傾ける大地-16

   十六

 警察に連れられて行った杉本英世は、此の前検束せられた時と同じ留置場に、一人だけ入れられた。度々来ると留置場といふものも親しくなるもので、何だか自分の古巣に帰った様な気がした。悪くすると今度は免職になるかも知れないと考へないでもなかったが、それに就いて余り悲観もしなかった。隣の監房には滝村初め六名の者が詰め込まれてゐた。部屋が狭いものだから寝転ぶことさへ出来ないで困って居る。

『無産者は留置場に入れられてまで圧迫せられるから酷いや!』

 と一人の者がこぼしてゐる。留置場の中は実に蒸し暑い。咽喉が乾く、然し水が無い。寝転びたいが床が穢なくて迚も寝転べない。静かに安座を掻いて瞑想を続けてゐゐと、家の事、自分の事、それから日本の将来の事が次から次へと頭の中を横切る。長い病気で一人居ることに練習の積んだ英世は、別に悲観もしてゐなかったが、監房を一つ置いて初田の弟が入ってゐる部屋にはすゝり泣きが聞えた。それば滝村の親類の者で、捕まる時にうんと巡査に殴られて、頭が痛いと云って泣いてゐるのであった。

 その日すぐ取調があるかと思ったら、巡査は皆帰って行って仕舞った。夕暮になって、警察の前の弁当屋から、筍の皮に包んだ、妙な香のする南京米の弁当が入って来た。寝る時になってぼろぼろの蚊帳と煎餅の様な布団が一枚渡された。杉本はまだそれでも寝る場所はあったが、隣の監房では足を重ねなければ寝られないと云って、皆ぶうぶう云って居た。

 翌日朝から取調があった。例の英世を捕縛することを命令した、若い鎌田と云ふ警部補が、彼を訊問した。その訊問の筋を聞いてみると、騒擾罪の主謀として英世を見てゐるらしい。英世は種々な事を聞かれた。然し一々答へることが出来なかったから、その儘沈黙して別に答へなかった。

『君は生意気だよ、君は本官を侮辱してゐるな!』

 さう云って彼はまだ留置場に放り込まれた。二日目に大阪の弁護士で農民組合の顧問をしてゐる、村田賢二と云ふ青年弁護士が尋ねて来てくれた。その時は本当に嬉しかった。そして彼は、英世が騒擾罪の主謀者として擬せられてゐることを聞いて、全く吃驚したのであった。然し彼はそれに就いて敢て悲しまなかった。なる様になる。神は皆知ってゐてくれる、と云った様な簡単な考へ方をして余り慌てもしなかった。

 留置場に三日置かれて彼は、旧の七月十五日の夕方監獄行のがた自動車で、姫路の未決監に移されることになった。他の十三人の者と一緒に移されるのかと思ったら、彼だけ特別扱ひで一人大きな自動車に乗せられた。

 自動車と云ふのは貨物用のフォードを囚人向に造り変へたものであって、外が見えない様に鎧戸が四方に張られであった、スプリングが悪いものだから、野道を走る度毎に車が揺れて吐気を催す位であった。

 姫路の分監に着いた時は暮頃であったが、彼は直ぐ監獄の着物と着換させられる為に、狭い西洋便所の様な所に閉込められた。余り窮屈なので彼は初めに監獄と云ふものゝ味を本式に味ふ様な気がした。暗くてよくは見えないが周囲の壁には一面に、爪で落出がしてあった。

 やがて看守は彼の所持品を一々帳簿に記入して、彼に浅黄の単衣物を一枚貸してくれた。それは筒っぽになってゐて、如何にも貧相な着物であった。それを着ると彼は完全に別世界の人間になった様な気がした。監房は独房であったが、高砂の留置場に比べて非常に清潔で、彼は何だか心が落着いて嬉しかった。然しお蔭でフランス行も結婚問題も凡てがおじゃんになったかと思ふと、何だか谷底に墜落した棋な気がしないでもなかった。

