海豹の44 男に飽いた女

  男に飽いた女

『若、お父さんが、あんな最期を遂げましたので、せめて私でも、あなたのお側に置いて頂いて、何かの御用に使って頂くといゝんですかね。何か、あなたの脇に私のする用事はありませんか? 飯炊きでも。お女中さんの代りでも何でもいゝんです』
 かめ子は二重瞼の大きな眼を見張って、勇の顔をみつめながらさういった。
『だって。あなたは結婚しなくちゃならないぢゃないの』
『若、もう私は男には飽きましたよ。私の一生の願ひは、お父さんの代りに、あなたの側で使って頂ければいゝのです。沖にまでついて来いとおっしやれば、ついて行きますよ、そして飯炊き位はいたしますよ』
 真面目に。かめ子はさういった。栄子は、長火鉢の上にかゝった鉄瓶を外してきて、勇に茶を汲んでゐた。
『ありがたいけれどね、私は。今、甲種運転士の試験を受けようと思って、一生懸命になってゐるんだよ。試験に落第ばかりしてゐるから、金がかゝってて弱ってゐるんだよ。誰か、わしの学費を貢いでくれる人はないかなア』
 勇は、正直に打明けてさういった。かめ子は驚いたやうな顔をして、
『若、あなたのやうな学者がまだ勉強する必要があるんですか? そして甲種船長などになって何をせられるんです?』
『そりゃ、君、これからの日本の漁師は甲種運転士の免状位持って居らんと駄目だよ。わしはメキシコへ行って鮪釣りをしようと思ってゐるんだよ、それで甲種船長の資格がとりたいのだよ』
『その学資がお要り用なんですか?』
 かめ子は折返し尋ねた。
『うム、兄貴がこの間少し送ってくれたんだけれど、お母さんが死んでなア、その葬式代に使っちゃったんだよ』
『え? お母さんが。お亡くなりになった?』
 かめ子は驚いたやうな口調で尋ねた。
『うム、とうとう悪かったよ』
『少しも知りませんでね、おくやみも申しませんで、ほんとに済みませんでした。然し。あなたの学費を、私が拵へませうか?』
 かめ子は、勇の顔を覗き込んでさういった。
『いや、君には気の毒で、よう頼まん』
 勇はきっぱりいった。
『なに、云ってらっしゃるの。私はあなたのためなら、二度の勤めでもしますよ。ほんとにお金がお入用ですか?』
『いや。君に二度の勤めをさしちゃあ可哀さうだから頼まないよ。僕は、君等が娼妓に出ることには大反対なんだから』
『ぢゃあ。二度の勤めに出ることなど止しませう。然し若、私一人で、毎月二十円位は出来ますよ。その位のお金なら、いつも御用立てしますよ。……(かめ子は栄子の方に振向いて)……ねえ、お栄ちゃん、あなたも、二十円位出来るわね』
 勇は、この貧しい女達が。こんなにまで思ってくれてゐるかと思った時に、ほんとに嬉しかった。
『もうよく解った。ありがたう』
 さういって勇は、両眼に涙を湛へてゐた。これらの二人の女が、長い間娼妓勤めをしてゐたに拘らず、少しも悪びれてゐないで、どこまでも、人のために尽さうといふ気持のあることを嬉しく思った勇は、人間っていふものは、なかなかどん底まで悪くなりきれないといふことを考へさせられた。
 かめ子は、勇に、芝居に行かないかと誘うた。然し、勇は、そんな気にはなれなかった。勇は、昨夜三等でよく眠れなかったから、風呂へ入ってきて寝たいというた。
『ぢゃあ、さうなさい』
 かめ子は、石鹸と手拭と湯札まで揃へて、表の銭湯へ案内してくれた。その途中で、かめ子は、万龍が、不思議に失明しなかったこと、まだ残ってゐた五百円ばかりの借金を月十円づつ払って行けばよいといふ条件で、廃業させてくれたこと等を、細かに勇に報告した。そして、かめ子は、紀州の勝浦で暮したやうに、もう一度勇と一緒に世帯を持ちたいと、幾度も繰返した。
