海豹の43 人生の暗礁

  人生の暗礁

 鰹を追うて、北へ北へと進んだ船が、もうそろそろ帰る頃になって、医者は、勇に、少し旅行してもよいと許可を与へた。然し、その時はもう、庭の百日紅が、夏の太陽を受けて真紅に咲いてゐる八月であった。高等海員の試験が受けられないかと絶望してゐた勇にとっては、大きな福音であった。早速彼は、狭い勝浦港を後にして神戸に出掛けた。そして、大阪で試験を受ける前に、普通海員の間で有名な神戸掖済会の受験部に入った。そこには、海軍の予備少佐で、十数年の間、全く犠牲的に、普通海員の養成に努力してゐる花木といふ篤行の人がゐた。数学を教へることが非常に上手なので、その人に世話になることにした。
幸ひ、下宿も、神戸海員ホームに部屋がとれたので、毎日、奥平野から汗だくになって通うた。試験期日まで僅か一週間しかなかったので、少し無理であったけれども、朝は早くから夜晩くまで勉強した。一週間目に、大阪の海事局に試験を受けに行った。幸ひ体格だけは通った。然し、航海学で失敗した。それで翌日の口頭試験には、出席出来なくなった。またニケ月勉強を続けなければならなかった。それで。海員ホームに落着いて、また毎日掖済会に通うた。
 心配になるのは学費の問題だった。紀州から出てくる時には、伊賀兵太郎が親切にも五十円貸してくれたので、ニケ月位それで賄ふつもりでゐたけれども、受験料に十円払ったり、海員ホームの食費を前納したり、掖済会の会費を払ったりしてゐるうちに、四十円がどこかへ飛んで行ってしまった。あと十円では、小遣だけにも足りなかった。伊賀に頼むことも恥かしいし、福山に頼んで行っても金の無いことは解ってゐるし、米国の兄貴に手紙を出すにしても今から遅いし、経済問題のことを思ふと、彼の勉強心も鈍った。
 然し、掖済会に来てゐる普通海員のうちには、乙種一等運転士の試験を受けるだけに、二年間も苦学しながらやってきたものもあった。また同じ海員ホームに下宿して、毎日掖済会に通うてゐる者のうちにも、もう半年も食費を滞納してゐるといふ悲惨な受験準備者もあった。
『僕も学費が続かなくなると心配してゐるんだよ』
 と秋山といふその男にいふと、
『なに、君、心配要るもんか、海員ホームの親爺は。なかなか太っ腹な奴で、半年や一年、食費を払はなくとも、何もいやしないよ。君、頼んでみ給へ。あの親爺はなア、もとは火夫をしとった男だから、下級船員にはとても同情かあるんだよ、君が頼めなければ俺が頼んでやらうか?』
『ぢゃあ、済まないが、君、頼んでくれませんか。僕は兄貴がアメリカに居るので、そこから手紙が来るまで待ってくれるといゝんです』
 八月の焼付くやうな日の暮れ方であった。宇治川尻の掖済会から奥平野の山奥まで、汗みどろになって帰って来た村上勇は、すぐその足で、受験友達の秋山彦三に連れられて、海員ホームの主事の部屋を尋ねた。主事の薄田俟雄は、少年団の団服を着込んで、今し方、表に出ようといふ処だった。
『何処へいらっしゃるんですか?』
 と秋山が尋ねると、
『子供を連れて、瀬戸内海を、二週間ばかりカッターで漕ぎ廻ってやらうと出掛ける処なんだよ。どうも今時の青年は意気地がなくて困るからなア。腕一つで切り抜けてゆく胆っ玉を訓練してやらぬといかんよ』
 髪をもじゃもじゃと生え伸ばしにして、少しも容貌をかまはないやうなこの老火夫長は、やり場のなささうな元気に充ちた声で、歯切れよく、秋山に問返した。
『秋山君、用事は何ぢゃ?』
 それで、秋山は、恐るく薄田に頼んだ。
『村上君がですね。試験がうまいことゆかなかったんですよ。ところが、兄貴がアメリカから送金してくるまで、少し学費が心配になるんです。まことに済みませんが、至急送金してくるやうに、兄貴に手紙を書くさうですから、二、三ヶ月食費を待ってやって下さいませんか?』
