海豹の15 大渦小渦

 大渦小渦

 父の大きな声に驚いて大柄の浴衣に紅の腰紐を無雑作に結んだかつ子が、便所の帰りに飛出してきた。そして。懐から女手で書いた厚ぼったい手紙を一通取出して、いかにも癩にさはってゐるやうな口調で、彼女は父にいうた。
『お父さん、勇さんに近頃こんな手紙が来るんですよ』
 その手紙には勇も全くびっくりしてしまった。それはかつて勇の見たこともない手紙で。勇にきたものをかつ子が嫉妬心からそれを勇には見せないで保存してゐたものらしい。義父はそれを受けとった。それは長たらしい芸者からの恋文であった。
『勇。お前この手紙を知っとるか』
 勇は、一瞥もせずに、
『そんな手紙知りませんね、見たこともありませんなア』
 さういひながら、父の投出した一文余りもある巻紙に書いた折釘流の長ったらしい万龍からの手紙を処々拾ひ読みした。甘ったるい口調で、そこには、よせばよいのに七夕祭の晩の光景をべたべた書き連ねてあった。
『ど畜生が、これでお前の根性がみな解ったよ、恩知らずめ!』
 さういふが早いか。こんどは握りこぶしで大五郎は勇の頭を思ひきり強く殴り付けた。その時裏口から卯之助を筆頭に大勢の漁師がお揃ひで入ってきた。卯之助は、勇の泣きながら俯向いてゐる様子と茶碗が引くり返って飯が拾はれずにちらけて居り、そこには女の手で讐いた手紙が投捨てられ、寝巻姿のかつ子と、昂奮してゐる大五郎が立ってゐるのを見て、若養了が叱られてゐるといふことをすぐ見てとった。然し階級制度のやかましい漁師仲間のことでもあり、すぐ話の渦中にとび込まうともしなかった。しづかに膳の前を避けて勇の後に廻り、板間の上に両手をついて、卯之助は馬鹿叮嚀に大五郎にお辞儀をした。
『大将、お早うございます。今日は大旦那に是非お聞き入れ願ひたいことがございまして、朝っぱらから船の衆とみんなでお邪魔にまゐりました』
 大五郎はまだ顔も洗ってゐない処へ、大勢の漁師達が押かけてきたので少からず面くらった。彼は、昂奮してゐるためでもあらう、まだ言葉が荒かった。
『何ぢゃ、朝っぱらから大勢やってくるなんて』
 彼は、すぐ彼等の用件が混み入った漁の歩合の問題であることに気がついた。かつ子は、寝巻姿を見られて恥かしいと思ったか、すぐ奥へ逃げこんだ。勇は野良犬のやうに小さくなって――然し冷静に――そこに散らばった飯粒を一つひとつ茶碗に拾ってまはった。大五郎は、銅像のやうにそこに竦んだ。勢揃ひしてやってきた者は、十一人まで数へられた。台所に這入って来るなり、みんな頬冠りを外して、その手拭を顎から両肩へぶらりと垂れさせた。銅色に焼けた大きな顔――その顔の左右に輝いた瞳――その灰色に澄んだ各々二つの瞳の視線――その視線は期せずして野良犬のやうに小さくたった若養子と。阿修羅のやうに。いきり立った大五郎の上に。焦点を結んだ。

