傾ける大地-11

   十一

 土肥家にごたごたがあった昼頃、黒衣会の面々は打揃うて町会議員に辞職制告の決議文を突つける為に戸別訪問をして廻った。第一に訪問した家は西洋雑貨商の斎藤新吉の家だったが、斎藤は酒々としてその決議文を受取ることを断った。その次に伊藤唯三郎の家を訪問したが、伊藤は存外臆病で、留守を用(つか)って到頭面会しなかった。

 その次は下島毅、樋口直蔵の二軒を訪問したが、どうしたことか敵もさる者、樋口の門を出るや否、黒衣会の面々は皆警察に連行を求められた。余りに突然な不意打ちに黒衣会の猛者連も多少恐慌を来した様だったが、初めから斯うしたことを覚悟してゐたものの、警察の余り乱暴な態度に憤慨しないものも無いではなかった。

 警察に検束せられた者は合計十一名であった。検束せられたものは暴力取締令に触れるといふのであった。警察はどう取違へたか、検束した者を凡て留置場にたゝき込んでしまった。

 然し誰が知らすともなく三上実彦の所に青山外十名の者が警察に検束せられたことを電話で知らせて来たものだから、三上は杉本英世の所へ貰ひに行ってくれと電話をかけて来た。それで杉本は倉皇家を飛出して警察署に駆付けた。英世はすぐ署長に面会を求めたが埒が明かなかった。すぐ彼は高等課に廻った。

 すると顔の痩せた見るからに厭な男が、
『君も家に帰らずに居ってくれ給へ、行政執行法によって検束しておくから』
 と言渡されてしまった。

 何の事はない、まるで御維新時代の保安条例の適用を受けたやうなもので、猫の前の鼠の様にぐうの音も出ずに敵の陥穽(おとしあな)に掛りに来たやうなものであると英世は考へた。英世は余程彼が高等官であって紊(みだ)りに彼を検束する権利のない事を主張しようかと思ったが、さう荒立てると事が面倒になると思ったものだから無知な警察官の為す儘に任せておいた。

 英世が高等課の宿直室に検束せられてゐる間、署長と高等謀主任の間に忙はしく電話が引切りなしに掛った。それによると警察本部の命令で黒衣会の連中を一名も残らずに検挙してしまふらしく聞えた。杉本は事が段々面倒になることを知って驚いてしまった。彼にはさっぱり見当が着かなかった。町政を改造しようと奮起してゐる正義の団体に、かくまで高圧手段を執るといふことが理解されなかった。

 やがて杉本もまた保護宝から警察の留置場に放り込まれた。其処へ這入ると入口に巡査が腰かけてゐて、英世の財布から時計まで所持品の一切を取上げてしまった。

 こんな所に来るのは初めてなものだから、英世にはそれが何の事かさっぱり解らなかった。兎に角政治といふものは可笑しいものだといふやうな気がして、日本の警察制度を嘲笑したくって耐らなかった。またさうした半面には、今に見て居ろと云った様な感じが胸の中に湧くのであった。

 四つある監房の中で英世は一等奥のいつも余り人の這入らない所に入れられた。外に錠を下す音が聞える。
『何の事だ、俺の様な愛国者を何故こんな牢獄に繋ぐ必要があるのだ』
 英世は余りの矛盾に馬鹿げて涙さへ出なかった。
『何かの間違ひだらう、否、間違ひにしてもその程度が甚だし過ぎる、かうして日本には罪のない多くの善良なる国民が牢獄の責苦に逢はせられつゝあるかと思ふと、今更乍ら法律といふものゝ権威を疑ひたくなった』

 隣の監房から青山の声がする。
『杉本さん、あなたも来たんですか、お家から捕って来たんですか?』
 彼は留置場の規則を破って、大声で杉本に尋ねた。彼としては警察が人民保護の使命を栄さないで、資本家擁護の仕事をしてゐるといふことに憤慨してゐるものだから、留置場を何とも思ってゐないものらしい。然し杉本はこれに対して相当の尊敬を払ひ度い気持ちでゐるので、出来るだけ低い声で彼に答へた。

『君等を受取りに来て、つい捕へられたんですよ』
『仕方がないね、どうも!』

 英世は独房の隅をぐるぐる見廻したが、それは彼にとって一つのインスピレーションだった。北側の高い所に小さい窓がめる。そこには鉄の格子が入れられてあった。部屋は檜の薄板で張詰めであったが、その上には楽書が一杯しであった。隅に寄っておまるが一つ置かれてあった。その反対側に、何の為であるか小さい棚が一つ作られてあった。英世はその低い棚の前に脆いて静かに祈りを続けた。

