海豹の5 海の犠牲者

  海の犠牲者

『若旦那、お気の毒ですなア、親分が悪うございましたってなア』
 勇が田辺旅館の庭に入るや否や、卯之助は叮嚀にそんな挨拶をした。変な挨拶だとは思ったが、要領を得ないので、帳場の角火鉢に手をつき出して、巻煙草をくゆらせてゐた田辺省吾に勇は尋ねた。
『どどどこで一体親父は難船したんだね、尾道の水上署から電話があったっていふが、どうしてあすこへ先に知れたんだらうか?』
『さっき電話がかゝった時には一行七人のうち小五郎一人が行方不明で、あと六人はみんな第三伊予丸に救はれたといふことを報告してきましたがね、その後、交番所へ電話がかゝったのによると、小五郎さんは、助けられてすぐ死んでしまはれたといふことでしたよ。余程水も飲んでゐたといふことでしたよ』
『さうすると、尾道へ伊予丸が着いてから電話が掛って来たんだね、ぢゃあこれから尾道へ親父の死骸を取りに行かうかな』
 勇は、涙も流さないで勇敢にさういった。然し漁師仲間によくいはれる船底一枚の下は地獄たといふ所をしみじみとこんな時に痛感するのであった。勇敢な彼は、すぐ卯之助を促して発動機船を出した。昼、南へ下ったときとは違って、風は随分激しく、波は頗る高かった。然し、彼は卯之助に発動機の火を点けさせて、自ら舵を握り、暗い瀬戸を北に上った。
『――もしかすると親父は生きてゐるかも知れない、いや、電話がほんとだらう。年が寄ってゐたから、水を多く飲み過ぎて、死んでしまったんだらう――』
 そんなことを思ひながら、島の岬々に光ってゐる燈台を目当てに、島々の間を縫うて、尾道に急いだ。不思議に大三島の蔭にくると、風もなごやかで、濤も静かであった。そのためか、暴風雨を忘れたかのやうに、漁船が三隻四隻と沖に出て行くのを認めた。香水の匂がぷーんと鼻の先に香うてくるやうに思はれてならない。
『勇さん、お父さんを呼んで下さいな』
 さうした声が耳元に聞え、愛くるしいかつ子の顔が、舵をとってゐる彼の背後に見えるやうな気がする。
『――家を弟に譲って大五郎さんの家を嗣がねばならないのかな。それもあまり悪くはないな。あのかつ子と一緒になるなれば――いや、二つも年上の離縁せられた女の処に養子に行くといふのは恥かしいなア。男といふものは一人前で押通してゆくのがほんとうなんだ。先方が旧家だからとか、地位が高いとか、村上家の本家だからといって、地位名分の奴隷になっちゃ仕方がない。俺は貧乏でも飽くまで小五郎の後嗣をしようか、それは亡き親父の霊を慰める最もいゝ道だらう。
 ――いやさうぢゃない、親父はさ、俺を大五郎さんの処へ養子に
やって、御手洗島の水産事業をうんと興したいといふ意見を持ってゐた。阿母(おふくろ)は、アメリカから送金してくる金で充分食べるし、弟も来年は弓削島の商船学校を卒業するやうになってゐるし、俺が大五郎さんの処に養子に行っても、家に不服のある理由はない。いやむしろ、親父が大五郎さんの処から融通をうけてゐる何千円かの金を整理するためには、さうしなければならないだらう。
 ――それも不甲斐ないなア、五千や六千円のために、瑕物(きずもの)の娘の処へ奴隷に売られるのも恥かしいな、兄貴のやうに、アメリカのサンピドロヘでも飛出して、メキシコ漁業でもやるかな、さうすると、阿母が可哀さうだなア』
 そんなことを繰返しく考へてゐたが、船はいつしか尾道の港に接近した。岸には美しく黄ばんだ光が幾千か並び、やゝ高い処にアークライトが幾つか点ってゐた。青い灯赤い灯が見える。それらは帆船の右舷左舷に点されてある舷燈であらう。それが幾十となく、次から次に並んでゐるその美しさ。川のやうに流れてゐる満洲の潮の上に、青い光と赤い光が影を落すスペクトラムのやうな光、海の下にもう一つ世界があって、そこから龍宮の乙姫が呼んでゐるのぢゃないかと思はれるほど、尾道港は淋しい島から来たものにとって、ある魅力を持ってゐた。波止場の傍には、何百となく瀬戸内通ひの帆船が群ってゐた。その暢気なこと! マストの上に一つ一つぶら吊げた黄色い光が、船べりを打つ静かな波の調子に合せて、律動的に揺れるその案配――勇は、いつ来ても尾道港が好きであった。
 その癖、陸の尾道に何等の引力を感じなかった。感じないばかりでない、今日は胸をひき裂かれるやうな気持を秘めてゐた。
『――お父さんの死骸はどこに置いてあるのだらうか。第三伊予丸といふから摂陽汽船の波止場にでも置いてあるのだらうか? 五人の他の者はどうなってるのだらうか? 誰が心配してくれてるのだらうか?』