傾ける大地-14

   十四

『君、斎藤君、私娼ぢゃ不可ないんか、今日の世の中に公娼もあったもんぢゃないぢゃないか、君いくら土地の繁栄策だからと云って、今頃時代に逆行する様な遊廓設置運動も無いもんぢゃないか、君嗤はれるぞ、然し兵庫県ぢゃどう云ってゐるんか君?』

 志田は大きな図体を柱に凭(よ)らせて、坐り乍ら斎藤新吉に向ってさう尋ねた。頭を五分刈にした如何にも奸智(かんち)に長けた様な、小面憎い顔をした斎藤新吉は、志田の問に対して随分煮え切らない答をした。

『さうですね、兵庫県の方では許可するとも許可しないとも判明しないんですが、しないものでもないと云ふことは警察部長も言うてゐたんです。然し、主務省の意見はどうも判らないから、まあ上の方から運動する方がいゝと云うて呉れたんです』

『そんな事っちゃ困るね、君、松島事件でも無ければ叉何とか話も着くんだけれども、あの事件があった為に、随分この問題はやり難いよ、何でも内務省の方針では出来るだけ公娼を廃止して、検黴制度の出来る程度の私娼にするんだと云ってゐたから、兵庫県でもその運動をしちゃどうだね君、然し君が若しも堀内君にでも会ってみたいと云ふなら別だがね、矢張、堀内君も僕以上の事は云はないだらうと思ふね』

 志田はハバナの葉巻煙草をくすぶらせ乍らさう云った。遠くには五反田の町が見えて、景色がなかなか佳い。志田の家は五反田を見下した目黒の高台に立ってゐるので、眺望の視野は非常に広かった。志田は帯に捲き付けた懐中時計を見て出勤時間を気にしてゐる。然し斎藤はなかなか帰らうとは云はなかった。しゃうことなしに志田は、

『ぢゃあ、君を内務次官に紹介するから、僕の自動車に一緒に乗って行きませんか、僕はこれから役所に行くから』

 さう云ひ捨てゝ志田は洋服に着換へる為に次の部屋に姿を消した。それで、斎藤は先に階段を降りて玄関で待って居た。志田夫人は夫を送出す為に奥から出て来た。斎藤は叮嚀にお辞儀をして、絹の袱紗に包んだ物を夫人の前に差出し乍ら、小声で云うた。

『これはほんの印だけの事でござりますけれども・・・』

 さう云って語尾を濁らせた。表には外務省の自動車が待ってゐた。二人はそれに乗って神田橋際の内務省迄飛んで行った。内務次官の堀内の前に行って、堀内に紹介せられた斎藤は、碌々物もよう云はなかった。それで志田は、

兵庫県高砂町から町会を代表して来られたのだが、町会で遊郭の設置を決議してゐるんださうな、それで僕の所に運動してくれと云って来られたのだけれども、僕は畑が違ふしね、何も判らないから訊きに来たんだが、あれはどうなるんかね』

 人の好さ相な大きな声の持主の堀内は、極落着払って志田に尋ねた。
『彼処は君の地盤だね、町会では吾々の党派が相当に勢力を占めて、ゐるんかね』
『ウム、それは絶対多数なんだ』
『町会の要求を聞かないと、今度の総選挙には少し影響するからね!』
『多少動揺すると思ふね、何しろ農民組合の頗る勢力がある所だから、余程注意しないと、次期の総選挙には困るだらうと思ふんだ』

 それだけ云って志田は役所が忙しいからと次官室から立去った。後には斎藤が一人堀内の前に残されたが、次から次へ給仕が面会客の名刺を持って来るので、斎藤も碌々落着いた話もよう仕掛けなかった。然し彼は兎に角大胆に一口開いてみた。

『何しろ不景気なものですから、何か町内の繁栄策を講じたいと、町会は殆ど全会一致を以って遊郭の設置を決議したので御座います。どうか何分の御考慮を煩したいもので御座ります。此の外にちょっと高砂町を繁栄に導く案が見つかりませんで御座りましてね』

 次官は『何云ってゐるんだ』と云ふ様な態度を示して、書類に印許りぺたぺた押してゐた。余り頼りないものだから斎藤は何か次官の注意を引く様な言葉は無いかと、種々考へた末、総選挙の問題を持出した。此奴なら幾ら剛直な堀内だって耳を藉すだらうと思って、
『来年の春は愈々総選挙でございますなア、兵庫県では是非運動費の二三百万円もお作りしたいと思ってゐるのですが、もう本部の方では目見当もお付きになりましたでございますか』

