傾ける大地-13

   十三

 それから三日後に町会がまた開かれた。そしてその席上、公民派の一派は雑作もなく、加納町長に対する不信任案を決議して仕舞った。その一つの理由は町会で決議された事項を、未だに県庁に通達もしてないと云ふことが最大の理由であった。

 然しそれに対して加納兵五郎の弁解は町民大会の決議もあることだしするから、与論が始まって伺ひをたてなければ、混乱は一層甚だしくなると思ったから少し遅延させただけの事であるといふのであった。然し公民派の一派はそれを全く町長の独断によるものとして口を極めて町長を罵倒した。加納は町会が済んですぐ杉本を訪問した。そして町会が幾ら彼に反対しても決して辞職をしないと云ふことを声明した。杉本は第二回町民大会を開いて公民派の横暴を糾弾すると云ひ出した。杉本としてはこんな風に事件の推移することを初めから知ってゐた。で彼に斯う云うた。

『余り町会が横暴であれば税金不納同盟を組織して、町会の反省を促すより仕方が無いと私は思ってゐるのです。町民全体が町会に反対してゐるのですから、町会を解散してもう一度選挙をやり直してもいゝぢやアありませんか!』

『町会に解散を命ずる権能は内務大臣にあるのでしたね』
 加納は当惑相な顔をしてさう云うた。
『内務大臣が町会の解散を命じてくれる迄うんとやってみちゃアどうですか。やりやうに依っちゃァ、成功しますぜ』

 今迄辞職せねばならぬことだと思うてゐた加納は、町会解散論を杉本から聞かされて、少し落付いて自宅に引上げた。一方、黒衣会を中心にして直ちに町会解散要求第二回町民大会を開催すべく、杉本英世は直ちに青年団の有志を呼び寄せて、すぐ翌日午後七時から公会堂で大会を開く準備に取掛った。翌日午後七時の町民大会は、警察の干渉でどうしても晩には開かせて呉れなかった。そして若しも間違ひがあって、町会議員の私宅を襲撃するやうな事があれば、大問題になるから是非陽のある間に開いてくれと署長は黒衣会の連中に要求した。

 止むを得ず講演会は翌日の正午から公会堂で開かれたが、公会堂はまたはち切れる程、町民で一杯になった。それに今日は黒衣会の連中も昂奮してゐるので、忌憚(きたん)なく斎藤一派の攻撃をやった。

 警察は相変らず厳重であった。正服巡査が姫路と神戸、明石から百人近くも増派された。然しどうした訳か、今日は山田一派の破戸漢(ならずもの)は一人も顔を見せて居なかった。

 で、町長大会は殆ど満場一致で、町会解散の決議を通過させてしまった。それで速刻、加納町長は榎本と一緒に兵庫県知事を訪問し、また県参事会員を歴訪して高砂町民の意志のある所を聞いて貰はうと出掛けた。

 杉本は二人を電鉄の停車場まで送ったが帰りは一人になった。時はまだ午後四時頃で、夏の太陽は容赦なく街路を上から照らし付けてゐた。杉本は本町の三上医師の宅迄行かうと思って、曲りくねった細い道を急いでゐた。

 古い徳川時代の多くの建物が竝んでゐる横丁は日中でも人通りが少く何だか物淋しく彼には感ぜられた。中には貝の喰付いた舟底などを、壁の上に打付けた家などがあった。杉本はさうした壁板を面白く見ながら足を急がせた。

 頭の中にはこの四五日来の目ま苦しい出来事に就いてのいろいろな事を幻の様に描いた。そしてその一つ一つに就いて自分の取った行動を、批判してみた。余り不断から水を打たない通りと見えて彼が歩く度毎に砂埃がたつ。彼はこの砂挨の多い狭い路次を通り乍ら、今送り出した加納町長が、極力区劃整理を、主張して遂に町会に容れられず、却って不信任案を突付けられた民衆政治の矛盾に就いて考へた。そして殆ど自分が何処を歩きつゝあるかを忘れてしまってゐた。

