傾ける大地-15

   十五

 不景気風の浸込んでゐる高砂町にも、盂蘭盆の燈籠が彼処比処に吊られ初めた。裏通りを通ると塗られた儘、上塗りもしてない極貧乏な荒壁の長屋にも極彩色の燈籠が吊下げられてゐた。杉本英世はそれを眺めて、一種の淋しさを感じた。彼はその頃から忙しく店の用事で集金に走り廻った。田舎では盆と節季にしか集金が出来ないものだから、少し許り健康の恢復した英世は、父の繁忙を脇目に見てゐることが出来なかった。自転車に乗って、加古川の流域や、揖斐川の流域を走り廻ったが、百姓の家を訪問する度毎に彼が受けた印象は非常に暗いものであった。

『どうしてこの貧乏な農村が高い肥料を使って耕作を続けねばならぬか?』
 と彼は白転車で野道を走り乍ら頭の中で考へた。

 明日からお盆が初まると云ふ旧暦七月十二日の午後三時頃であった。彼は小野町から今し方帰って来た。井戸端に行って身体を拭いてゐた。すると慌しく表から一人の人夫体の男が店に飛込んで来た。

『旦那は居られますか』
 と大声に彼は叫んだ。その時店には誰も居なかった。西瓜の積荷が浜に入ったので、家族の者は皆それを見に行った後だった。猿股一つで裸体のまゝ英世は店に飛出して行った。すると其処には例の高砂農業組合の初田伊之助が立ってゐた。彼は当惑した様な顔をして、碌々英世の顔もよう見ないで、店の帳場をうち見やりながら、こんな事を云うた。

『済みませんけどな、学校裏迄ちょっと来て呉れてやおまへんか、今執達吏がやって来ましてな、土地立入禁止の立札をして居りまんね、つい此の間、土肥さんの処へ談判に行って、青田に土盛する事だけは止めて貰ひましたがな、今日は執達吏が来てゐまんね、法律のことは、わたい等少しも判りまへんよってに、みんなあなたに来て貰ふんが一番いゝと云ふので、ちょっとお願ひに来ましたのや、誠に済みまへんけど、ちょっと足を運んでくれてやおまへんか?』

 さうえった声は若い初田に似合はない元気の無いものでゐった。その声が余り悲哀なので杉本はすぐ行くことを承諾した。彼は浴衣掛に兵児帯をした儘で、初田に連れられて出掛けた。初田は、

『店に誰も留守番が居なくてもいゝんですか?』
 と親切に尋ねて呉れたが、
『いつものことだから大丈犬だよ!』

 と店の事も気にしないでその儘、十二三町も離れてゐる学校裏迄、早足で出掛けて行った。其処には黒衣会の連中も大勢来てゐた。土肥の番頭の島田も来てゐた。巡査も来てゐた。農民組合のものは四十人近くもやって来てゐた。脊の高い身体の大きな滝村俊作は神戸から来た執達吏と押問答をしてゐた。脊の低い人形芝居でする明智光秀の様な人相の悪い男が、田の畦道に立って大声で呶鳴ってゐる―

『そりゃ君等の方にも事情はあるだらう、然し僕等は職権を以てやって来たのだから、君らがい若しも敢て僕等の行動を妨害するなら公務試行妨害で、僕は君を処分するがいゝか!』

 下顎が上顎に比べて少し許り前に出張ってゐる、額の狭い執達吏はさう云うた。彼は長方形の板に四角形の桟を釘付けにした立札を手に持ってゐた。さうして正に畔の所に打立てようとしてゐる所であった。さうさせまいと大きな身体の滝村は、その立札を握り〆て直立に夫を持ち容易に立てる事を許さなかった。田の畔に一列になった四五十名の農業組合員は、

『馬鹿野郎』
『資本家の犬!』
売国奴

 などと口々に執達吏を罵ってゐた。其処には巡査が一人しか居なかった。今一人の巡査は形勢不穏と見て、警察暑の方に飛んで行ったのであった。

 其処へ杉本英世が顔を出した。農民組合員は一々英世にお辞儀をした。英世は細い畔道を伝うて執達吏と滝村の争ってゐる所に近寄った。其処は学校から三町も離れた所で、埋立を初めた所と正反対の方向にあった。

 土地は滝村の小作してゐる所で、立入禁止の面積はその附近の土地約三町歩に亘ってゐた。滝村は昂奮して、大きな男ではあるが泣いてゐた。彼は頻りに、左腕のシャツの半袖で涙を拭いてゐた。

 傍に立った杉本英世もそれを見て貰ひ泣きをした。滝村にしても初田にしても青田のまゝ立入禁止をせられては明日の日から糧食の道を断たれるのであった。然し執達吏は冷然として滝川に云うた。

『君等は払ふべき筈の年貢も払はないで、法律上の順序を執る段になると泣き出すけれども、こんなになることが厭なら払ふべき小作料を払っておけばいゝんぢゃないか!』

 さう云ひながら執達吏は立札を手放してしまった。
 それに対して滝村はかう答へた。

『吾々は年貢を持って行ったんです、それを取ってくれなかったんです』
 それを聞いて執達吏は冷笑する様に云った。
『嘘を云へ君、年貢を持って行ったのだったら、幾ら裁判所だってこんな順序は踏みゃしないよ!』