 かう切出すとさすがの堀内も少し気になると見えて、印を押す手を休めて斎藤の方に向き直った。給仕がまた名刺を持って来て、次官に手渡す。

『ちょっと待っとって貰へ!』
 と堀内は給仕を見やりもしないで、斎藤の方に視線を注ぐ。
兵庫県は不景気だと云ふが、すると君の方では多小望みがあるかなあ』
 次官は急に乗気になる。占めたと思った斎藤は、

高砂には御承知でせうが、志田さんもよく御存知の土肥謙次郎といふ男が居りましてなア、最近は非常に吾々の方を援助してくれてゐるのです、来年は必ず幾分か出すと云ってくれてゐるのです。世間には余り知れてゐませんが欧州戦争以来、めきめき頭をもたげて来た土地成金でしてなア、あの男に少し有利な権利を与へてやりさへすれば、二百万や三百万の金はどうにでもなる、と思ふのです、神戸は御承知の通りに今迄随分変った人物も出てゐる処ですから、不景気だと云っても出さねばならない金は、出す事を知ってゐる人間が多いんです、あなたも御承知の通りに大井新兵衛の様な吝な男でも、中田さんには何百万円か出したと云ふ時ですから、兵庫県には変った人物は相当に居るんです』

 次官は急に言葉を変へて、
『君は大臣に会ひましたか?』
『いゝえ、まだお目に掛ったことはございません』
『是非会って行って欲しいなア』

 斎藤は占めたと思った。彼は算盤の早い男であるから、大臣に会った場合に高砂に於ける利権問題の凡てを打開けて、相談に乗って貰はうと、頭の中で話の順序を考へてみた。

 次官は給仕を呼んだ。
『大臣が、お見えになってゐるかどうか見て来て呉れないか』

 給仕はかしこまって云った。給仕が帰って来る迄、堀内は幇間(ほうかん)が旦那をもてなす様にあれこれと斎藤の機嫌をとった。川崎造船所の問題は地方に影響してゐないかとか、鈴木商店の蹉跌は地方財政に影響は無いかとか、次から次へ斎藤が退屈しない様に上手にあしらった。給仕が『大臣はお見えになってゐます』と復命した時に、次官自ら先に立って斎藤を長い廊下を伝って大臣室に案内した。斎藤は天に昇る程嬉しかった。彼は何処を踏んでゐるか、何処をどう歩いたか、全く見当が付かなかった。そしてやがて彼自らが大臣の前の椅子を与へられてゐる事に気が付いた。

 大臣と云はれる入は憲友会一派の勢力家で、腕の冴えてゐることに於ては自他共に許してゐた。中背の色の浅黒い男で風采から云へば迚(とて)も堀内には及ばないが、清濁共に飲むと云った様な、何処かに凄味のある性格の持主でゐった。

 大臣と云ふものに生れて初めて顔と顔とを付合して話をする光栄を担った斎藤は、内務大臣上野義光その人を別に何とも思はなかったけれども、其の職責に対して頭が下る様に思はれてならなかった。第一勲章を呉れる人は此人なんだから、地方の名誉職を長年務めてゐる彼に勲五等位呉れてもよかりさうなものだと思った。

 それでお目鏡に叶ふ様な上手な言葉使ひをしなければならないと思ふと、咽喉から出す声が、口の中でまごついて、唇が自然震えた。衿を掻合せ袖口を正し、袴の筋を真直にして、心持ち斜に坐った斎藤新吉は、大臣に顔を読まれるのが耻かしいと思ったものだから出来るだけ伏目勝に畏った。

 さうした格好を傍で立ってゐる者が見ると、大臣に比べて如何に地方の町会議長が貧弱に見えるだらうかと、斎藤は自個の風采を哀れに思うた。大臣が、じろじろ物も云はないで彼を見守ってゐる。彼は御子の前の鼠の様に竦んで仕舞った。然し堀内が、いゝ紹介をしてくれたので斎藤はほっと一安心した。

『此の方は志田君の紹介で兵庫県から見えられた方ですがね、来年の総選挙に就いても心配してゐて下さるのです。出来ることなら二三百万円作らうと云ってくれられてゐるのです。それであなたにも会って頂いておくと都合がいゝと思ったものですから、御紹介致したいと思ひましてお連れした訳なんです』

 大臣はにやりと笑った。そして斎藤の方に軽くお辞儀をして濁った声で堀内に云うた。
『ぢゃ堀内君、今夜一つ打解けて築地の瓢亭へでも寄ったらどうか、志田君にも電話を掛けて、夕飯でも食はうぢゃないか、さうすればゆっくり話が出来るから、さう願ちゃどうか』

 斎藤はまずまず好都合に行くと思って、嬉しくってたまらなかった。要領のいゝ堀内政務次宵は、それだけを聞いただけですぐ斎藤を大臣室から外に連出した。そして晩の六時に築地の瓢亭で再び会はうと堅い約束を斎藤に与へて廊下で別れた。

