傾ける大地-44

   四十四

 表に水を打って、店に這入った時、英世は、父が打沈んで帳場に思案してゐるのを見た。

 英世は、父の悲観してゐる理由をよく知ってあた。この六月七月の二ケ月間、殆ど商ひが無かった。それは英世の名が新聞に多く出る毎に、田舎の小商売人は、杉本の店に寄り付かなくなってしまったからであった。その為に、纏って出てゐた郡部への卸売が全く止った。それでもまだ、農民は直接に肥料を買ひに来てゐた。

 それが英世の消費組合運動によって、六月以後といふものは全く無くなって了った。その結果、永く勤めてゐた小僧の平吉も解雇しなければならなくなり、店の経営費を出すことすら困却するんやうになった。
変り者の父理一郎は、余り毒々しい事を英世に説明しなかった。然し、彼に対して不満を抱いてゐたことだけはよく感付かれた。

 余り萎れ込んでゐる父の態度が気の毒に見えたので、彼はバケツを庭に置いて、父の処に近づいた。父は算盤を弾いて一生懸命に考へ込んでゐる。

『お父さん、貸しは少し取れたんですか?』

 さう優しい声で、英世は父に尋ねた。父は不機嫌な顔をして何も答へない。相変らず算盤を弾いてゐる。「機嫌が悪いな」と直覚した英世は、黙って父の顔と算盤とを等分に見てゐた。すると父は、悪いと思ったか、算盤の玉を見つめたまゝ、次のやうに答へた。

『貸金を取ると云った処で、取るだけの品物を売って居らんから仕方が無いぢゃないか』

 父はまた算盤の玉を弾いた。英世はかしこまって、それを領き乍ら聞いた。二三分間、父はそ切らぬ顔をして玉を弾いてゐたが、また英世の顔を見て、こんな事な云った。

『何かい、お前は何処か勤める処は無いのかい? ぶらぶらして居っても仕方がないし、もう家もやって行けぬから、お前に勤めにでも出て貰はんと、家はもう食へんでな・・・お父っあんも年が寄るし、店はこんなに売れなくなっちゃ、お前に食はすことが出来ないでなア、お前もいゝ加減に独立して貰はんと困るわい』

 さう云ってまた父は、旧式の台帳を拡げながら、ぱちりぱちり算盤を弾くのであった。
 理一郎は税金不納同盟で、執達吏に差押へを喰って以来、英世の行動に対して、危険視するやうになった。英世は父の気持をよく知ってゐた。云ひ度いことも沢山あった。然し、老いた父を煩悶させることは忍びなかった。それで彼は務めて孝行したいと努力した。

 猶も、父の為てゐる仕事を黙って見てゐると、父はまた言葉を続けて英世に云うた。

『お前にはまだ云はなかったが、俊子なア、あれに養子を頁はうと思ふんぢゃが、思いことないだらうな』

 それは英世にとっては初耳であった。父は彼とおけいとの関係を、余り心持よく思ってゐなかったのと、彼の社会思想に対して、反抗する為に、斯うした態度に出てゐるといふことを知った英世は、頷いて父に答へた。

『結構ですね、お父さん、俊子ももう年頃ですからね。養子に来て呉れる人があれば、俊子も仕合せだと思ひます。うちのやうな貧乏な処に来てくれるのは、本当に仕合せなことですね』

 父は、気極悪さうに、傍にあった煙草盆を引寄せて、煙管(きせる)の先に刻み煙草を詰めた。
 外には氷屋の売声が喧(かまびす)しく聞えた。父は暑さうに左手で団扇を使った。奥座敷と倉との間に生えてゐる大きな松の木に、蝉が一匹止って喧しく鳴いてゐる。英世は、軽く父に会釈をして奥の間に遺入った。そして、自分の前途に就て、深く考へ込んだ――

 ――恋人からは捨てられ、地位は奪はれ、家族の者からは疎んぜられ、そしてその為に努力して来た無産階級は、だんだん彼から逃げて行く・・・今、彼は全く、日本に用事の無い男だといふことを痛感せざるを得なかった。それで彼は思ひ切って、ブラジルにでも行ってしまはうかといふ気を起した。

 心配になるのは健康であった。で彼は三上実彦に健康診断をして貰って、それから自分の運命を決定しようと考へた。
 彼は、静かに家を出て、三上医師の所に訪れて行った。三上は彼が、いつになく打沈んでゐるのな見て彼に尋ねた。

『杉本さん、どうしたのですか? えらい元気が無ささうですね』
 と診察室の廻転椅子に納まった三上は、胸まで延びた美しい顎髯をしごき乍ら、英世に尋ねた。
『今日はね、健康診断をして貰ひ度いと思って来たのですがね』
『えらい、改まって、一体何ですか?』
『いや、ちょっと思ふことがあるので、働けるか働けんか、診察して頂かうと思ふのです』
 親切な三上は、早速他の忠者を待たせて置いて、叮嚀に英世の内臓機管を診断した。
『肥って来たやうですなア、えらい良くなったなア』
 三上は聴診器を耳から外しながら、大声に云うた。
『大丈夫でせうかね』
『まあ大丈夫だと思ふがね・・・然し、あなたは健康診断を受けて何うせられるんぢゃな』
『永いこと遊んだから、少し働かうかと思ふんです。近頃少し親父が不機嫌でしてなア、親父は、私が家に居ることを好まんやうですから、私はまた東京にでも、行かうかと思ったりなどしてゐるのです』

