海豹の4 海国日本の横顔

  海国日本の横顔

 黄ばんだ顔をした井上技師はなかく熱心な男で、広い講堂に雨雲の間からのぞいてゐるお星さんの数位しかゐない淋しい聴衆に向っても、熱心に講演を続けてゐた。彼は統計表を指さす竹の鞭を両手で握り締め、講堂に数千人の人間が坐ってゐるかの如く、滔々と海国目本の過去、現在及び将来を説きつゞけるのであった。
 彼は大声に叫んだ。
『諸君、この御手洗の島は日本歴史に於ても見逃すべからざる位置におかれたる島であって、神武天皇御東征の際は勿論、神功皇后三韓征伐の時にさへ、この島は水軍の中心の地であったと考へられるのであります。由来、国力の発展といふものは海上権の発展に大いなる関係を持ってゐるものでありまして、神武天皇が、瑞穂の国を平定せられたといふのは結局、瀬戸内海の海上権を握られたことに依存すると私は考へるものであります。神武天皇が日向の耳津を出帆せられ速吸(はやすい)の瀬戸から宇佐に移られ更に広島湾に数年留まられ、蒲刈列島を東に、瀬戸内海を東へ東へ進まれたことは、日本文化の東漸史に於て実に深い意義を持ってゐると思ふのであります――』
 弁士は顔をまっかにして一生懸命説いてゐるけれども、わけの解らぬ小学校の生徒の中には居睡りしてゐるものもあった。その後に坐ってゐた高等小学校の生徒が、それを目醒めさせようと背中を突いたので、びっくりして後を振返って見てゐた。井上技師は猶も言葉を続けた。
『――この御手洗の島の名の起りは、諸君も伝説によってとくに御承知の通り神功皇后三韓征伐の砌(みぎり)、この島の氏神に於て手を洗はれたといふ伝説がある通りであります。然し海国史を研究する者にとっては、神功皇后がたゞ大崎下島に上陸遊ばされて、手をお洗ひになったといふだけでは満足出来ないのであります。こゝに必ずや深い裏面があり、この大崎下島即ち御干洗島といはれた処は、瀬戸内海の枢要なる海運の中心地にあたってゐた、といふことを考へ及ばなければならぬと思ふのであります。それは南北朝の時代に於て、この蒲刈列島の東端に属する大三島附近が、倭冦運動の中心地であったことを思ふならば、日本の海運史は、この大三島附近にその中心が長く存在してゐたことを思はざるを得ないのであります』
 表からのこのこ袴をはいた水産会長村上大五郎が威儀を正して講堂の中に入ってきた。そして講壇の横に設けられた特別席に腰を下した。高等小学校の生徒と尋常小学校の生徒が争ひを始めた。勇がその方に向き直ると、呉服屋の息子である高橋勝次は両手を膝の上に置いて、如何にも殊勝らしく姿勢を正した。勇には話は面白かったけれども。小学生には少しむづかしすぎると思はれないでもなかった。しかし弁士は平気である。
『――大三島神社の宝物の中を見ると、元冦の時に河野通有が敵軍を破るために作ったプロペラ式の推進機の図のあるのを見て、我々は一驚させられるのであります。河野通有は、蒲刈列島即ち一名三島列島を中心としたる水軍の大将でありまして、元冦の時に敵軍を撃退した功は、全くこの三島列島の水軍の力にあったと考へざるを得ないのであります。足利尊氏が京都に破れ、尾道まで逃げてきた時に、彼が頼りにした軍隊はこの三島列島の水軍であったのであります。戦国時代に於て、朝鮮支那南洋を荒し廻った所謂海賊の一団は、三島列島を中心にして、占拠してゐたのであります。即ち能美島を初め大三島、囚島その他に無数の城壁の残されてあるのを見ても、如何にその当時の水軍が活発な運動をしたかが分るのであります。豊臣秀吉が朝鮮征伐をせんとした時に、その海軍力を何処に仰いだかといへば、それは全くこの三島列島の水軍の力に俟ったのであります。伊予の水軍の将加藤嘉明が、聯合艦隊を組織したのは、この御手洗島の海岸だったことが歴史に載って居ります。こんなことを綜合すると、平清盛が安芸の厳島に神社を建てたといふことは、この水軍の勢力に勝てないことを知ったので、彼等におもねる意味に於て、一つの海神の殿堂を建築したとしか考へられないのであります。しかもこの水軍の中心人物は、歴代村上家であったことは、歴史上に於て著しい事実であります。恐らく当水龍会長村上大五郎氏の如きはその末孫であると私は思ふのであります。あははははは』
 弁士が一人で大きい声で笑ったものだから村上大五郎もそれにつられてまた大声に笑った。村上勇は薄々と自分の祖先が海賊だったと聞かされてゐたけれども、その海賊が何の意味の海賊かさっぱり分らなかったのが、井上技師の説明によって、その歴史的背景を聞かされ、明るい世界に連れ込まれたやうな気がした。それから思はず、自分の右手で膝を叩いた。弁上はなほも語りつゞけた。
『然るに諸君、徳川幕府は、キリシタンバテレンの伝播するのを恐れて国を封鎖し、瀬戸内海に水軍の蟠踞(ばんきょ)するのを恐怖して、これに解散を命じたのであります。その後毛利家は瀬戸内海の水軍の大目附として任じられてゐたやうでありますが、徳川時代に於ては全く神武天皇以来の海国精神は失はれたといはなければなりません。しかしひるがへって考へてみると、日本のやうな狭い国は海に発展するより道はないのであります。北米に往く道を講じようとすれば他民族と対立し、亜細亜大陸に行かんとすれば、四億の支那民族と衝突しなければならないのであります。しかし諸君、海は何人の所有でもありません。アメリカの三哩手前までは日本の領土と考へて差支ないのであります。日本は、海に生れて海に逝くべき使命を荷はされてゐるのであります――』
 こゝまで弁士が説いて来た時に、勇の鼻にかぐはしい香が感じられた。何だらうと思ってゐるうちに、勇の後から美しい女の声が聞えだ。
『勇さん、勇さん。お父さんをもう一度呼んで下さらない? 尾道
の水上署からまた電話がかゝってきましたの。あなたのお父さんの乗っていらしった船が沈没したさうですよ』
 勇はかつ子が少しも慌てないで、如何にも落着いた口調で、彼の耳に囁やいたものだから、その再偽を疑った。しかし今までの経験上、それはあり得べきことだと思ったので、彼は急ぎ大五郎を呼出し、自分も雨合羽を着て、すぐ表に飛出して行った。