2015-02-01から1ヶ月間の記事一覧

海豹の25 颱風の中を行く

颱風の中を行く『大将! もうこれぢゃあ、危いから流しませうや』 さういったけれども、勇は、ハンドルを捉へて、返事もしなかった。 『大将、代りませうか?』 卯之助は、もう一度勇の疲労を察して言葉をかけた。晩方から四時間以上も操舵機を握り続けてゐ…

海豹の24 朱唇玉杯

朱唇玉杯 処女航海の成功に、船主の兵太郎は、大悦びであった。それで船主は、みんなに飲ませるといって海岸の勝浦亭から三軒目の花の家といふ料理屋につれて行ってくれた。芸者を二人お酌にといって呼んでくれた。初めて芸者の出る宴会に出た勇は、何ともい…

海豹の23 処女航海

処女航海 空は日本晴れに晴れて、那智の滝が紫紺色に染められた連峯の中腹にくっきり浮き出てゐた。今日に限って、勇の処女航海を祝福するかの如く、湾内の波は静かであった。油も二百鑵積んだ。氷も積めるだけ詰めた。延繩(はえなわ)は四十鉢準備した。(…

海豹の22 赤玉の警報

赤玉の警報 その晩であった。夕飯の準備をしてゐた、かめ子が、急に癪気を起して苦しみ始めた。それから親父の卯之助が腰を揉むやら、勇が医者に走るやら、一時は大騒ぎをした。医者がやってきて、モルヒネの注射を二本もしたが、それでも効かなくて、漸く三…

海豹の21 竜宮への移住

竜宮への移住 浅井はデッキの上にシガレットの灰を叩き落して。水兵の言葉に呼応した。 『さうでせうなア、あの雑賀崎の漁師などは、箕島あたりで魚がとれなくなったので、ちっぽけな、その辺りに浮いてゐるやうな漁船を漕いで、日本沿岸ならどこへでも行く…

海豹の20 海を忘れた日本人

海を忘れた日本人 鞆を出てから船は、真直に南に下った。妙なコースをとると思ってボーイに訊いてみると、山陽道を伝ふと客ぶ少いから高松に寄るのだといふ、のん気な船もあったものだと諦めたが、高松へ船が着いた時は、もう波止場のアーク・ライトに灯が入…

海豹の19 海豹か? 野良犬か?

海豹か? 野良犬か? その翌日であった。――勇が、田辺旅館の若主人から二十円の金と、鳥打帽子を借り受け、紀州に出発せうと、朝の上りの第十一伊予丸の時間に、浜に立ったのは。 その時、半泣き姿でとんできた芙しい女性があった。髪を七分三に分け、どこの…

海豹の18 漁る人漁られる人

漁る人漁られる人 そこへ表からおたきが帰ってきた。それで、勇は顔を伏せた。 『誰ぞと思ったら、若旦那ですか。今時こんな処で何をしてゐやはりますの。今日は沖へお出でにならなかったのですか?』 『をばさん、追ひ出されちゃった。追ひ出されちゃった。…

海豹の17 哀愁の波

哀愁の波 大五郎の家を去った勇は、すぐその足で卯之助の住んでゐる裏長屋を尋ねた。そこは五軒続きの汚い長屋であった。たゞ八月の太陽だけは、表に輝いて、路次で遊んでゐる小さい裸体ン坊の子供等の上を容赦なく照らしつけてゐた。 『お父っあん、居るか…

海豹の16 破れた網

破れた網 有名な出しゃばりで。浜ではみんなに厭がられてゐる大五郎の妻みつ子は、窪(くぼ)んだ眼窩(がんくわ)に眼鏡をかけ、その眼鏡の上から覗くやうに、卯之助を見ていうた。 『みなさんの処もえらいでせうが、網を持ってゐる此方もずゐぶん借金で困…

海豹の15 大渦小渦

大渦小渦 父の大きな声に驚いて大柄の浴衣に紅の腰紐を無雑作に結んだかつ子が、便所の帰りに飛出してきた。そして。懐から女手で書いた厚ぼったい手紙を一通取出して、いかにも癩にさはってゐるやうな口調で、彼女は父にいうた。 『お父さん、勇さんに近頃…

海豹の14 桃源の末路

桃源の末路 内海の八月は、天国を思はせる程静かなそして美しいものであった。御手洗の後の山には、蜜柑の木が、緑の葉を輝く太陽にさしのべて祝福を受け、葉の間に隠れたまだ皮の熟しない蜜柑の実は紺碧の海を見下して、微風に酔ひを醒ましてゐるかの如くで…

