傾ける大地-49

   四九

 十一月の末に彼は、南米に行く準崎をしてゐた。然し彼の父は

『俊子の結婚式が十二月の初にあるから、それを済ましてから行くやうにしろ』

 と勧めた。従順な彼は、父の云ふ通りに従った。それに彼はまた俊子の結婚をも祝福したかった。二見町から来る俊子の夫と云ふのは、工業学校を卒業した電気技手であった。そして、今度、斎藤が起した加古川高砂間の電気鉄道株式会社に雇はれる話迄付いてゐた。父の理一郎は、養子の為に斎藤の処まで頼みに行ったといふことを俊子から聞かされた。

 父までが斎藤に降服したかと思ふと、英世は悲しかった。

 表には幔幕が張り廻された。骨董屋の伊藤唯三郎の家から借りて来た金屏風が、奥座敷に飾られた。床の間には、高砂の尉と媼とが招ゑられた。父理一郎は、それを大阪の三越から買ふて来た。英世はそれを形式的だとは思ったけれど、何だか奥床しくて気持ちが好かった。

 父は古いキリスト教信者であるから、新村牧師に頼んで結婚式を挙げるべき筈だのに、今度の養子が耶蘇教でないといふ理由で、三々九度の式を挙げることになった。年をとると共に総て守旧的風習に、逆戻りするのであった。忌日の研究から、干支の組合せ婿の来る時間をちゃんと潮の満引きで計算する処など、実に振ったものであった。

 唯一つ変ったところがあるとすれば、それは偶像がないことだけであった。花嫁の衣裳から髪の格好、角隠しの装飾に至る迄、全部が大阪好みの旧式のものであった。父は最初極質素にやると云ってゐたが、いざといふ場合になって、だんだん凝るやうになった。

 自分の息子には、南米に行く旅費も出せないと云った父が、養子を貰ふ為には千円近くの金を平気で使った。そして父は、土肥賢次郎から鯛一尾と三十円の祝儀を貰ったと云って、大喜びであった。彼は自分の息子が、土肥の為に数十日間姫路の未決監に入れられたことを、早もう忘れてしまってゐるらしかった。

 英世は五つ紋の羽織に着換させられた。社長さんだと云って斎藤新吉が式場に坐った。人の好ささうな婿殿も、五つ紋に仙台平の袴を履いて済まし込んで坐った。三々九度の盃が廻った。その盃が英世に廻って来た時に、彼は深く瞑想して、神秘的な人間の運命に就て暫し考へ込んだ。彼は何も意識しない妹の身の上を幸福だと思った。彼の如く総てに眼醒めて、人間を総ての方面に於て改造せんとする者の悲哀を、つくづくと考へた。感激的な彼は、彼自らの運命を思うて泣いた。

 ――斯うした形式主義と、斯うした妥協と偽瞞のあゐ世界に於て、斯うした無自覚と、斯うした自己中心の社会風習の残ってゐる間、永久に社会は改造せられないと深く考へた。

 金屏風の陰から謡の声が流れ出た。

高砂
この浦船に
帆をあげて、
月もろともに
いでしほの
波の淡路の
島かげや
遠く鳴尾の
沖過ぎて
はや住の江に
つきにけり』

 式は滞りなく済んだ。御馳走が出た。酒が廻った。榎本定功も堤幸蔵も、うんと欽む。英世は、酒を飲まないで沈黙を守ってゐた。然し、余り坐が白けるので、彼は席を外して、初田伊之助の所まで遊びに行った。十二時頃帰ってみると、芸者が這入って、家の中は大騒ぎしてゐる。

『日本はこれだから仕方がない。クリスチャンだといふのは名許りのクリスチャンだし、社会改良家といふのは表看紋だけだから、いざとなれば皆後帰りするのだ。人間の魂が生れ変らない以上、社会改造なんか結局駄目なことなんだ。社会主義も、普通選挙も、議会も、労働組合も、みんな魂から生れ変って来なければ、真に日本の改造は無意味だ。
 性の問題も、経済の問題も、慾望の根本から改造しなければ、幾らマルクス主義を唱へても無意味だ。そして、慾望を改造し得るものは唯、神だけだ。習慣付けられた生活を考へて、神を出発点としない社会に、真の改造はあり待ない。人間の慾望は余りに変成してゐる。恐らく、酒と女と所有慾を放擲(ほうてき)しない以上、幾らマルクス主義の時代が来ても、それは町会議員総選挙の穽(あな)に捕へられた黒衣会一派の最後と全く同じものであらう。神を離れた生活は余りに悲惨だ』

 こんなに考へながら、彼はまた浜の小屋に迄帰らうと、思ひ出の深い、小橋までやって来た。寒風が浜から吹上げて来る。堤の松林が、寂しい唸を立てゝゐる。いつもするやうに、彼は欄干に腰を下して、天空の星座を見上げた。オリオンは高く昇り、子(ね)の星は薄く輝いてゐる。

『あゝ、さうだ、地球は二十三度半傾いてゐるのであった。そして人間の慾望もまた、それにつられて二十三度半傾いてゐる。この変成した人間の慾望が、哀れにも人類社会を、悪虐と迷妄の中に葬り去ってしまふのだ。新しい村もやがては古くなり、改造せられた社会もまた二十三度半傾いてしまふ。それだから、永久の道を歩かんとする者は、傾かざる大地の領域外に安住しなければならない。それは傾かざる、恒星の世界に住むことだ。私はその永遠の道を歩く!』

 外套に深く身体を包んだ英世は、寒さも忘れて、さうした瞑想に沈んで行った。

『俺は世界人として、世界を闊歩する。俺は捉はれざる精神を以て、太平洋を飛び越える。俺は日本の黒土に縛られない。アマゾン河畔に、第二の日本を建設しよう。否、地球は俺の五体の延長だ。この俺の五体の上に巣喰ふものは巣食へ。小さき町高砂よ、お前は地殻の上にへばり着いて居れ。「預言者は故郷に重んぜられず」とはよく云った。「我父我母とは誰ぞや、神の声を聞きて之を行ふ者なり」とキリストは云はれたが、その通りだ。俺は、永遠の神の国の為に、地上の肉親を無視しなければならない』

 彼は橋の上に立ち、家の方に向いて、両子を挙て斯ういふた。

『さよなら、お父さん! さよなら妹! 私は永遠の国の為に故郷を捨てます。さよなら、さよなら!』

 その的彼は静かに小屋に這入って寝た。そして翌日彼は、友人の誰にも挨拶しないで、こっそり電車で高砂を立った。その日は砂埃が多かったので、英世の履いてゐたズボンは脛まで白く埃まみれになった。独り曾根迄歩いた英世は、高いプラットフォームの上で、ズボンに着いた埃を払ひ落しながら、独言のやうに云ふた。

『あゝ私も、足の塵を払うて高砂の町を棄てようかな・・・』

 西の方、高砂の空は、一面砂漠に掩はれて、火と、硫黄と、灰で葬り去られたソドムの空のやうに見えてゐた。
 電車が来た! 英世はそれに飛び乗った。そして、彼の姿は高砂の土地から消え失せてしまった。

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