 傍で立ってゐた村上は、小さい声で、
『何分よろしくお願ひ申します』
 といひながら叮嚀に頭を下げた。
『うム、いゝとも、いゝとも。こゝの海員ホームは、そんな人のために建ってゐるのだから、六ケ月や一年位、食費は待ってあげるよ。金が来なければ入れなくともいゝよ。俺がどこからか貰って来てやるよ。食費のことなんか心配してゐると勉強が出来んからなア、食費のことなんか心配するなよ。小遣が欲しければいっでもいうて来い。金の二、三円ならいつでもやるから……その代りなア。試験に通って船長さんにでもなったら、うんと寄附せいよ。俺はなア、持ってゐる奴から、取上げて来て、持ってゐない奴にやるのが当りまへだと思ってゐるのだよ。なあに、金持が一晩芸者狂ひする金を、こちらに廻してくれさへすれば、一年位それで食へるんだからなア。食費のことなんど心配するなよ』
 目の丸い野蛮人のやうな顔をした薄田が、割に話が解るので、勇は海員上りの人間には、存外腹の大きい男がゐると思って嬉しかった。
 薄田はすぐ出て行った。それを見送った秋山は、村上を顧ていうた。
『あれでなア、村上君、なかなか怒ったらこはいんだぞ。この間もなア、風通しが悪いとか何だかで癩にさはったといって、隣の板塀をひきむしってさ。それに石油をかけて燃してしまったんだよ。然し、それには理由があるのでな。隣も、よう怒って来なかったらしいよ』
 勇の二度目の試験は、学術試験だけはやっと通った。然し、口頭試験で失敗した。それで。秋山は下関で受けてみろとすゝめてくれた。然し、さうしようにも下関へ行く旅費がなかった。このことを薄田に話しすると、薄田は、何処からか金を工面して、持ってきてくれた。それで、村上は、下関へ行って試験を受けることにしてゐた。
 秋風が、島原の紅葉をあかく染め出す十一月になった。海員ホームに泊ってゐる十数名の海員達は打揃うて、有馬に松茸狩に出掛けた。その日、彼は久しぶりに、福山に寄って母の顔を見、その足ですぐ下関へ行かうと思ってゐた。ちゃうど彼が下関へ行かうと、海員ホームの門を出ようとした時に、郵便屋が、アメリカの兄からの送金を届けてくれた。それは思ったより少かった。百円しか入ってゐなかった。で、彼はその金を持ってすぐ西に下ったが、福山で佐藤の家を訪ねると、母はもう余程衰弱して、こゝ二、三日が危いといふことだった。そこで彼はまた動けなくなった。ちゃうど彼が福山に着いてから三日目の朝、母は永眠した。仕方なしに、勇はまた持ってきた百円をそっくり出して母の葬式をすることにした。
 母の死に就いては。去年から覚悟してゐたので、今迄よく母が持ったと思ふ位であった。葬式を済ますと。彼はすぐ下関に飛出した。そして、戸畑の海員組合の一室を借りて勉強した。然し、残念なことには、こんどもまた失敗した。それで彼は、海員組合の寄宿舎に帰って、蒼い顔をして寝床の上に倒れてゐた。すると。トロールに乗ってゐる乙種二等運転士がやって来て、こんなことをいった。
『そら、持っていかんと及第せんのよ、君は持って行ったか?』
 それで村上勇は、頭を左右に振った。
『だから、駄目なんぢゃ。みな大抵二百円も三百円も持ってゆくんだぞ。君のやうに、素手で通らうといふのは、そりゃ無理ぢゃ。みんなの先生に出さなくていゝから、君が一番苦手だと思ふ先生の処へ、少し包んで持って行ってみい、その次の試験にはきっと及第するから』‘
 さういはれたけれども、勇は、薬にしたくとも、そんな莫大な金を手に入れる望は無かった。それ処ぢゃない、彼は、その月の食費にさへ窮してゐるのであった。然し彼は、学術試験に通過した以上、口頭試験に通過しないはずがないと思った。それで、彼は。比較的公平な東京で受ける決心をした。だが、東京へ行く資金を何処で得ようか?
