傾ける大地-10

   十

 父の謙次郎はブルブル眉聞の筋肉を震はせ乍ら、表座敷から奥の間に遣入って来た。彼は朝早くから斎藤新吉の訪問を受けて、朝飯も食はないで二時間以上も話を続けてゐた。今し方彼は斎藤を玄関迄送出してやっとのことで、奥に這入って来たのであった。其処には娘の愛子がフランス刺繍をしてゐた。愛子はそれをクッションのカヴアにして、英世に与へる約束をしてゐたのであった。

 父はいつになく心を荒立てゝ愛子に云った。
『もうお前のフランス行きは取止めだぜ、あんな、杉本の様な訳の解らぬ男と一緒に行ったところで仕方が無いぢゃないか』

 さう云って父の謙次郎は手水場の方に姿を消した。
 その言葉に驚いた愛子は、父の余りに変った態度をいろいろと臆測しながら針を運んだ。愛子は略々(ほぼ)期うなるだらうと夕の演説会の帰りに想像してゐたから、父の言葉が調子外れの出来事であるとは思はなかった。然し余りに事件が早く進行するのに驚いた。愛子は決心してもゐた。どんなことがあっても英世の他に愛する人はないと心の中で決めてゐた。それで彼女は土肥家を出て小学伎の教員をしてでも、杉本英世の妻になることの覚悟をしてみた。それで馬鹿落付きに落付いて短い絹針を表から裏に、裏から表に根気よく運んだ。父は台所で食事をしてゐるらしい。母のよし子との会話が一間置いて台所の方から聞えて来る。

『――咋夜の騒ぎは矢張、杉本が蔭に隠れてゐるのぢゃさうやな、彼奴も顔に似合はぬ悪い奴やなア』
『さうだっしやろなア』

 よし子が感心して発した言葉が奥の間によく聞えて来る。
『だから私は初めから愛子を杉本にやるのは反対でしたでせう、うちの子は器量もよし、教育も相当にあるのだから、何も慌てゝ小商売人の息子にやらなくても、華族や富豪の名前の通った所から沢山申込があることに決ってゐるのだから、杉本にやることは断然思切った方がいゝと思ひますわ・・・それに杉本は肺病だっしゃろ、うちの娘に肺病でも伝染ったら一人しかない娘が可哀相ぢゃおまへんか・・・』

 愛子は母が英世を嫌ってゐることは薄々と気が付いてゐた。殊に志田義売が土肥家を訪問して、或華族の坊ちゃんに愛子を世話しようと云ひ出してから後は、口癖の様に、その華族系図の話が出るのであった。両親が続けて行く会話を遠くから聞いてゐて、愛子は無学な両親の頑固な思想を一層気の毒に思ふた。

 愛子としては月々雑誌『改造』を読んだり、また各種の社会科学の書物を読んでゐる為に、時代の変化が著しく日本の凡ての制度に迄浸込んで行きつゝあることに気が付いてゐるから、咋夜の様な事件が起ることは余りに当然であると考へられるのでゐった。

 それに反して両親は今尚旧いブルジョア気質で、金力で何処迄も町合体が左右出来ると思ってゐる様な所がある。愛子はそれを両親に云うても全く理解してくれないと思ってゐるので努めて口を噤(つぐ)み両親に云ひさからはない事にして来た。それで両親は娘の愛子は大人しいいゝ子とのみ信じて来た。

 然し愛子としてもまんざら箱入娘ではない。東京に居た時は、特種の社会問題講演会に屡々(しばしば)出席して、社会主義者の演説会が警官によって解散を命ぜられてゐる光景を見た事もあるから、社会運動がどんな物であるかをよく理解してゐるのであった。ある時は彼女もさうした花々しい改造運動に携はることが若い者の義務でないかと思ったこともあった。誠に母のよし子と娘の愛子の思想の距離は、彼女等の髪の形の違ふ如くに相隔たってゐた。

 食事は済んで夫婦打揃うて奥の間にやって来た。さうして父の謙次郎は愛子の前に、母のよし子は愛子の右側に行儀よく坐り込んで、こんな事を云ひ出した。

『愛子さん、あなたもうフランス行きを思ひ止まりなさいよ、旦那さんはあんたはもう杉本の所にはやらぬと云っていらっしゃいますから』

 愛子は顔も上げないで平静を装うてなほも針を続けて運んだ。ポプリンの布の上に幾何学的に彩られて行く紫や焦茶色が何とも云へない程美しく光る。桜色した愛子の美しい指先が、あるしなやかさを以て布片に触る瞬間、芸術の美しさを愛子自身も深く感じるのであった。愛子が余り長く口を噤んでゐるものだから母のよし子は尚も続けて云った。

『愛子さん、あなたは矢張り杉本へ行く気で居るんで?』
 さう問詰められて愛子は、母の方に向き直って澄み切った声で斯う答へた。
『そのつもりでございますよ』

『それが都合が悪いから、お父さんの方では他へ縁付けたいと考へていらっしゃるんだが、お前はもう少し杉本より楽な所へ行く気はないかい?』

『私は御両親がおきめ下すったから今日まで交際を続けて来たのでして、今更変へる事は出来まぜん、今になって変へよと仰しゃるなら私は土肥家を出ても英世さんの所に行きます』