 ――み光の父、日本の闇を照して下さい、正しきものは牢獄に投ぜられ、誤れる者が栄えてゐる今日の日本にあなたの光を投入れて下さい――

 長い間掃除したことのない部屋と見えて、埃が堆高く棚の上に溜ってゐた。瞑想と祈祷の間々に、英世はその埃の上にいろいろな文字を書付けた。紙と鉛筆でもあれば、感想文の一つでも書くのだが、万年筆迄取上げられたので、さうした落書でもする外には道がなかった。一時間半位経って後、守衛の巡査が英世を呼出しに来だ。隣からは青山の声がする。

『杉本さん、もう出るんですか、もう少し置いて貰ひなさいよ。此処の警察は無茶をしよるから、この問題に就いて糺弾演説をしようぢゃないですか』

 暫くして誰の声であるか、はっきり判らないけれども、隣の監房から声がする。
『杉本さん済みませんがなア、出ていらっしゃるのでしたら家に云うて、塵紙と手拭を至急差入れするやうに伝へて下さいませんか』

 英世は『よろしい』といふ言葉を残してまた外に出た。其処には加納町長と三上実彦が立ってゐた。
『どうしたんですか杉本さん、署長はどうしてこんな所へ、あなたを入れたんですか?』
 さう三上は尋ねた。
『理由はちっとも私には解りませんよ』
『全く無茶ですなア』
 さう云って町長は憤慨してゐる。
『いやそりゃ判ってゐるよ、あの斎藤の野郎が手を廻してこんな事をさしたのに違ひないんです』
 三上は濃い髯をしごき乍ら町長にさう云った。三人は打揃うて署長の前に出たが、三上は顎髯をしごき乍ら署長に詰寄って云うた。

『署長、君は杉本英世君が何人であるか知ってゐますか?』
 署長は中背の男で如何にも官僚畑に育った様な四角形の顔をした人であった。いよいよ因ったらしい態度を示して人の顔を続けて三秒とはよう見なかった。署長が何も答へぬものだから三上は追駆けて質問した。

『君は、斎藤新吉に使嗾(しそく)されてかうした態度を取ったんだらう。事実を白状し給へ、事実を白状しなければ僕は県会の問題にするよ、之は由々しき人権蹂躙の問題ぢゃないか、君はさっきに町長に向って杉本君は社会主義者だから検束したと云ったが、杉本君は立派な官吏ぢゃないか、而も彼は高等官ぢゃないか、それを君は検事の拘引状も発して貰はないで紊りに彼を留置場に入れるとは何だ、人権蹂躙の責は免れないだらう』

 三上がビシビシ責め立てるものだから、署長は額の汗をハンカチで拭き乍ら、伏目勝で何もよう答へなかった。三とはなほも続けて署長に詰問した。

『君、黒衣会の人達も出してくれ給ヘ、君は暴力行為取締法に触れると云って青山君などを検束したさうだが、何処に彼等が暴力行為に訴へる様な形跡があったか?』

 署長はわざと平気を装ふ為にシガーレットに火を付けながら一寸三上の顔を覗いて、
『あなたはさう云はれますけれども此方は此方の考へがあるものですから、安寧秩序を害すると見た者は我々は容赦なく処分するのです、黒衣会の連中が町会議員の私宅を訪問するのはいゝけれども、十数名の者が団体を組んで訪問するといふことは穏当なことではありません。そこで県と打合せして彼等を検束したまでのことなんです』

 其処で町長は扇子をばたつかせ乍ら署長に云うた。
『然し君は知ってゐるぢゃないか、青山君の如きは青年会の副会長をしてゐることだし、平素の素行を見ても判ることぢゃないか、咋夜の町民大会を見ても判る通り、町民全体の意向は遊廓設置、競馬場新設に反対してゐるのだから、君は飽くまでも黒衣会の人達を圧迫するとすれば延(ひ)いては町民全体を相手にして戦はなければならなくなるよ、その一挙は君は勿論覚悟してゐるだらうね』

 署長は町長の方には余り遠慮してゐないと見えて、三上に比べてはずっと長い時間の間顔を見つめて、幅の広い濁音で答へた。
『いや実はそれを心配したから青山君などを検束したので、今朝から町では滝村議員の自宅を襲撃するといふことを彼方此方で噂されたものですから、そんな事がない様に中心人物と目される人を検束したまでのことです、それですから若しも襲撃する様なことがないと思へば、私はあの人達を長く検束しておく必要はないのです。しかし今夜は彼等を釈放する訳に行きませんな』

 司法の部屋では誰かゞ頻って犯罪者を擲ってゐる。杉本英世はその音に耳を傾けて聞いてゐたが、警察といふところは殺伐な所だといふ感を深くした。杉本は三上に耳打して青山や榎本の連中が紙と手拭の差入れを要求したことを告げた。それで三上はすぐ青山と榎本の家に電話をかけて手拭と紙と楊子と歯磨を持って来るやうに手配りをさせた。それから間もなく三人は警察署を引上げたが、すぐ三上の家に青年会の有志者や少数派の町会議員、大友、河上などの出席を請うて、町政の善後策に就て打合せをした。雲行はだんだん険悪になって来た。高等刑事が繁く三上の戸口を出入した。