 その時にふと思ひ付いたのは、卯之助の娘のかめ子が、娼妓の年期が明けて、尾道に来て仲居をしてゐると福山の姉から聞いたことであった。
 で、彼は神戸への帰り途、尾道に下りて、是非、卯之助のことを報告しようと、かめ子を訪問することにした。

  懐しき尾道水道

 糸崎を出て、汽車が東に走ると、懐しい尾道水道が、汽車の窓の下に見えた。遥か向ふに大崎上島が見え、その島蔭に、自分の生れた大崎下島が見えるはずだった。秋の空は澄んでゐるために、ずゐぶん遠くまで見えたけれども、恋しい御手洗島は、山蔭になって見えなかった。然し、高根島も因ノ島も、佐木島も手に取るやうに見えた。瀬戸に入ってくる発動機船の響が、自分を迎へに来たやうに聞えた。魚を積んだ漁船が、あっちからもこっちからも、尾道の市場にやって来るらしかった。然し。借金だけ持ってゐて、一円の金さへ自由にならない勇にとっては、豊かさうに見えるその漁船の動きが、ある種の反感をさへ抱かしめた。
『―あの時に、かつ子があれだけ止めたんだから、あの儘納まってゐれば、こんなに苦労はしなくてもよかったのに――』
 といふ愚痴も出ないことはなかった。然しまた、
『――あのむつかしいお婆さんとはとても一緒にやれなかったらう。あの時破裂してゐなければ。きっと二、三ケ月の後に破裂してゐたに違ひない。あの時御手洗を棄てて決して損をしてゐない。俺は海の日本を見た。そして俺は、海国青年が、どういふ方向に突進すべきかといふコースを発見した。俺はもう過去を振返ってみない。俺は飽くまで前進するのだ。人生の低気圧がどんなに恐しい大風を呼起さうと、俺は予定のコースに船を進めるのだ――』
 尾道の停車場に下りた勇は、御手洗島から来て。魚市場で天ぷらを売ってゐるお花の店をすぐ尋ねた。お花は、かめ子の勤めてゐる料理屋をよく知ってゐた。其処は、東尾道の遊廓に接近した牡蛎料理を専門にしてゐる春風楼といふ店であった。
 勇が、のこのこ歩いて、春風楼の店先で、牡蛎を割ってゐたかめ子の姿を見付けたのは、朝の八時頃であった。かめ子は、他処見もせずに、も一人の女中と向ひ合せに、何か喋りながら手鉤を振るってゐた。それで、勇が、彼女に接近したことに気が付かなかった。勇は、見物人の一人のやうに、素知らぬ顔をして、彼女の傍に近づいた。そして少し見てゐたが。あまりかめ子が牡蛎割りに熱中してゐるので、びっくりさしてやらうと、彼女の肩に手をあてて、耳もとで、
『かめ子さん、今日は』
 と、優しい声でいうた。その声は優しかったけれども、かめ子は、吃驚して身慄ひした。
『あツ、びっくりした! 誰かと思ったら、若ぢゃありませんか、あなたは。まあ、どうしませう』
 さういって彼女は席から立上った。彼女の顔には微笑が漂うてゐた。
『いつ、いらっしゃったんです? 何処で、私かこゝに居ることがわかりました? 栄子さんも尾道に居るんですよ』
 さういひながら、彼女は紺絣で作ったエプロンを外し始めた。そして、奥に入って、昼まで暇をくれと、女将に頼み込んでゐる様子だった。
 再び表に出てきたかめ子は。
『若! 万龍さんの処へ行きませうや』
 さう小さい声でいひながら先に立って歩き出した。そして、店から二、三軒離れた処で、急に、馬鹿叮嚀なお辞儀を始めた。
『本年の春は、ほんとに父がお世話になりまして、何とも御礼の申しやうがございません。あんなにお世話になりましたのに、紀州の方へまだお骨も取りに参りませんで、何といってお詑びしてよいかほんとに済みません、……私もあれからすぐ年期が明けたものですから、木ノ江の楼主は、もう少し勤めないかとすゝめてくれたんですけれど、いつまでも、厭らしいあんな稼業はよう続けませんから、誰にもいはないで、尾道に出てきたんでございますよ。まあ、然し、お懐しうございますね、その後、あなたがどうしていらっしゃるかと思ひましてね。とり分け、あなたが海賊に斬られなすったといふことを聞いてゐたものですから、飛んで行って、介抱しなければならなかったのですけれども、私も、もうあと一月で年期が明けるといふ時でしたから、年期が明けてからにしようと思ってゐて、ついつい遅くなって済みませんでした。その節は香典を頂いたり、また沢山な賞与を頂いたり、ほんとに、ありがたうございました』