 廻転椅子の肘掛に身体を半ば寄せ懸けた三上は、英世の顔を見上げて云うた。
『東京は健康には悪い処だなア、もう一年養生するとなあ、大丈夫だと思ふが、然し無理しなければ、村の仕事でもあればな・・・農村消費組合の仕事なんぞはどうなんかい?』

『それが親父には気に入らんのですよ、私が美嚢から加西郡迄駆け廻るんで、家は閑で閑で困ってゐるんです。恰度家の店とは反対のことでせう。親父さんは毎日算盤と首っ引きしてゐるけれども、とんと善い考も浮ばんやうです』
 さう云って、英世は苦笑をした。三上もそれに応じて高声に笑った。
『成程なア!』

『親爺さんが怒ってゐる処なんぢゃなア、困ったこっちゃなア、然し杉本さん、あなたに今行かれると高砂町もちょっと逆転ですぜ。あなたが是非他所に行かなければならぬのだったら、町会議員の総選挙が済んでからにして貰はんと、また公民派の連中が、わやくしゃにしよるぜ、あなたもこの儘で故郷を棄てゝしまふのぢゃア、何だか尻括りしないで行くやうになるから、秋の改選に、斎藤の一派を皆追払って、一つ置土産を置いて行ってくれんと、過去一年間のあなたの仕事が何にもならんことになりますぜ』

 三上は杉本に傍の椅子を薦め、ベルを押して看護婦にお茶を命じた。そしてリゾール水の中に両手を突込んで、手を洗ってゐる。

『この間、無産政党がこんど政治学校を起すといふことを読んだが、あゝいったものを高砂町にも起してくれて、既成政党をやっつけるといゝと思ふがなア』

 と三上はタオルで手を拭きながら、杉本の顔も見ないで、独言のやうに云うた。

『困ったことには、やる場所が無いですよ』

 英世は、看護婦の汲んで来た麦湯のコップを、口許に侍って行きながらさう云うた。

『家の離れを使へばいゝ。彼処であれば八畳に六畳と三畳と三間あるから、六七十人は彼に這入りますよ』

 話はそれで纏った。杉本は、三上の裏座敷を校舎に当てゝ、速成の政治学校を起すことにした。
 それから一週間後に、小さい高砂政治学校が呱々の声をあげた。
 親切な生方正之進は、それを新聞で報道してくれた。忽ち四十名近くの同志を得ることになった。唯困るのは教師の問題であった。

 で彼は、牧師の新村幸太郎に依頼して、一週間に一日づゝ来て貰ふことにした。生徒の中には、頭脳の良い男もあって、彼の精神をよく了解する者も尠からず出来た。彼は、之等の青年を折々浜の小屋に泊めて、兄弟のやうに可愛がってやった。最も痛快に感じたのは、土肥家の番頭の島田政吉の親類に当る、島田勇吉といふ青年であった。

 彼は毎日約三里もある遠い所から、自転車に来って出掛けて来た。彼は実に謹直な男で、明石の農学校を卒業してゐたが、高砂町に出て来るといつも、英世の小屋に泊っては、色々と、理想主義的社会改造の方策に就て、英世から個人的に指導を受けるのであった。英世は、生徒達に向って云うた。

『総選挙の日には自分の家を演説会場に届出して、自分一人で喋ってもいゝから、近所の人をかり集めて、一斉射軍をやれば必ず効果はある。無産者が自分を解放するに、之より善い方法は無い』

 彼は毎晩のやうに、学生に向って、言論戦の必要を説いた。そして機会ある度毎に、内間だけの雄弁研究会を開いた。夏の暑い日でも、彼は、学生を海岸に連れて行って、彼の理想主義的立場を忠実に吹き込んだ。

 その間にも、細見や服部の連中は猛烈に、杉本の運動を妨害したが、彼は取り合はなかった。ある時などは、杉本からおけいにやった手紙まで公開して、彼を攻撃したが、彼は、それに対して何等答へなかった。

 服部も今は全く、資本家に飼はれた犬のやうになって、その労働組合は一種の協調組合になってしまひ、社会改造的精神を全く欠いてゐた。然し、書くことだけは感心にきついことを書いて、世間を欺瞞した。

 世間は漸く労働運動にも飽いて、不道徳なごろつき共産主義者の言論には、余り耳を藉さなくなってゐた。殊に服部を中心とする産児制限研究会なるものは、頗る怪しいもので、一種の不良青年の団体のやうになってゐた。滝村が、その会長で服部政蔵はその常任幹事であった。