 その、晩夜行で、勇は神戸まで帰りたかったが、二人の女はどうしても勇が帰ることを許さなかった。とうとう勇を真ン中に枕を並べて、寝ることになった。寝床に就いてからかめ子は、父が海賊に殺された様子を、ぼつぼつ聞き出した。勇が、卯之助の最期の光景をくはしく話しすると、かめ子はしくしく泣き出した。それで、勇もまた貰ひ泣きをした。あまりかめ子が激しく泣くので、栄子は、寝床から起上って、かめ子の枕許にゆき、彼女の頬ぺたを片手で撫でながら、小さい声でいうた。
『かめ子さん、あまり泣くとからだに悪いから、もう愁嘆することを止しませうね』
 さうぃはれて、かめ子は、つと立上り、便所に行き、炊事場に下りて顔を洗ひ、また寝床に帰ってきた。その光景はあまりに厳粛で、性的衝動を三人に与へる余裕がなかった。そしてまた、不思議に、二人の女も勇に対しては性に関する問題を少しも持ち出さなかった。また勇としても、栄子と関係をつけたいといふ感じは少しも起らなかった。彼女等の感激的な態度に感謝はしても、その一人を一生の伴とするには、勇の理性が働き過ぎた。勇は、かめ子も梅毒のために婦人科の手術を受け、栄子も梅毒のために片眼が潰れたことを忘れることが出来なかった。それで、いくら万龍が、勇の手を握っても、それは小さい妹が彼に接近してゐる位にしか考へなかった。
 勇には、高く上らうといふ堅き野心がありすぎた。彼はどうしても、甲種運転士の試験に成功し、太平洋に乗出るまで、如何なる女とも関係はしないといふ祈があった。

  荷車挽いたサンタクロース

 三人が仲好く並んで眠った次の日の朝、寝床で、かめ子は謎をかけるやうに訊いた。
『若! あなたは、いつお嫁さんを貰ふんですか? おほゝゝゝ』
 それに対して勇は、
『俺は、一生嫁さんを貰はないんだよ』
 と、軽く答へた。すると、栄子は、
『若の奥さんになる人はほんとに仕合せね』
 と、恨めしさうにいうた。
『ねえ。あなたがお嫁さんを貰って、赤ちゃんが出来たら、私は子守に行きますわね』
 かめ子は、正直な処を告白した。
 寝床の中でこんな会話をしたのは、まだ日の出ぬうちだったが、牛乳屋が来て、不浄汲取りの轍(わだち)の音が響き、新聞配達の足音が路次の彼方に消えて、戸の隙間から師走の冷い太陽の光が射し込んだ時に、三人は一緒に起上った。
 その時も勇は、若い女の友達を持ってゐることをほんとに嬉しく思った。海上では見られない赤い布団や白いシーツ、鏡台や香水の匂ひ――いやそれより魅惑的に感ぜられたのは、女の寝巻姿と、白い脛と、髪を撫で上げる時の腕の曲線美と、鏡に向ってゐる時の襟足の美しさと、柔かな皮膚としとやかな言葉使ひと、下にも置かない愛情の溢れた親切さであった。
 勇が、どうしてもその朝、神戸に立つといふものだから、朝飯を済ませて、二人は尾道の停車場まで送って行った。道々、二人は、色々滑稽なことをいひながらも、目に涙を浮かべてゐた。
『若、こんどはいつ会へるんでせうね』
 かめ子はさういった。
『三月に一度位会へるといゝんですがね』
 と栄子が加へた。その時、かめ子はいうた。
『栄子さん、若について行きませうか? 神戸まで? そして三人で一軒家を借りませうか? 今夜も三人で一緒に寝たいわね。若、ほんとに、もしかすると。神戸に二人で引越して家を持つかも知れませんから、その時は一緒に住んで下さいますか?』
 その問に対して、勇は躊躇なく答へた。
『いつでも一緒に住むよ』
『あゝ、うれしいわ!』
 さういって、かめ子は右腕を勇の左の肩にうちかけた。
