海豹の18 漁る人漁られる人

  漁る人漁られる人

 そこへ表からおたきが帰ってきた。それで、勇は顔を伏せた。
『誰ぞと思ったら、若旦那ですか。今時こんな処で何をしてゐやはりますの。今日は沖へお出でにならなかったのですか?』
『をばさん、追ひ出されちゃった。追ひ出されちゃった。とうとうおみつのおばあに追出されもやったよ』
 俯伏せになって寝たまゝ勇はさういった。
『あらまあ! どうしたことなんでせう、ほんとですかいな? あの人は厭らしい人だすよってなア、よくまあ今日まで、あなたは辛抱なさいましたですよ。然し、若奥様がお泣きになりますぜ、きっと、あなたは若奥様と相談なすって出て来られたんですか?』
『いや、……かつ子には相談しなかったけれどね、をばさん、あの鬼婆と親爺が、あんまり憎たらしいこといふから、その儘出て来たんだよ』
『そのことを宅(うち)の人は知っとるんですかいな』
 さういひながら、おたきは、奥の三畳の間から茣蓙(ござ)を取出して、勇にすゝめた。
『若旦那、そこはあんまりよごれてゐますから、この茣蓙でもお敷き下さいませ』
 乏しい生活の中にも、心を尽して労ってくれるおたきの親切が嬉しかった。富の程度からいへば、もう勇も卯之助も何等の差等はなかった。いや寧ろ勇には父の残していった幾万円といふ負債があるだけ、それだけ彼はマイナスを多く持ってゐた。デモクラシーの思想からいへば、旧主人の貧乏な息子などを尊敬する理由は毛頭ないに拘らず、おたきが今猶旧恩を思出して、その貧乏息子を『若旦那、若旦那』といって、労ってくれる心根がほんとに嬉しくてたま
らなかった。
『あんな家に養子へ行くのが間違ってゐたのやなア、をばさん、ほんとに乞食しても養子になんか行くものぢゃないな、もう後悔しても追付かないけれど、馬鹿みちゃったよ。をばさん、わしはもう帰る処がないからなア、今日から卯さんの処の子にして貰ふんぢゃ。いゝだらうなア。をばさん』
 奥の三畳の窓を開いて、吊り放しにしてあった蚊帳をおたきはたたんでゐた。それを聞いて彼女は、
『おほほゝゝ、若旦那、そちらは上り口ですから、この奥に入って横におなりになりませんか、こちらが涼しうございますよってに、こちらで、おやすみになると、少しはゆっくりなさいますよ』
 おたきは、泣いてゐた勇を慰めようと思って、いろいろ苦心をする。さういってまた彼女は、庭に下りて、鑵子(くわんす)の下に柴をたき付けた。
『わたし達は三十年近くもお家でお世話になったんですからない。
他処のやうにお思ひなさらんで、こんなに狭いむさくるしい処ですけれど、ほんとに何月でも、何年でもどうぞ自分のお家だと思って、帰ってきて下さいませよ』
 さういうて、おたきは、大きな二重瞼の眼玉の上に滲出た涙を前掛けで拭いた。彼女は、大きな家が潰れて、今その息子が、自分の家へ頼って来ねばならぬやうになったその人生の浮沈を考へて泣いてゐるのであった。上り口に起直った勇は、おたきの泣いてゐるの見て、また泣いた。表に飴屋が通る。裸体ン坊の末っ子が、水鉄砲を棄てて内庭に飛込んできた。
『お母あん、一銭おくれ、一銭! 一銭! 一銭!』
 子供はいらだたしく、母の左腕に寄りすがって金を要求した。母はしづかに頸にかけてゐた縞の財布を傾けて、一銭を取出しその子に渡した。たわいもなく喜んで末っ子はまた表へ飛出した。

