傾ける大地-12

   十二

 その日の昼過、斎藤は一味徒党を全部若竹楼に集めた。妾の里見市子は薄っぺらな唇を開いて彼を歓迎した。公民会の殆んど全部が集って来た。即ち、骨董屋の伊藤、呉服屋の樋口、醤油屋の花井、酒屋の村上、家具商の滝村、肥料屋の富田、時計屋の桜内、保険屋の氷上、金貸の志方、鉄工所の由井、造船所の巴、自転車屋の上田、炭屋の金山等残らず集って来た。たゞ下島だけは店の都合とかで出て来なかった。

 会場はいつも皆の寄合場所である二階の大広間であったが、会議の初まらぬ前から酒が初まった。例の如くまた検番から栴勇の一行がお酌に繰込んで来た。然し里見市子から特別電話があったと見えて、今日はみな質素な風をしてやって来た。一行の中には志田の歓迎会に来てゐた芸妓の顔はみな入ってゐた。呑み助で名高い地方新聞記者細見徹は何処で今日の会合を聞いたか、車で駆付けて来た。そして、斎藤を捕へて云うた。

『えらい今日は警戒厳重な集りやなア、警察では要所々々に私服刑事を派遣して、要塞を固めてゐるし、此処の入口には四人も私服が立ってゐて我々を誰何(すゐか)するのだから、迚(とて)も警戒厳重で君らには寄り付けないよ、今日の会合は何だね』

 さう云うたのが挨拶で、細見はすぐ其処に坐り込んで徳利を傾け初めた。盃の数を数へる毎に上機嫌になった細見は、今朝彼が書殴った杉本攻撃の記事に就て自慢さうに物語り始めた。

『斎藤さん安心しなはれ、今夜の夕刊にはあなたの御希望通り三段抜きで書いときましたぜ、あれであなたが満足しなかったら、わしはあれ以上書く方法はないわ、それでまだ足らぬと思ったから、追込みに、杉本一派の悪口をうんと書いておきましたよ、少し嘘も入ってゐるけど、記事を誇張さすのには仕方がないと思ったから、あることも無いとともみな書いて置いた、杉本があれを見たら怒るだらうけれど、彼奴少し生意気だからな、怒る位に書かんと応へませんよ――』

 実際細見はいつも毒舌を振ふので有名であった。その為に高砂町民で彼を尊敬してゐる者は誰もなかった。例へば今度の場合でも杉本に就いては随分酷いことを書いた。その一例は杉本英世が土肥家の令嬢を強姦同様手ごめにしたとか、彼は絶大の色魔狂であるとか、彼は大杉一派の無政府主義者であって、黒衣同盟といふのは、杉本が煽動して作った無政府主義の団体であるとか、あられもない虚偽の報道を平気でしたのであった。

 若竹桜の会議は別に纏った相談があるでもなく、只だらだら色々なゴシップを持寄り、大体に於て今後執るべき方針を取纏めようといふのであった。それでゴシップの好きな連中は斎藤を中心にして、頻って今後の方針に就て画策してゐたが、家具屋の滝村の様にデカダンを看板にしてゐる人間は、隣の四畳半に入って芸妓の梅幸を抱いて寝転んでゐた。

 滝村でなくても余り政治に熱心でない連中は、風通しのよい縁側に碁盤や将棋盤を持出して、黒白を争ってゐた。炭屋の金山と酒屋の村上は笊碁党であった。碁を知らない金貸の志方と鉄工所の由井は将棋に夢中になってゐた。町会議員といふ名前が欲しい許りに町会に出た巴や自転車屋の上田の連中は古い講談雑誌に読耽り乍ら寝転んだ。

 然し伊藤、樋口、花井、冨田、桜内、氷上の連中は天晴れ天下の政治家気取りで昨夜の町民大会から今朝の黒衣会の町会議員私宅訪問、青山一派の検束、杉本英世の豚箱入等の事に就いて面白さうに形勢の移って行く状態を話し合った。それをまた呑み助の細見徹は酒代の材料にでもしようと考へたか、一々詳しく書止めてゐた。

 繰込んだ芸者の連中も酒が余り進まないものだから、手持無沙汰に滝村の寝転んでゐる部民に這入って、八々を初めた。其処へ市子も入ってなかなか賑やかである。警察から特に派遣せられた柔道二段の秋山巡査他三名の司法刑事も余りの手持無沙汰に玄関の隣の女中部屋で寝転んでゐる。

 流石に斎藤一派は熱心であった。斎藤は皆の者に云うた。

『問題は杉本英世をどうするかといふことになるのだよ、彼さへ居なければ三上実彦の如きはどうにでもなるんだし、青山や榎本の連中は何も判らずにやってゐるのだから、我々が少し強く出れば引込んぢまふんだよ。だから一等いゝことは杉本を高砂町から追出してしまへば我々の目的は達せられる訳なんだ、そして杉本を追出すことはさう困難な事ぢゃないんだ、志田さんの所に事情を書いてやりさへすれば、彼はすぐ免職になるだらうし、従って土肥との問題も縁が切れるやうになり、この土地に居れなくなるから何処かにすく出て行ってしまふよ、それでも尚ひつッこく居たがる様であれば、我々は真向から彼の思想が国家に有害であることを宣伝して、彼を孤立せしめさへすればいゝんだ、さうするにはこちらの方には細見君の様な人もあるし、どしどし新聞を利用して杉本に対して逆宣伝をして行きさへすれば、幾ら何でも彼は凹んでしまふに違ひないんだ』