 ぼんやり彼は角を曲って、正に大通りに出ようとしたその瞬間、突然後方から鉄の棒で彼の頭を殴り付けた者があった。その為に彼は、すぐ眩暈がして其処に打倒れてしまった。埃の中に打倒れた英世は、かすかに彼を殴った人間が逃げて行く足首を聞いた。然しその後彼は何処にどうして居るか全く気が付かなかった。気が付いた時には近所の人達が大勢彼の周囲に集って彼が何人であるかを評定してゐた。大部分の者は彼を知らなかった。小僧の様な声で、

『この人は杉本の息子さんですがいな』
 といふのが聞えた。英世は耳はよく聞えるが、まだ眼を開けて人を見る元気が無かった。頭がガンガン鳴る。頭蓋骨のてッ辺が痛む。手で触ってみると血が泌んでゐるらしい。彼は起きる元気も無いので、眩暈が止る迄ぢっと埃の中で寝てゐた。

 誰も彼も自分の家へ連れて行って世話してやらうといふ人は無かった。彼は埃の中に寝てゐながら、冷かな世人の薄情を考へて泣いた。彼はまだ起きる元気が無かった。周囲に立ってゐる大勢の人々は大抵は女の人だった。

『悪い人もあるもんやなア、殴っといて逃げたんやな1』
『どっちゃへ逃げたんだっしゃろ?』
『西の方へ逃げましたわ、若い人やった!』

 さうした弥次連中の会話を聞いて、杉本は再び彼がある壮漢に殴られたといふことを意識したのであった。眩暈が大分止った。然しまだ立上る元気が無かった。彼はなほも頭を抱へて埃の中に倒れてゐた。さうしてゐることが恥かしいことであるとは思はないでもなかった。然し、止むを得ないことだとも思った。

 さう思ってみると、街上に寝転んでゐることが存外呑気なことであるといふことを考へた。亦その次の瞬間には自分はよくまあ死なずに生きてゐたものだなア、と考へるのであった。彼は一撃を喰った瞬間と、倒れた瞬間を思ひ出した。然しその倒れた瞬間と気の付いた瞬間の間の時間の連絡が少しも取れなかった。

 目を開いて見た。人の足許りが沢山見える。下駄の裏側が見える。見る所によって世界は違ふものだと考へる。自分は殉教者として今倒れてゐるのだと一人でみづからを慰める。誰も起きて来いと親切な言葉をかけてくれる人はない。然し何処のお婆さんだったか、遠くから湯呑茶碗に一杯の水を汲んで来てその水を口に含んで彼の顔に吹き掛けてくれた。

 余り突然なのと冷たかったので彼は吃驚した。彼は寝てゐることが恥かしくなった。手をついて半身だけ起直ってみた。頭が痛む。まだ眼がフラフラする。それで彼はもう一度道の上に倒れた。するとその親切なお婆さんは彼に残ってゐた湯呑茶碗の水を唇に当てゝ飲ませて呉れた。

 それで彼はまた勇気を出して立上った。そして、フラフラする頭を押さへ乍らお婆さんに小さな声でお礼を云って、前方へ歩いてみた。目が眩む。家と道とが廻ってゐる様だ。大地が傾いて見える。

『あゝ、大地が傾いてゐる、資本主義の世界に於ては凡てのものが傾いてゐる。地球の軸が少し曲り過ぎてゐるのだ』

 そんな事を考へながら彼は、十足歩いては一寸休み、廿歩歩いては一休みして、たうとう白分の家迄辛じて辿り着いた。気が付いてみれば、彼の殴られた所は、自分の家より五町も隔たってゐない近い所であったのだ。それにしては町の人は不親切だとこぼしてみたが、またお婆さんの一杯の水を有難く思はない訳ではなかった。

 家に着くや否や、彼はすぐ妹に床を敷いて貰って寝込んでしまった。三上医師は飛んで来た。頭に包帯が巻付けられた。熱が四十度を二分超えた。氷嚢が吊られた。高等刑事がやって来た、黒衣会の連中が大勢見舞に詰めかける。町は不安な空気に閉された。暮近くなって久し振りの雨が路上の埃を沈めた。そして古い庭の手水鉢の下にあるバレンの葉がしっとりと一雨に濡れた。