  孟蘭盆近く

『なんぢゃ、朝っぱらから』
 昂奮の静まらない大五郎は、寝呆面を大勢に見られるのが恥かしいので、洗面所へ顔を洗ひに行かうと。卯之助に背を向けながら、叶き出すやうに、さういった。こぼれた飯粒をきれいに拾ひ集めた養子の勇は、腰にひっかけてゐたタオルで両眼を拭き乍らいった。
『えらい早いなア。卯やん、今日は沖へ出なかったのかい?』
 話を養子がとってくれたのを幸ひに、大五郎はすうーっとそこを抜けて、奥の洗面所へ早足で駆け込んだ。その場は逃れたものの大五郎の胸中には、いひ知れない不安が漲ってゐた。
 台所では、勇に遠慮して、卯之助も、他の十人の漁師も沈黙を守った。勇は気を利かしてその漁師達を招いて、板間の上り口に腰を下させた。然しある者は、上り口が狭いので庭にしゃがんだ。大五郎は奥から顔を決って出て来た。頭のまん中の禿げた薄い髪は、きれいに梳(くしけず)られ、油ぎってゐた顔は、石鹸で洗ってぴかぴか光ってゐた。大五郎はそこにかしこまって坐り、漁師達も形を整へて腰をかけ直した。勇は、義父に遠慮して彼には背中を向け、上框(あがりかまち)に足を垂れたまゝ続けてそこに腰を下してゐた。
 澄み切った八月の空が、開け放たれた東側の戸口から見透かされ、輝かしい太陽は、流し場のトヘ黄色い光線を投げた。
『いゝお天気ぢゃなア』
 大五郎は、機嫌を直して、さう諂(へつら)ふやうにいうた。年寄りだけあって、人の心を読むことはなかなかうまい。さういひはしたが、大五郎は一種の恐怖心を持ってゐた。
『こんないゝ天気にどうしたんぢゃい、船は出なかったんかい? 「盆」が来てゐるのにえらい暢気ぢゃないか』
 さういって彼は、さぐりを入れた。
『行かうにも旦那、網が破れて出らりやしまへんが』
 どす太い口調で、庭にしゃがんでゐる太助といふ五十男が、一発放した。それに続いて卯之助は、叮嚀にお辞儀をして、
『大将、御免なしておくんなはれ、こちらは不調法者だすよってに、言葉遣ひも充分出来ないんですけれども。今日は折入ってお願ひがありまして。かうして大勢の者とお伺ひしたやうな次第でございます』
『おい勇、煙草盆を持ってきてくれ』
 さういって、大五郎は余裕綽々(しゃくしゃく)たる処を、わざと使ってゐる者に見せようとしてゐた。勇は奥へ走り込んで。煙草盆を持って来た。その間も話は進んだ。
『それは一体何ぢゃな?』
『そのう、なんでかす、もう実は我々も漁師だけでは食へまへんので、廃業さして貰はうと思って居りますので、ヘヘヘゝゝゝそのう、何でがす……今年のやうに不景気が続いて、その上に鯛はとれませんし。蝦も鰯もとり尽したやうな状態でございますので、借金ばかり拵へまして、盆の払ひがみんな出来まへんので、大将におすがりして、ヘヘヘゝゝゝゝ、その何でがす、まことにいひにくいん
でございますが、その……少々先借りさして頂かして貰ひたいなと、まことにいひ難いでがすが、この際出来ましたら、その、なんでがす……』
 卯之助は。板間の上にかしこまって坐り、両手をついて、大旦那の大五郎に申上げたのだったが、平素坐りっけない彼は、口上が長くなったので、尻をもぢもぢし始めた。
『困つたなア、うちも少し貸して貰はうと思ってゐる処や、なア、卯やん』
 煙草をふかしながら卯之助の話を途中で遮って、大五郎は大声にさういった。
『ヘヘヘヘゝゝゝ、御冗談ぢゃございませんね、大将、てめいたちの家とは違って、発動機船の二、三艘もお持ちになる方が、てめいどもから金を借りようとおっしゃるのは、話が逆になって居りますでございますなア。こゝ一月といふものは、まるっきり漁かないので、女房や子供に、おかずを買ひにやることさへ出来ないで困って居るのでございます。それで、私などは御当家には新参者でございまして、みなの者を代表してお願ひする柄ではございませんが、今までの分は仕方がございません。下半期の網代なり船代のお金を四分六にでもして頂かぬと、実際。もう女房や子供のおまんまさへ買うてやることが出来ないんでございます』
 処々つぎの当った単衣の筒っぽの着物をきた卯之助は。長く剃刀もあてないと見えて、口髯がまばらに生え、バリカンで刈った頭の毛が、二月も三月も刈らないと見え、囚人のやうに。真直につっ立って生えてゐた。然し船頭としては(漁師の仲間で船頭といふのは熟練工の一番偉いものをいふ)卯之助の右に出る者はないといはれる位、彼は律儀でもあり、魚をとるのが名人であったから、勇が大五郎の処へ養子に行くとともに、彼もまた船頭として傭はれたのであった。それで彼は、多くの漁師を代表して、新しい要求をしなければならなかった。
『みんなも同じ意見ぢゃな』
 大五郎がさう訊くとそこに並居た漁師は皆異口同音に、
『へえ』『はい』『左様でございます』『はい』
 と答へた。
『返事は急ぐんかいな? かういふことは他に船を持ってゐる人にも関係があるんでなア。うちだけがきくっていふわけにいかんからな。盆まで待ってくれることは出来ないんかな』
 大五郎は、政治的手腕を振って返事の遅延を計らうと考へてゐた。
『へえ、……』
 卯之助がやゝ返事に当惑してゐた時、卯之助の後に腰をかけてゐた二十歳前後の青年で、元気のいい男が、どす太い声でぃうた。
『今日中に返事して貰へ。話がきまらにゃ、漁に出らりやへんがな』
『こんなことで、みんな沖にも出ず愚図々々したら、なほのこと収入が減るぢゃないか。工場の職工の真似をして、下手糞にストライキなんかよせよ』と大五郎は怒った口調でいうた。
『旦那、どうせ沖へ行っても、漁れまへんよってに、かうしてぶらぶらしてゐる方がまだましだすわ』

 同じ青年が、自棄気味的なことをいったので、皆どっと笑った。勇までついて笑った。大五郎は、勇が笑ってゐるのを見て、勇の方に振向き、彼を睨み付けた。然し、勇はそんなこととは露知らず、その青年の顔を見つめてゐた。そこへ奥から大五郎の女房が帷子(かたびら)に狭い子襦(しゅす)の帯を〆めて、夏座布団を自ら運びながら出て来た。
『皆さん。お早うございます。みなさん。朝はやうからお揃ひで……さっきから奥でお聞きしてゐると、歩合の話のやうでしたが、どうおっしゃるんです? 旦那さんもだんくお年をとるので、私にも聞かして置いて下さらんと、また間違でもあると困りますんでなア』