以上に金を使ってゐた。そして道徳的の摂生といふものを教へる者は誰もなかった。彼等はほんとに生れつきの儘の人々であった。

 工場は汚く非衛生的であった。女工は無知無趣味で向上心を欠いてゐた。さうした芥まみれの世界の中に、愛子は自らを沈石として投げ込んだ。黙々として彼女は、ゼンマイの緩んで行くのを待った。今は愛子も普通の女工と少しも変るところが無かった。人生のゼンマイがじいーじいーともどけて行く。総てを解決するのは「時」の他になかった。