『ぢゃあ、若、きっと、あなたを追ひかけて、神戸でも東京でも、あなたのいらっしやる処へついて行きますから頼みますよ。私等、あなたを情夫に持たうなど、大それた考を少しも持ってゐないんですけれど、あなたの側に居ると、何だか嬉しくなって元気がつくんですからね。兄妹のやうに、栄子さんと私と、若と三人で仲好く暮らしたら、私は極楽に行ったより嬉しいと思ひますわ』
 汽車を待ってゐる間も、勇は人問の愛といふものが、ほんとに不思議なもので、男女の交際でも、性慾の問題を離れて、あっさりした気持で、若い男女が、兄妹以上に親しく助け合ひの出来ることの嬉しさを、何だか一種の神秘的な力の引合せがあるやうに考へてならなかった。
 発車の合図に、電鈴が、けたゝましく鳴った。勇は、三等客車の窓から頭をつき出してゐた。かめ子と栄子は、同じやうな髪を結うて、同じ柄の着物に、同じ模様の帯を締めて、プラットホームに立ってゐた。
『さよなら! いろいろありがたう』
 と勇がいふと、何を思ったか、かめ子は駆足で客車の中に飛んで入り、状袋に入れた手紙やうのものを勇のポケットにねぢ込んで、またプラットホームに飛下りた。勇はそれに金が入ってゐることは察したが、手紙の形をしてゐたので受取ることを拒むわけにはいかなかった。
 汽車が出た。二人の若い女は、ハンカチを振ってゐた。汽車がカーヴを曲ったので、すぐ二人は見えなくなった。勇は、ポケットに入った封筒を取り出してみると、その中から十円紙幣二枚が出てきた。
 東京に着いた勇は、神戸海員ホームで教へられた通り、本所産業青年会の黎明寮に落着いた。そして三日目から筆記試験が始まった。不思議にこんどはうまいこといって、凡ての試験が好成績だった。口頭試験も容易に及第した。それで。四ケ月間の奮闘が無効でなかったことを彼は喜んだ。クリスマスが近付いてゐたので華やかな装飾が、東京の賑やかな大通の硝子窓に見えてゐた。
 試験に及第したと、海員掖済会の電話で知った勇は、生れて初めてクリスマスを、心から祝ふ気になった。それで彼は、紀州に帰るのを少し延ばして、本所の貧しい子供等のクリスマス祝賀会の手伝をすることに決めた。雪がちらついてゐた。軒の電線は唸りを立ててゐた。大通のアスファルト道にも砂塵が舞上って、手ぶらで歩くことさへ困難であった。その大通を勇は荷車にクリスマス・プレゼントを山程積んで、本所から深川の富川町まで一人で運んでゆく仕事を引受けた。
 然し、彼はそのむつかしい仕事を喜んで引受けた。それは日本の漁村の貧しい漁師の子供等が、大都会の貧民以上の窮迫した生活状態に置かれてゐることを知ってゐる彼は、貧しい人々に対する社会事業を漁村にも応用するために、東京でうんと学んでおく必要があると思ったからであった。
 汗だくになって、深川富川町の寄席――そこは、今宵のクリスマス祝賀会の会場にあてられてゐた――に車を引張りつけると、
『御苦労様!』
 といって、手箒木を持ったまゝ走り出てくれた背の高い婦人があった。黒っぽいドレスに、黄色い衿をつけてゐたのが、特に勇の目を惹いた。
『えらかったでそう。ずゐぶんありますからね』
 と彼女はすぐクリスマス・プレゼントを箱のまゝ寄席の入口の方へ運びながらいった。
 彼女の顔はほんのり赤く、別に化粧はしてゐなかったけれども、勇が。日本の多くの港で見た媚を売る女達とは違って、叡智と、無邪気さに溢れてゐた。
 勇も手伝って、全部の荷を下し、車を片付けて、午後六時半から始まった日曜学校の祝賀会を見てゐると、その婦人が一人で、オルガンも弾けば歌もうたはす、プレゼントも配れば、子供が喜ぶやうなお話もして聞かせた。それで勇は、彼女の秀でた額と、弓形にひかれた眉と、輝いた瞳が忘れられないで、その晩はまた電車に乗って、本所松倉町二丁目の黎明寮に帰って行った。