海豹の13 悲恋悲歌

悲恋悲歌 船に帰ると、万龍は、エンジンから発散するガスに酔うて、ずゐぶん苦しんでゐた。それでまた薬屋へ飛んで行って、仁丹を買うてきたりして少からず手間どった。然し、船が美しい尾道港を出て、高根島の沖を廻る頃になると、彼女は頗る元気づいて、ま…

海豹の12 雄波雌波

雄波雌波『あなた一体何処で生れたの?』 さう尋ねると、彼女は甘ったるい口調で、 『いやゝわ船長さん、こんな稼業してゐる者に、戸籍調べするものぢゃありまへんよ』 さういって彼女は。左腕を彼の肩にかけたまゝ坐り直した。 『船長さん、それよりか、こ…

海豹の11 海の魔女

海の魔女 海に帰ると気が晴々した。今夜は月さへ白く大空に輝いてゐた。実際かつ子さへ承諾してくれさへすれば、あのにくたらしい義母のみつ子と離れて、一生五。六噸級の小さい発動機船で夫婦が暮せれば面白いなアとも考へた。――いや、瀬戸内海にはまだく沢…

海豹の10 夢! 夢! 夢!

夢! 夢! 夢! 勇は、自分に子が生れた場合、ヴィッケル船長のやうに、デッキの上で子供を育てる勇気があるかどうかを考へてみた。そして、その勇気のないことを今更ながら恥入るのであった。こんな処をかつ子に見せてやらなくてはならぬと思った彼は、自宅…

海豹の9 思慕と幻滅

思慕と幻滅 そんな会話があって間もなく、御手洗の小学校長高井新七の媒介で、水産会長村上大五郎の長女かつ子と、村上勇の縁談が纏った。然し性格が合はないといへば、義母のみつ子と勇との性格ほど合はないものは、全く稀であった。みつ子は、あまり財産も…

海豹の8 赤銅色の皮膚

赤銅色の皮膚 実際、勇は、卯之助が好きであった。卯之助は、勇が生れる前から、父の小五郎に使はれるやうになって、もうかれこれ三十五、六年も、村上の分家に使はれてゐた。酒は好きであるが、ほんとにさっぱりした竹を割ったやうな男であった。親分子分の…

海豹の7 陽に向ふもの

陽に向ふもの 父の喪が明けて初めて沖に出た村上勇の魂の奥には、何だか暴風雨に屋根を飛ばされた家のやうに、全く見当のつかない淋しいものがあった。御手洗島を離れて鏡のやうに滑かな瀬戸内を東に走るときでも、父が残した借金を整理することで頭が一杯に…

海豹の6 海の継承者

海の継承者 暴風雨(しけ)の後とて、いつもなら夜の十二時過ぎでも何となく活気のある尾道港が、全く眠ったやうに、波止場の電気燈だけが白く海面に反射して、景気をつけてゐるだけで、海面につき出した浮橋の上には、彼を待ってゐるやうな人影も見えなかっ…

海豹の5 海の犠牲者

海の犠牲者『若旦那、お気の毒ですなア、親分が悪うございましたってなア』 勇が田辺旅館の庭に入るや否や、卯之助は叮嚀にそんな挨拶をした。変な挨拶だとは思ったが、要領を得ないので、帳場の角火鉢に手をつき出して、巻煙草をくゆらせてゐた田辺省吾に勇…

海豹の4 海国日本の横顔

海国日本の横顔 黄ばんだ顔をした井上技師はなかく熱心な男で、広い講堂に雨雲の間からのぞいてゐるお星さんの数位しかゐない淋しい聴衆に向っても、熱心に講演を続けてゐた。彼は統計表を指さす竹の鞭を両手で握り締め、講堂に数千人の人間が坐ってゐるかの…

海豹の3 暴風雨の夕

暴風雨の夕 その晩の水産振興大講演会は、もちろん、おじゃんであった。六時開会といふのが八時になってもまだ小学校の大きな講堂に、二、三人しか集ってゐなかった。校長室に坐り込んでシガレットを二、三本続けてくゆらせた井上技師は、如何にも弱ったやう…

海豹の如く2

瀬戸の春『鯛はとれますか?』 背の高い黄ばんだ顔をした面長の井上技師は、唇の間に、啣(くは)へてゐたシガレットを、海の中に抛り込みながら、発動機船のデッキに立って、村上勇にさう尋ねた。勇は、尾道港まで今夜の水産振興講演会に、県から派遣された…

海豹の如く1

海豹の如く 序 海が我々を呼ぶ。血潮が我々をさし招く。鰹と、鯨と、海豹(あざらし)が、豊葦原の子を差招く。おゝ、大陸が我々を見棄てゝもい、陸地の二倍半も広い海洋が、我々を待ってゐる。日本男子は、波濤を恐れることを知らない筈だ。因幡の兎は、鰐…