海豹の56 永遠への通過

  永遠への通過

 マリ子が火焔の中から救出したために、線香の火ほども火傷してゐない棄児の百合子を託かった産婆さんの小泉文子が傍に坐ってゐたが、ハンカチを出して。マリ子の両眼から涙を拭ひ取った。父の中将はマリ子の言葉が終るや、
『マリ子よ、弱いこといはないで元気を出してくれよ。元気を出して! 元気出して!』
 と激励した。小泉文子の注意で、勇はまたスプーンで、マリ子の口の中へ水を少し注ぎ込んだ。マリ子はそれを舌鼓して飲んだ。そして、小さい声で勇にいうた。
『讃美歌、うたって頂戴』
 それで、勇はマリ子がよくお炊事しながら歌ってゐた、愛吟の讃美歌五百五十番を、ゆっくり、そこにゐた青年達と一締に歌った。
   『うき世の嘆きも
   こゝろにとめじ
   とこ世の楽しみ
   身にこそみつれ
   みそらにきこゆる
   たへなるうたに
   あはせてわれらも
   うたはざらめや』
 みんなが歌ってゐる間も、勇は、マリ子の脈が気になったので、左手で讃美歌を持ち、右手でマリ子の脈をとってゐた。西川中将も、やはり脈が気になったと見えて、両手で娘の腕を握ってゐた。
   『うき世の栄は
   きえなば消えね
   まことのさかえは
   主にこそあれや
   やみよにあふとも
   主ともにまして
   みうたをたまへば
   うたはざらめや』
 二節を歌ふと、今まで消えてゐた脈が力強く盛返して来た。そして、マリ子は両眼を大きく開いていうた。
『あゝ、いゝ歌ね、天国へ行ってこの歌をうたはう!』
 さういうて彼女はまた眼を閉ぢだ。それで勇と彼女にいつも讃美歌を教へてもらってゐた斯波や青木や仁田、土肥、伊東などの青年は、静かに三節を歌うた。
  『御空を仰げば
   浮世の雲は
   日に日にきえゆき
   きりはたはれぬ
   ゆくてにかゞやく
   とこ世の光
   みとめしわれらは
   うたはざらめや』
 歌が済むと、今まで強かった脈が急に三秒も四秒も結滞した。そして、また三つ四つ搏つといふやうな乱れたものになってしまった。勇は、心の中で一生懸命に神に祈ってゐた。マリ子の父は瞬きもせず娘の顔を見つめてゐた。やがてマリ子は、またぱっちり、澄み切った彼女の両眼を開き、父の顔を見つめていうた。
『お父様、長らくお世話になりました。私はこれからお母様の処へ行ってきます』
 さういってまた彼女の視線を勇の方に向けて、銀鈴のやうな美しい小さい声で勇にいうた。
『勇さん、ありがたう、また天国でお会ひしませうね』
 さういうて彼女は静かに両眼を閉ぢたが、それから脈は全く触れなくなった。然し、呼吸はまだ続いてゐた。それで、勇は、医者さへ来ればまだ大丈夫だと一縷の望を繋いでゐた。
『医者はまだ来ませんか?』
 斯波を顧みて勇は尋ねた。
『まだなんですよ……ほんとに遅いなア。こんな時に医者が村にゐないっていふことはほんとに困るなア』
 さう斯波が答へて間もなく、マリ子は大きな息を自然と吹き出して、頸の骨ががくりと下に落ちた。勇は、あまりマリ子の振動が激しかったのでびっくりした。
 その時、小泉文子はひとり言のやうにいうた。
『あゝあ、医者が間に合はなかった……然し、立派な往生ですね』
 といひながらハンカチでそっと、頬を流れる涙を拭いた。