  窮乏の彼岸

『若! わっしも腹を決めました』
 晩酌に少し酔ひの廻った卯之助は、蛸の足の煮付を一口かぶりながらさういった。
『わっしは、あんたとなら、南洋にでも、サガレンにでも何処にでも行きますぜ、そりゃ、あんたのお父っあんに頼まれたんだからな。わっしも男ぢゃ。きっとあんたを成功さして見せる!』
 褌一つになって、奥の三畳て、蛸の足を肴にして酒を飲み出した卯之助は、右の腕を左手ですごいて。勇にさういった。そして、自
分の飲干した盃を勇につきつけた。酒の嫌ひな勇も、卯之助の愛と親切にほだされてそれを拒む力を持ってゐなかった。敬々しくその盃を頂いて、一息にそれをぐっと飲干し、その盃をすぐ卯之助の方に廻した。そしてみづから、網の目の描かれた一合入の爛徳利を傾けて、卯之助のために酌をした。
『有難いなア、世が世なら、若旦那様で、こちらは頭が上らなかったわっしに、その若旦那が御親切にお酌して下さるんだからなア』
 卯之助は本気でさういった。
 そこへ太助が入ってきた。
『卯やん、先方はどんな返事したかいな、わいらはどうしたらいゝんやな』
 褌一つの上に短い白の甚平襦袢を一枚ひっかけ、日本手拭で鉢巻をしたまゝ、庭につっ立って太助はさういった。
『まあ、上れ、太助。何って、返事はなア、先方はどうしても出来ぬといふんぢゃ。網を修繕するまで休んどいてくれといふんぢゃ、どうするんぢゃ。それでなア、太助、わしはちょっと紀州の方にでも出稼ぎに行ってなア。遠洋漁業に出掛けようと思ふんぢゃが、お前も行かんか、紀州まで出たら、少しはよからうが、え! まあ上れよ』
『そいつはいゝなア、わしも行かうか? 誰々行くんや?』
 さういひながら、太助は、庭に草履を脱ぎ捨てて奥の三畳に通った。そしてそこには、まっ裸の勇が、卯之助とさし向ひで酒を飲んでゐるのを見て、びっくりしてゐる様子たった。
『若旦那、どうしやはりましてん、青年団は禁ぢゃおまへんか』
 太助は冷かすやうにさういった。
『わしは禁酒だぞ、太助、わしは飲んどりゃしないよ。飲んどるのはわしの胃袋が飲んどるので、わしが飲んどりゃしないんだぞ』
 滑稽混りに勇はさう答へた。
『ははゝゝゝゝ若旦那はなかなか賢いからなア、大五郎さんが、この若のやうだと、物事がてきぱきいくんだがな』
『おい、太助、こんどの事伴でとうとう若も犠牲になったんぢゃ。今時の言葉でいふと、首ぢゃ、首ぢゃ、若旦那那はなア、太助、我々の方に味方するのが悪いといって、離縁せられてなア、もう出て来られたんぢゃ』
 卯之助がさういふと、太助は、驚いた様な表情をして勇の方に向き直った。
『ほんとだすかいな? 若、……またあの鬼のおみつが茶々入れよったんだな、あいつ、ほんとに憎い奴だなア、あいつ、ひっぱたいてやりたいなア、こ面憎い! こんど浜にでも出てうせよったら、糞ひっかけて、海の中につっこんでやるんだがなア。はははゝゝゝ』
 太助は、如何にも憎たらしさうにさういうた。
『まあ、さう怒るなよ。あの鬼婆でも、わしの義理の母だったんだよ』
『さうすると若、ほんとに、なんですか、あんたは出て来られたんですか……ほんとに離縁になったんですか?』
『太助、ぽんと、うそがあるか、わしらの言葉に嘘があるか……それでなア、太助、若がいはれるのにな、明日、早速こゝを立たれて、一旦福山のお母さんの処へ寄られてなア、紀州の串本か、勝浦
遠洋漁業に出る大きな網の持主の処へな、交渉に行かれようといはれるんだよ。ぐづぐづしてゐるとこの不景気に、みんな妻子を餓死さゝなならんからな。もう瀬戸内の漁業を諦めてさ、少し遠い処まで出掛けて行かうといふのだよ。みんな他の国では行っとるんぢゃからなア。こんな瀬戸内の築庭の池のやうな処で、まゝ事のやうな漁をしとっても面白くないよ。それ、この間の阿波の漁師がいっとったぢゃないか、徳島県の人々はみんな玄海灘を越えて、天草で魚をとってゐるさうぢゃから、御手洗の漁師も少しかういふ機会に発展せんと。将来望が無いぜ』
 卯之助は本気になってさういうた。