 さういって彼女は、嬉しさうににこにこして、お辞儀ばかりした。
 それから二、三町歩いて、大きな玉山楼といふ料理屋の前に彼女は立止った。
『若、栄子さんは、こゝで仲居をしてるんです。多分、もう来てるでせうと思ふんです。家は別に持ってゐましてね、毎日、此処に通うてゐるのですよ』
 かめ子が内に入ってきいたけれども、栄子はまだ来てゐなかった。それで、かめ子は、栄子が借りてゐる家に、彼を案内してくれた。そこは、鉄道の線路を越えて、四、五町谷の奥へ入った狭い通りの裏側になった、長屋の端の家であった。
 三尺の戸が、入口に締まってゐたので、かめ子は、表から、
『お栄ちゃん、居ってか?』
 と、やさしい声で尋ねた。すると、栄子は。座敷から下りて、戸を開けにきた。
『お栄ちゃん、あなた、珍しい人を連れてきたのよ、あてて御覧なさいよ』
 戸をまだ開けないうちに、かめ子はさういった。戸を開いた中村栄子は、勇の顔を見てびっくりしてゐた。
『まあ。どうしませう。驚きましたのね、いついらしったのです? まあ、お入りなさいましよ。こんな狭苦しい家で、とてもお恥かしくて、人様にお上り下さいなどいへないのですけれど、立ってゐてお話も出来ませんから、お上り下さいまし』
 さういって、栄子は、勇の片手をとって、座敷に連れ込んだ。気配りの早いかめ子は、すぐ表に飛出して菓子屋に走った。うち見た処、栄子は少しも眼病らしくなかった。時候の挨拶が済んだ後、勇は、栄子に尋ねた。
『それでも一方の眼が見えないんですか?』
『さうなんですよ、然し、おかげさまで、片っ方が少し見えるやうになったものですから、牛肉屋の仲居でもしてみようと思って、かめ子さんと二人で、木ノ江から出て来たんです……然し、旦那、去年はほんとに御世話になりました、いつかこの御恩を返さうと思ってゐるんですけれども、こんな、けがれた体でございますから、御恩を返すことが出来ませんで、ほんとに済みません』
 栄子は、髪を銀杏返しにゆうて、いかにも仲居らしい服装をしてゐた。さういってゐる処へ、表から、かめ子が帰って来た。そして、お盆に山盛り、バナナと林檎と蜜柑を盛上げ、そのわきに、勇の好きな羊羹を鉢に載せて差出した。かめ子の表情は、まるで子供のやうだった。
『若、私は嬉しくてく、たまりませんの』
 さういって、彼女は、勇の膝許に摺り寄り、彼の両手をとって、両眼に涙を湛へてゐた。それは決して、性慾を意味したものでないことを、勇はよく理解してゐた。彼女は、凡てのことに感激的で、人一倍に、彼女の熱情を表さなければ済まない性質だった。卯之助に別れてから、南紀州の風と、波濤と、小石と、昆布と魚を友にして、無機物のやうな生活を長く続けてきた勇にとって、この熱情的な歓迎は、彼の陰鬱を打払ふに充分であった。
『私たち二人はね、若、朝から晩まで、あなたのことばっかりいって、半年ばかり暮したんですよ。そして、今年の九月に、二人が約束して、こゝに家を借りて、仲居の口を探すまで、毎日、毎日、朝から晩まであなたのことばかりいってゐたんです。此処にきてから、栄子さんはちゃんと、あなたのために蔭膳を拵へましてね、あなたかいらっしゃらなくても、いらっしゃるのと同じやうに、この家の主人公として、三度々々、あなたのお茶碗に御飯をついできたんです』
 さういうて、かめ子は、ハンカチで涙を拭いた。
『栄子さんはあなたのお嫁さんになりたいっていふんぢゃないんですよ、栄子さんは「私は片輪ですから、もう村上の旦那の寵者(おもひもの)にはなる資格がない」と諦めてゐるんです。けれど御恩になったことは忘れられないといって、蔭膳を据ゑてゐられるんです。その主人公が今日お帰りになったのだから、私たちは、二人とも店を休んで、あなたに、この家で一晩泊って頂きますわね、お泊り下すってもいいでせう?』
 さういってかめ子は、温い掌(て)を勇の膝の上に置いた。