  陸地に用事のない男

 天も悲しんだか、マリ子の告別式の日には、前日から降り出した雨がなほ降り続いた。父は告別式を東京の青山斎場でするといったけれども、村長はそれをきかなかった。
『どうか我々の手で村葬にさして下さい』
 と、棺を小学校の講堂に運び、そこで告別式を行ふことにした。そして、三島から浮田牧師を招いて、告別説教をして貰った。式が終った。雨の晴れた間に棺は高台に運ばれた。そこは富士を正面に見上げ、駿河湾を真下に見下した景色のいゝ所であった。村の青年は勿論のこと、老いたるも幼きもみんな白木綿で作った棺綱をとって、棺をそこまで運ぶのであった。その中で特に目をひいたのは、いつもマリ子の世話になってゐた、十六人の保育所の子供が、棺綱を引く先頭を承ってゐたことであった。
 埋葬が済んで、再び勇や西田中将が、斯波勝三の宅に引上げた時、中将は勇の手を握って太い声でいうた。
『勇君! 娘は死んではゐないですよ。マリ子の霊は永遠に生きてゐますよ。我々も彼女が一生懸命にやらうとしてゐたことを、一つ力を協せてやらうぢゃありませんか!・ ねえ。私もこれから若返って大いにやりますから』
 さういった老提督の二つの眼には涙が光り二つの頬には微笑が漂ってゐた。それで村上勇も軽く微笑んで老提督にいうた。
『私もマリ子が死んでゐるとは思ひません。マリ子の霊は、永久に我々の進路を守ってくれると思ひます。然し、私は彼女と別れた以上、もう陸地には用事はありませんですし、幸ひ、家も焼けてしまひ、坊やも天国に送ってしまひましたから私はまた心おきなく海に帰ります!』

  海流のまにまに

 それから二目目に、マリ子と愛児海南の髪の毛を、メーン・マストの下に船玉として入れた海南丸は、村上勇を船長としで、南洋に向って駿河湾富ノ浦の海浜を離れた。乗組員は、勇と一緒に刑務所に這入った七人の他になお五名を加へて合計十二名であった。彼等に小笠原列島から南に南に下って、マーシャル群島から更にポナペ島までつき貫き、貿易風を利用して、次の年の春の四月頃日本に一旦帰った。彼等はその航海によって、一人あたり約千円づつの分配をすることが出来た。それは彼等が主として風力を利用して、南洋漁業に従事したからであった。彼等はまた第二回目の遠洋航海に出かけた。
 その時も村上勇は巧みに逆貿易風を利用して大いに成功した。然し、今年の秋、彼等が第三次の壮図について間もなく、突然起った颱風にやられたらしく、最近の新聞にはこんなことが三面記事として掲載されてゐた――

   海南丸の救助筒に
      綴られた悲壮な文字
         気遣はれる十二名

(館山発)十月二十二日午後六時銚子沖に出漁中の宮城県発動機漁船松島丸から館山水産試験場にあて左記急転があった。
 本日午後二時半東経百五十三度三十分、北緯三十六度二十分(銚子市八百マイル)の海区で漂流してゐた救助筒を拾得したが、それには『本船は駿河湾富ノ浦の海南丸(十九トン・九)にして十月十四日下田港東四百六十マイル附近にて鮪漁に従事中暴風に遭ひ、マスト二木折れ機関に故障を生じ、本日(十九日)まで六日間死力を尽して修理につとめたるも遂に修理不能にて効果なく、本日この救助筒二個を流す、何人にかこの救助筒を拾はるゝことあらは我等の運命は未だ尽きざるなり。至急救助を待つ。この位置は東経百五十三度四十分、北緯三十八度(金華山東八百マイル)時に午前九時、海流の方向は南々東に一昼夜二十五マイル流れ居る模様。だゞ今の天候は西北西の風八メートル内外、曇天』
 と悲壮なる文面が認めてあった。救助のため直ちに漂流地点に向け急航してゐる。
 駿河湾の富ノ浦では村民がみな心配してゐるけれども、未だに、海南丸が救助せられた消息に接してゐない。