海豹の16 破れた網

  破れた網

 有名な出しゃばりで。浜ではみんなに厭がられてゐる大五郎の妻みつ子は、窪(くぼ)んだ眼窩(がんくわ)に眼鏡をかけ、その眼鏡の上から覗くやうに、卯之助を見ていうた。
『みなさんの処もえらいでせうが、網を持ってゐる此方もずゐぶん借金で困ってゐるので、その苦心は外から見えませんぞいな。お前さんも知ってゐる通りに、小五郎さんが死んで、うちが請判してゐたばかりに、何万円といふ損害を引受けとるんで、その利息だけでも大変なんてない』
 さういって、ぢろりと養子の後姿をみつ子は見た。大五郎は、それに呼応していった。
『何しろこの不景気に、銀行は金を貸してくれず、信用組合は漁業のやうな危い職業に金を貸すことは出来ぬといふし.年々五億円以上あげてゐる漁獲高に対して.政府が金融してゐるのは僅か干五百万円だからなア、広島県の水産組合に対しては、鼠の涙ほども廻って来やしないよ。それで網を修繕しなくちゃならんことも判ってゐるけれど、馬鹿らしいとは知りつゝも、高利貸に払ふ利息の方へみんな吸収られてしまふんでなア、わしは小五郎さんの判をついてゐたばっかりに、えらい目に会ってゐるんぢゃ』
 何でもかでも、凡てを小五郎の借金に罪を被せてしまふので、勇も傍で聞いて多少癩に触った。卯之助は、大五郎夫婦があまり弁解に務めるので、
『然し大将、あの今の網ではいくら沖へ行っても、魚は逃げて行ってしまひますが、どうしたものでせうかなア、あれで下半期やらうとすると、骨折損のくたびれ儲けといふことになりましてなア、あれだけの網を使はしてもらって、今まで通り、ヘヘヘヘゝゝゝ払へとおっしやるのは、少々……そこは、ひとつ、何でがす、多少、何でかす、歩を引いてやって欲しいんだすがなア』
 庭にしゃがんでゐた太助は、真鍮の煙管の灰皿を土べたの上に叩き付けながらひとり言のやうにいうた。
『あんなに破れちゃあ、直すにも、直しやうがないからなア』
 太助はまた庭に叩き落した吸殼の火を、右の栂指と人差指の間に挾んで、口にくはへてゐる煙管の灰皿に持って行った。それに呼応して五、六人の者は、口々に呟いた。
『ようまあ、あんなに破れたもんぢゃなア、ほんとに』
『繕らひやうがないからなア、五智網があアなっちゃ!』
『ありゃ新規にする方がましや』
『あれは繕らふだけ損ぢゃ』
『見てゐないものには解らんなア』
  卯之助は、しびりが切れて、たまり兼ねたと見え、跪くやうな姿 勢をとって、両手を前につき、懇願するやうに、大五郎にいうた。
『大将、ひとつ網の破れ方を見てやっておくんなさいよ。昨日もみんなで直さうとかゝったのですけれども、いたみやうがあんまり酷いので、繕らヘヘんのでございますわ』
『然し、新調するといふとなると、かれこれ五、六千円かゝるしなア……もう近頃は漁業界が次から次へ進歩するものだから、資本を廻す方としもやあ、儲からないうちに器具代でもう行詰ってしまふんぢやなア、その金融がつけば、こちらも楽になるんぢゃけれども、金融はつかんし、小さい資本家は潰れてしまって、大きい資本家に呑まれてしまふんぢゃなア、結局さうなるんぢゃ』
 大五郎は、返事のしやうがないので、小資本家の悩みを訴へるやうに自白した。
『ぢゃあ、かうしよう……晩まで待ってくれ、網が修繕出来るか出来ないかよく見て、その具合で、兎角の返事をすることにしようか』
 大五郎がさういったので、大勢の者は引上げた。養子の勇も彼等について、その険悪な低気圧から逃げ出さうとしたが、彼が立上ると、大五郎はすぐ引留めた。
『勇、お前、どうしたんぢゃ、網の破れたことを知っとるぢゃらうが、なぜ早うわしにいってくれんのぢゃ』
 勇は大五郎みづからが、網の破れたことをよく知ってゐながら、すべてを彼の罪に帰せんとしてゐたことを知ってゐたから、相変らず沈黙してゐた。すると養母のみつ子は、追撃を持続した。
『この子は駄目ですぞ、お父さん、わたし達があんなに答弁に困ってゐるのに、一言半句こちらの味方になって弁解もせず、まるで他人のやうに大勢と一緒になって笑うて、わたし達の困ってゐる事情を嘲ってゐるやうな態度では末が案じられますわ。それに芸者狂ひばっかりして、自分の家の借金の利息まで、途中で芸者のために使うてしまふやうな不埓な不良青年は、今のうちに、うちと縁を断たんと、家が潰れますぞいな』
 大五郎は、妻の言葉を聞きながら、シガレットに火をつけた。
『わしは大分判断を誤っとった、この子はもう少ししっかりした者だと思ったがなア、今時の若い者はなかなか気がゆるせんからなア』
 すかさず、みつ子は、それに付け加へた。
『何もこの子が居らなければ、後嗣がないわけぢゃないし、幸ひまだ籍も入ってない事っちゃから、戸籍が汚れぬうちに、去(い)んで貰うたらどうですぢゃろな』
 沈黙を続けてゐた勇は、残酷な義理の母が、自分を野良犬かなにかのやうに考へてゐる態度を、辛抱して聞いてゐることが出来なかった。それで彼は、垂れてゐた足を曲げて板間の上に坐り直した。彼は昂奮を押さへ、静かに最敬礼をしていうた。
『御両人のお考はよくわかりました。それでは、今日限りお許しを願ひまして、里の方へ引下がらして頂きます。私も男でございます
から、此方に何もお世話にならなくとも、親父の借金位一生かゝっても払ってゆきます。では失礼いたします』
 さういって立上った勇は、檻から放たれた海豹の如く、陸上の凡てに愛想をつかして、海洋に躍り出す覚悟を腹の底にきめてゐた。
『あれぢゃからない。今時の若い者は信用出来まへんわ』
 薄っぺらな、きたない下駄を履いて、勇が裏門から静かに出て行かうとした時、義母のみつ子は、勇の後姿を眼鏡越しに睨みつけなから、大五郎にさういうた。