『初めから斯うなることを知って居れば、もう少し本気でやればよかったに・・・』

 と考へもした。幸、毎日弁当だけは差入れのものが入った。勿論第一日は獄則とか云うて、刑務所の飯を食はされたが、その時だけはさすがの英世もほろりとした。と云ふのは麦と玉蜀黍を半々にした様な、迚も咽喉には通らないぼろぼろの飯に、砂が茶碗の底に沈澱してゐる様な、わかめの入った薄い味噌汁が、囚人の手によって配られて来たからであった。
三日目に聖書と雑記帳と万年筆が差入せられた。それで彼はノートブックに彼の感想を書付け始めた。四日目から検事の取調が始まった。検事廷で彼は殆ど申立てる事実を持たなかった。検事は身体の比較的がっしりした顔の長い五十に近いなかなか喰へない様な目付をした男であった。

『君は平素から農民組合員を煽(おだ)てゝ、執達吏が来れば暴行をしてもよいと使嗾してゐたのじゃないのか?』

 さうした突飛な質問に、杉本は答へやうもなかった。疑ってかゝれば白でも黒だと云へるものだと思って、人間の世界の如何にも本意ないことを悲しんだ。然し彼は余り多くを云はないで、自分のとった行動だけを率直に繰返した。

 検事廷に彼は三日続けて呼出された。然し別に新しい質問も検事は持出しもしなかっだ。唯黒衣会と彼との関係、無政府主義と彼との関係、土肥家と彼との関係、町民大会と彼との関係、彼がフランスに外交官として赴任する意志を今猶持ってゐるかどうか等に就いて委しく聞き質されたのであった。

 初めの中、監獄生活は随分窮屈であると思ったが、四日五日と経つ中にだんだん看守とも親しくなり。存外監獄と云ふ所も人間味ある所だと思って呑気に考へる様になった。朝六時に起きて掃除して待ってゐると点呼がある。彼の番号はろの十二と云ふのであったが、廊下に立ってゐる看守が、

『ろの十二』
 と呼ぶ時に、彼は
『はい』
と答へねばならなかった。彼はさう呼ばれることが何だか嬉しかった。

 それと云ふのも毎日毎日沈黙が続いて、自分が声帯を持ってゐるかどうかを忘れてゐる時に、自分が声を出し得ることを、まるで奇蹟でも行ってゐるかの様に考へたからであった。
実を云ふと彼は監獄生活を非常に享楽した。その規則的な所、その静かな所、その沈然、その質素、思ふだけ聖書の読める所、何時間でも瞑想が続けられる所、それが彼の気に入った。そんな風であったから彼は、面会に呼出されたり、入浴の案内を受けたりすることが如何にも厭で耐へられなかった。

 彼は一人編笠を被せられて、監房の裏で運動させられたが、その運動も彼には余り愉快ではなかった。彼は寧ろ瞑想を途中で破られることを惜しいと思った。

 彼は獄中でマルクス理論の欠点に就いて瞑想を続けた。それで彼は慾望の心理に就いていろいろ面白いダイヤグラムをノートブックに書付けた。彼は物質を中心にして社会改造をすることの余りに非人間的であることを考へて、生命、労働、自由の三方面から経済学を書直す様な計劃を立て、検事の取調が済んで、まだ事件が予審に廻らなかった、単調な夏の太陽が監房の狭い窓を明るくしたり暗くしたりして過去って行った。未決監に這入ってから一週間目に叉、大阪の村田弁護士が面会に来てくれた。そしてその翌日父の理一郎が面会に来て呉れた。父は、

『愛子さんが近い中に面会に来るよ』
 と、珍らしいことを云ひ残して帰って行った。殆ど忘れてゐた愛子との結婚問題が、その簡単な言葉でまた想出された。独房に帰って来た英世は、殆ど瞑想を続けることが出来なかった。

 どんな形をして愛子が現れて来るか、彼女はどういふ言葉を発するであらうか、彼女と彼女の父との考はどれだけ違ってゐるだらうか、彼女はまだ彼と結婚する意志があるだらうか、仮令彼が彼女の父の所有地の耕作問題から騒擾罪の、主謀者として、前科一犯と云ふ肩書付の身になっても、彼女はまだ彼を愛にする気があるだらうか、若しも彼が無実の罪に依って前科者とせられ、フランス行も中止し、彼女の父も二人の結婚に反対した場合、彼女は父の意志に反して彼の懐に飛込んで来るだらうか。