 ぽーとしてしまった斎藤ば、天にでも舞上った様な気持ちになって、ふらふらとバラック建の内務省を出た。そして別に行く処も無いものだから、又ぶらりぶらり歩き乍ら外務省の志田参与官を訪問することに決めた。電車にもよう乗らず、自動車を呼止める工夫も知らない斎藤新吉は、霞ヶ関迄歩いた。

 然し志田参与官は何処へ行ったか、省内には見付からなかった。飢(ひも)じ腹を抱へて斎藤新吉はまた霞ヶ関から、日比谷公園迄とぼとぼ歩いた。そして品の好ささうな西洋料理店に立入って、一人で定食を食ひながらその夜の幸福を想ひ廻らした。

 二時過に日比谷を出て彼は銀座をぶら付いた。彼は、中央政客の枢要な人物と待合で懇談の出来る様になった事を、吾ながら大した出世だと思うて、銀座で買物をしてゐる時でも時計ばかり見た。

 然しなかなか時間が経ってくれない。松坂屋の一階から八階迄を隈なく見て廻ったが、それでも未だ四時過であった。然し彼はもうその上歩く勇気を持たなかった。それで少し変だとは思ったが、其処からすぐ築地の瓢亭に行く決心をした。

 奮発して自動車に乗り築地の瓢亭に駆け付けた。余り早く来たので女中に軽蔑せられるかと思ったが、女中は少しもそんな態度を示さないで心持よく彼を歓迎してくれた。天下で有名な待合だからどんな所かと思って見て廻ったが、別に珍らしい所も無かった。

 志田は五時半頃にやって来た。内務大臣と政務次官は六時過にやって来た。勿論、頚の白い女性がちゃんと五人許り呼ばれてあった。斎藤は総選挙の運動費を作るからと云ふ約束で、斯うした思ひ懸けざる御馳走に与(あづか)るのだと考へると何だか薄気味が悪くなって来た。

 若しも土肥が一文も出さぬと云ひ出した場合に、どうして今夜の御馳走を返すことが出来るだらうか、かうした御馳走を食ふ費用も、勘定の時には彼が支払ばねばならないのではなからうか、そんな事を思ふと彼は一切れの刺身も食ふことすら惜しい様に思はれてならなかった。

 上野内務大臣は存外打解けた様な態度を示して、手づから斎藤に盃を呉れた。斎藤はそれを震へながら受取った。この盃を貰ふ為に、二三百万円の運動費を奔走せねばならぬかと思ふと、随分高い盃だと心の中で計算しないでもなかった。

 斎藤はすぐ大臣に歪を返したが、大臣はそれを嬉しさうにもしてゐなかった。大臣は彼の側に坐って酌をしてゐる年増芸者の話に聞き惚れて、斎藤が話掛けようとする地方行政のことに就いては、話し出す機会さへ与へてくれなかった。それのみならず電話が引っ切無しに何処からか掛って来て、ゆっくり腰を落着けて話す時さへ無い程であった。

 志田は堀内次官と頻って来年度の予算に就いて、大蔵省の態度が煮え切らないと大声で話合ってゐた。電話から帰って来ると大臣は、予算の話に耳を傾けた。三十分経っても一時間経ってもその話は尽きなかった。

 そして七時過ぎになって、大臣はもう一つ他に会があるからと云って立上った。何の事はないまるで狐につままれた様になって、斎藤はぼんやりして仕舞った。大臣が帰って十分程政務次官の堀内ば予算の話をまた続けたが、彼も亦他に約束があると云って、すぐその席を立った。

 志田だけはもう少し、永く彼と一緒に飯でも食ってくねるかと思ってゐると彼もまた外に用事があるから失敬すると云出した。斎藤ば全く癪に障って一種の奮激をさへ感じたが、それを口にする事は勿論ようしなかった。

 運動費を作ると云ひ出しだ関係上、一人帳場迄行って百二十円といふ高い勘定を払って来た。斎藤は泣き出したくなって廊下に立往生したが、その晩三等で高砂迄帰ゐ旅費が心配になったので、急いで便所に這入って財布の底をはたいて計算してみた。そして漸く切符を買うて、弁当を二つ位買へるだけの金が財布の底に残ってゐることを見て一安心した。

 斎藤が元の座に帰ると、志田は芸者を相手に各大臣ののろけ話をしてゐた。財布の底の見えてゐる斎藤は、こんな処で愚図愚図して居れば大変な事になると思ったものだから、女中が自動車を呼ぶといふのも押止め、慌しく志田を一人後に残して表に出た。

そして、
『政治は矢張金次第で動くのだ、金の無いものが敗けるのだ』

 斯う考へ乍ら斎藤は築地の川縁を一人淋しく歩いた。空は真暗で星さへ見えなかった。