 その時杉本は初めて口を切った。
『私はこんな所で口を差し扶んでいゝのか悪いのか知らないけれども、私は町の有志者としてあなたにお願ひしたいんです。之等の農民諸君はもう一ト月すれば米になると云ふ所で立入禁止を食っては喰ふ道がありませんから、どうか之等の人々を不憫と思うて今日の所はお引取りを願ひたいんです』

 さう云うた時に執達吏は、遠くの方に目を付けて敢て杉本の言葉に耳を貸さないと云った様な風をしてゐた。沈黙が三人の間に続いた。学校の庭の方に大勢の巡査が姿を現した。それが畔道を伝うて此方の方にやって来る。杉本はその時、

『此奴は事件が悪く転換して来た』と頭の中で感付いたが、別にその場所から立去らうともしなかった。大勢の巡査の近付くのを見た執達吏は、急に元気付いて杉本に向って云うた。

『あなたの姓名は何て云ふんですか、あなたも公務の執行を妨害するつもりなのですか?』
『いゝえ、どうしまして私は唯小作人の生活が余りに気の毒ですから御同情を願ひたいと嘆願に来たまでのことです』

 執達吏は再び滝村の方に向いて宣告する様に云うた。
『君、その立札を呉れないか!』

 さう云った時に滝村は殆ど反射的に、その立札を持って畦道とは直角に青田の中へ駆け出した。それを見た執達吏は大声で一緒に居た一人の巡査に叫んだ。

『君、あの男を捕へてくれないか!』
 さう云はれて、今迄ぼんやり立ってゐた白服の巡査は、これも亦殆ど反射的に白服の儘靴も履かないで、滝村の後を追駆けようとした。所が水はたっぷりあるし、泥が深いものだから、足がなかなか運べない。三足四足行って巡査は青田の中に転がった。

 その滑稽な光景を見て、畦に立ってゐた一同は皆失笑した。巡査が転がってゐる中に、滝村は田の中を遠くへ逃げた。学校の方向からやって来た巡査は畔道伝ひに、先廻りして滝村を捕へようとした。それを見た農民組合員は滝村を捕へさすまいと、我勝ちに田圃の中に飛込んで行って、滝村を擁護せんとした。

 そこに一大活劇が初まった。一人の巡査は滝村に組み着いた。そして一人の巡査は滝村が持ってゐる制札を拐ぎ取った。制札を拐ぎ取った巡査は、どろどろになった儘その立札を執達吏に渡さうと、青田を横切って駆けって来る。それを叉他の農民組合員が阻止する、疳高い声で、

『縛ってしまへ!』
 と警部補の号令が掛る。すると十四五名居た巡査は、皆腰から捕縄を出して誰彼の区別を云はせず農民組合員を縛り始めた。最初縛られたのは滝村であった。その次に縛られたのは、制札を執達吏に渡さうと青田を横切った巡査を阻止した初田伊之助の弟であった。吉田喜兵衛も、田村幸平も、井上喜平もみんな縛られた。

 そして最後に警部補は、静粛にして立ってゐた杉本英世を縛れと命令した。杉本はその無謀な態度に吃驚したのであったが、別に抗議もしなかった。彼は一言も云はないで沈黙の儘縛に就いた。然し余りに政治といふものゝ実際に矛盾の多いことを考へて、くすくすと一人で笑うた。すると彼を縛ってゐた巡査は、

『何が可笑しいんだ、馬鹿ッ!』

 さう云って英世の頬っぺたを激しく殴り付けた。殴られても笑ひは止らなかった。彼は白服をどろどろにした大勢の巡査に守られながら静かに畦道を歩いた。縛られてゐる者は合計十四人であった。恰度巡査が一人づつ縛ってゐる勘定になってゐた。どうした訳か、初田伊之助だけは縛られてゐなかった。それで初田は無言の儘畦道を二三町も、英世と一緒に歩いて来た。然し警部補が、

『ついて来ちゃいかない!』

 と叱り付けたものだから、その儘其処に立竦んだ。幹部が捕縛されて行った後、執達吏は叮嚀に泥まみれになった立札を、おばこの葉で拭いて、それを畦の側に立てた。それは杉本の一行がまだ学校の裏に着かない時であった。杉本は手を捕縄で締上げられて、静かに畔道を歩んだ。畦の上には「のみのふすま」「蚊帳吊草」「おばこ」等が密生して、人間世界の活劇に無頓着であるらしく見えた。

 空はどんより曇って風は少しも無かった。先刻からの活劇が町にどう報道せられたのか、校庭は人を以て埋められてゐた。その人だかりの中を巡査達は凱旋将軍の様に一列になって歩いた。群衆の中には杉本英世が捕へられた者の中に居るのを見て吃驚してゐる者もあった。

 群衆に顔を見られることは英世として、余り好ましいことではなかった。然し彼は凡てを冷静にとって、別に悪びれもせず平気で群衆の中を警察の方に歩いた。然し手に縄を掛けられて歩いた時の高砂町は、その色彩に於ても輪廓に於ても全く不断のそれとは違ってゐた。何だかお伽噺の世界に来た様に、凡てが鮮かにそして凡てが耐久力のない世界の様に見えた。