 すみれの花の様な美しい形をしてゐる唇から、さうした大胆な言葉を洩らしたので、母のよし子は吃驚してかう答へた。

『恐ろしい娘ぢゃね、お父さんもお母さんも一旦はお前を杉本へやるといふことを決めたけれども、昨日の出来事以来杉本の家とは敵同志になったので、お前を敵の所へやることも出来ないから、家と交際の出来るやうな所へお前をやりたいとお父さんはお考へになって居られるのだよ。解らん娘ぢゃねお前は、それでもお前はまだ両親の考へに反して杉本の所へ行く気で居るんかい?』

『えゝ』
『えゝだけぢゃ判らんぢゃないか』
 父はその時やゝ昂奮した口調で尋ねた。
『行く気で居ります』
 愛子はきっぱり父に向って答へた。
『仕方がない娘ぢゃね』
 母はさう一言云うて謙次郎の顔を見た。
『お前を華族の家から貰ひに来てゐるんだが、其処へ行く気はないかい?』
『いゝえ、ちっとも行く気はありません。私はそんな所へ行って幸福であり得ようとは思ひません。私は貧乏をしても私を愛してくれる所へ行きたいと思ってゐます』

 父はその時、声を荒立てゝ愛子に云うた。
『愛子、お前、杉本は社会主義者ぢゃないか。わしはお前を社会主義者の所へ嫁にやることは出来ない、それでもお前は杉本の所へ行きたいと云ふなら、家を出て呉れ!』

 愛子は静かに席から立上った。そしてその儘表に出て行く態度を示し、彼女は中の間を通って玄関迄急いで行った。母は慌しく後から追駆けて愛子の袖を捕えた。

『愛子さん、あんたどうしたんで、お父さんの云ふことに腹を立てて、そんな軽々しい態度を取っては困るぢゃないで!』

『いゝえ、私は少しも軽々しい熊度をとってやしません、お父さんが出て行けと仰しゃるから私は出て行く迄のことです。私はそんなに易々と私の志を変へる訳には行きません、私だって人間ですから、お父さんやお母さんの云はれることが御無理でなければいつでも喜んでお従ひはしますけれども、杉本さんの思想があなた達の考へて居られることゝ逆なことがあるからと云って、すぐに縁談を取止めにして私を見ず知らずの華族の所へやらうといふことなどは、それは徳川時代ならいざ知らず今日の時代では通用しませんよ、出て行けと仰しゃるなら私は出て行く迄のことです』

 母は眼に涙を漂へながら娘の袂を捕へたまゝ其処に立竦んでしまった。母は泣きじゃくりしながら疳高い声で娘を叱る様な調子でかう尋ねた。

『それではお父様に対して今日迄御厄介になった御恩を返せると思ひますか?』
『必ず先へ行って返します、暫くくの間見てゐて下さい』

 その時奥から大股で駆け山して来たのが父の謙次郎であった。彼はプンプン怒りながらいきなり娘の左の頬ぺたを平手で殴り付け、よし子の止めるのも諾(き)かないで、娘を玄関口から庭に突落した。

『不孝者――そんなに迄杉本の家へ行きたければすぐに行くがよい、一刻も家に居って貰はない、罰当り奴が!』

 突落された娘の愛子は、両親が泣いてゐるに引換て少しも昂奮した色を見せず、極落着いた調子で父に向って云うた。

『お父さん、そんなに無茶なすっちゃいけませんよ、あなた達は時世がお判りにならないんです、いつまでも小作人を苛めたり、不正な事をして私腹を肥す時代はもう過ぎたんです。あなたは杉本さんを社会主義者だと云はれますけれども、杉本さんは弱い小作人や町の労働者の為に正しい事を叫んで居られるので、決して無茶な事を云って居られるのぢゃありません。お父さんがまだ昔流に金力で何でも世の中の人間にお辞儀さすことが出来ると思っていらっしゃる
のはそれは大きな間違ひです』

 女予言者の様に愛子が顔色を変へないで父に滔々と意見をするものだから、謙次郎も全く面喰った様な様子であったが、余程癪に触ったと見えて、突然跣足の儘庭に飛下りて、また愛子の左の頬ぺたを二三度続けて打伏せ、美しく結うてゐた髪を捕へて、土べたの上に愛子を捩ぢ伏せてしまった。その物音を聞いて奥から女中も番頭もみな飛出して来た。そして母のよし子も無理に夫の手を愛子の頭からもぎ放さして奥の間に這入る様に勧めた。

『旦那、見っともないぢゃありませんか、こんな所で可愛い娘を殴るなんて外聞が悪いですよ』

 番頭の島田も謙次郎を宥(いさ)めて両手を引張って奥に連れ込んだ。そして女中のおたかは泣いてゐる愛子を台所に続く自分の部屋に一先づ落付かせた。母のよし子は奥の間と女中部屋を繁く往復して、夫の心を宥めようと努力した。

 然し父謙次郎はどうしても奴を宥(ゆる)さぬと云ふし、娘もまた父の云ふ通りにはならぬとに主張するものだから、母は全くその立場に困ってしまった。それで止むを得ず母は昼過ぎ五十円許りの金を波し、娘を避暑旅行にやると云って、明石で肺病病院を経営してゐるよし子の縁者の所へ一時娘を預けることにした。