 若し飛込んで来た場合、彼はどうして彼女を迎へようか、何処で彼と家庭を持たうか、生計はどうして立てようか、彼を傭うてくれる者があるやたらうか・・・さうした考が止めどもなく湧いて来て、瞑想録に経済心理のダイヤグラムを幾ら書続けようと思っても少しも、ペンを進めることが出来なかった。それからは、

『ろの十二』

 といつも呼出に来る若い看守の草履穿きの足音が廊下の方にするのが待たれた。今日来るか明日来るかと、その日の面会時間が待遠しくて耐られなかった。然し毎日々々呼出しの看守の草履の足音は、廊下の中ばで止まってしまった。

 其処には播州きっての大親分が、有名な兵庫県の疑獄事件に連座して収監せられてゐた。英世はその侠客が羨ましかった。恰度父が面会に来てから四日目であった。例の草履穿きの足音が彼の監房の前に止った。今日こそは愛子が面会口にその美しい姿を現すだらうかと、胸を躍らせながら彼は面会室の堅い椅子の上に腰を下した。小さい木戸口が開いた。然し其処に現れたのは、窈窕(やふてふ)たる美人ではなくして初田伊之介であった。初田伊之助は真正面に杉本の所もよう見ないで、

『大将、偉い痩せましたな1』
 とお愛想を云うた。さう云ふことが如何にも監獄に立入ってゐる者に対する同情の言葉であるかの様に。然し英世は少しも痩せてゐるやうには考へなかった。それ所ではない彼は監獄に来てから非常に身体の具合が好かった。然し。痩せましたなアと云はれてみると、さうかも知れぬと思はない訳でもなかった。

 初田は別に用事も持って来てゐなかった。唯、
『面倒なことになりまして、本当に済みませんでしたなア』
 と云ふことだけを繰返した。
『村に変った事はないか』
 と聞くと、
『憎たらしいと云ったら、土地立入禁止をした翌日から、土肥はどんどん埋立を初めましたわい、無茶しよりますわ、ありゃどうかならんもんですかいな、滝村君の家などは、ほんとに困って、妻君も子供を連れて実家に帰りました、村田さんの云はれた所によると、こんな事件は長引きますと云ふことだんな、こんな所で五月も六月も引張られたら、差入れの弁当だけでも村は貧乏しますわい』

 初田の言葉に彼は土肥が一層横暴振りを発揮してゐるのだと知った。然しどうすることも出来ないから、
『困ったことになったね』

 と同情の言葉の外云ふことが出来なかった。その中に面会時間が切れてしまって、木戸口の小さい戸が上から降りて来た。

 それからまた十日経った。英世は日を忘れない為に、前に這入ってゐた囚人が爪先で書付けた記号の上塗をすることにした。這入ってからもう彼れ比れ一ヶ月近くなるので、そろそろ彼も独房に退屈を感じ初めた。そして愛子を待つことが矢張一種の徒労であることを考へてゐた。

 でもう彼には面会客も多く来てくれないと、断念してゐると恰度九月一日の朝であった。面会の呼出しがあった。家から袷の差入でもあったかと渋々面会口に出た。すると思ひ懸けざる珍客が其処に待ってゐた。それはまがひもなく美しい瞳の持主土肥愛子その人であった。彼女は、最新流行の銀座パックに髪を結うて、濃い紫色のお召に、蔓の模様の入った華美な着物を着てゐた。その着物は英世の着てゐる浅黄の筒袖に比べて余りに大きな相違であった。

『よく来ましたね』
 と英世は、優しく出たが、愛子は大きな瞳に涙の粒を浮べて、
『ほんとに済みませんでした、どう云って、あなたに謝まっていゝか、私はあなたに顔を合すことが出来ない程耻かしいんですよ』