 その言葉を承継いで桜内はすぐ合槌を打った。

『実際此度の事件などでも杉本が帰ってゐなければ、こんなに大きな問題になるのぢゃなかったのだ。加納や三上などでも馬鹿に杉本を頼りにしてゐるらしいからなア、然し署長も随分思ひ切った事をやるね、僕は先刻滝村君から杉本が検束せられたといふことを電話で聞いて署長は偉いと思ったよ』

 夕靄がだんだん淡路島の紫色の影を蔽ひ初めた。瀬戸内海に特有などんよりした鉛色の薄雲が低く天空から降りて来た。隣の部屋では、市子や梅勇の連中がキャッキャッと肝高い声を立てゝ勝負のあった度毎に笑ひ興じてゐる。碁と将棋の連中は如何にも呑気さうに勝負を続けてゐる。細見は自分の書いた杉本攻撃の記事で一杯になってゐる夕刊を自分手に階下から持って来て斎藤に見せる。斎藤はその記事を見て喜んでゐる。

『この調子この調子! 嘘でも構はん、杉本が高砂に居れなくなる様に書いてくれさへすれば、それで我々の目的は達するのだ。さうすれば近い中にこの若竹楼の前辺りに、遊廓を建てゝ細見君にうんと御馳走するんだなア!』

 その言葉は細見に余程気に入ったと見えて彼は顔の相恰を崩して嬉しさうに笑った。高等刑事が反対派の情報を漏らして若竹楼にやって来た。この男は尾関と云って馬鹿に昂奮する男で、今日署長がとった態度が非常に町民の反感を買ったことを縷々斎藤に云って聞かせた。

『先方も三上の処で集って密議を凝らしてゐる様ですが、黒衣会の一派が町会議員の私宅を焼打するかも知れないと云ふ評判が専らです』

 彼は黒のアルパカにクリーム色のズボンを履いて如何にも才子らしい様子をしてゐた。下顎の尖った桜内は彼に一瞥を与へて、

『焼打? そんな事があるもんか!』
『いや然し皆昂奮して居りますよ、兎に角何か起るでせうな。ですから署長は町内の一般の空気が落着く迄、此処二三日、黒衣会一派の検束は解かんと云って居りますよ。その方がやはり賢いでせうなア』

 斎藤は町民が一層昂奮して来たといふことを聞いて、一種の恐怖を感じたと見え、尾関の言葉を聞いて唇の色を変へた。そして尾関に聞き直した。

青年団の連中はどういふ考へを持ってゐるんだらうね?』
『いや、その青年団の連中ですよ。あの連中は杉本のゆふべの演説に非常に感動したと見えて、どんな事があっても高砂町内には遊廓を建てさせないと云ってゐますなア。あの連中は署長が青山一派を検束したことに対して非常に反感を持って、今夜あたり大挙して警察に押掛けて行くと云って居りますよ。その中でも滝村さんの工場に働いてゐる家具職工のある男などは、公民会一派の者を片ツ端から擲り倒してやると云って居るさうです。当分の間御注意なさらぬと御怪我があっちゃなりませんからなア。余り夜は外出なさらぬがいゝですなア。我々の方としても注意はしますが、何と云っても先方は分別のない青年許りですからどんな事を為でかすか解りませんので、此方の方も大いに注意する必要があります』

 それを聞いてゐた細見が、
『尾関君、余り恐がらせを云ふなよ、青年団の連中にそれだけ胆魂の据った男が一人でもあるかい? まあそんな事はどうでもいゝ。一杯飲まんか君!』

 さう云って細見は尾関に盃を突きつけた。然し尾関はそれを受けようともしないで、
『今日お集りの方々はどなたとどなたでございますかなア』
 さう云うて手帳を開けて姓名を書き初めた。細見はそれを見て嘲笑する様に云うた。
『誰々って? 此処に居る者だけぢゃないか! 君知ってゐるぢゃないか!』
 尾関は軽く頭を下げて無言の儘、手帳に名字を書き続ける。そしてまた鉛筆を置いて斎藤に向って尋ねた。
『本日の御会合でお決まりになった事は別に無いのでございませうか?』
 細見は斎藤の答へる前に傍から答へた。
『君も杓子定規的の男だなア。酒飲みに集った会に決議も何もあるか君!』
 さう叱り飛ばす様に大声で云はれたものだから、尾関は叮嚀に挨拶をしてその席を立った。

 然し斎藤は尾関の立った後、すぐに電話口に飛んで行って警察署長に電話を掛けた。それは自己の身辺が実際危険であるか否かを聞き質す為であった。

 間も無く夕飯の為に大勢集ったが、滝村が一等黒衣会の連中な恐がってゐる様であった。
『今夜はもう家に帰らないで、此処で寝ようかなア?』

 そんなに彼は独言のやうに云うた。けれども大勢集ると空元気が出て気の弱い連中迄が偉さうな事を云ひ出した。その中にも桜内は特に町長を早くやめさせて公民会で町長を出す様にしなければ、この間題は結局いつまで経っても片付くことはないと強く主張した。

 それには誰も反対する者もなく、この次の町会には町長に対する不信任案を出すことにその場で決めて仕舞った。その際斎藤は遊廓の土地問題に就いて、土肥から相当に運動費が出ることをそれとなく皆に云ひ含める様に発表した。