 さう云って愛子は広い袂の底をもぢもぢさせた。石像の様に立竦んだ看守が珍らしさうに愛子の顔を見つめてゐる。

『他所の事ならまだしもですけれど、家の田地のことであなたが監獄に迄這入らなりればならないたと云ふことは、私は思ひも寄りませんでしたわ、家の父はほんとに解らないんですからね、お腹立ちでせうけれども、どうか凡てを私に免じてお許し下さい、私もね、もう少し早くお詫に来なければならなかったのですけれども、なかなか叔母が出してくれませんでしてね、たうとう今日迄延びちゃったんです、私どう云ってお詫していゝか判りませんから、またあなたが保釈にでもお成りになって出て来られたらゆっくりお話しますわ』

 さう云った愛子はハンカチで眼を蔽うて杉本の顔さへよう見なかった。英世は愛子の立場に同情した。然し、彼は新しい思想の持主であるだけに、愛子の様にそんなに悲しいとも思はなかった。社会改造に命を投出した人間は、監獄に半生を送る位の事は覚悟せねばならぬと、思ってゐる位でゐるから、今更愚痴をこぼすだけの弱い彼ではなかった。

『然し、よう出て来ましたね』
 彼は再びその言葉を繰返した。その時愛子は、

『うちに居ればなかなか出て来られないんですけれども、父に余り云ひ逆ふものですから、今は明石の叔母の所に預けられてゐるのです。恰度今日は神戸に行くと云って姫路へやって来て仕舞ったのです。俊子さんにお手紙を頂いたものですから、もう少し早く来ようと思ったんですけれども、どうしても出て来る口実が作れなかったんです、やっとのことで今日は大阪毎日の見学団に参加すると云ふ口実を作って出て来たんです――監房の中は嘸(さぞ)かし御不自由でせうね。書物の差入などは充分なのでせうか?』

 二つの眼瞼を心持ち赤く泣き膨らせた愛子は、澄み切った言葉で尋ねた。それが如何にも英世にとっては嬉しかった。

『有難う、差入はいくらでも許してくれるんですがね、私は余り本を読まないで今度は少し考へょうと思って、瞑想許り続けてゐるのです』

 さう云つてゐる間、愛子は、美しい二つの瞳を据ゑて英世の顔を凝視した。見竦ませられた英世は、彼女の二つの瞳から胸の奥を通って彼女の恥部だの方に潜込んで行きたい様な気がした。白い絹の様な肌が、掻合せられた衿の間から見える。ふつくり丸くふくらんだ胸の線が柔かい双曲線を描いてゐる。

『当分の間、明石に居られるのですか?』
『どうなるかちっとも判らないんですよ・・・私は此処へ来る迄あなたに申上げようと思って随分いろんな事を考へて来たのですけれど、比処へ来ると百分の一も申上げることが出来ませんから、またいつかお手紙にでも委しく書いてみませう』

 君守は若い二人の会話をは身動きもしないで聞きとってゐる。愛子は云ひ難さうにして、途中で言葉を切って、こんな事を云った。

『私は決心してゐますから、あなたが出て来られたらきっと、あなたに御満足が行く様な方法を執りますから、決して落胆遊ばさないで、どうかお身体を大事にして下さい、土肥の家にだって父の様な解らずや許り居る訳ぢゃありませんから、私が此の際、断然決心して、女工にでもなってみようかと思ったりなどしてゐるのです』

 英世は愛子の言葉の中に隠されてゐる、彼女の熱情を充分捕へ得た。
女工って、叔母さんがそんな事を許して呉れますか?』
 さう英世は聞き直した。
『勿論、父も母も叔母も反対でせうけれども、今日の様な虚偽の生活に私はもう耐へられませゐから、いっそのこと家を出て紡績会社の女工にでもならうと思ってゐるのです、あなたはそれを質成して下さいますか?』

 さう云った愛子の頬には決心の意志が仄見えた。
『あなたがやり抜く気でしたら、さうした経験も非常にいゝでせうね』
『あなたが賛成して下さるなら、私は明日からでもすぐ、それを決行しますわ』

 さう云った時に、面会時間の三分間が切れてしまった。そして狭い木戸の鼠色に塗られた戸が上からがたんと落された。