海豹の14 桃源の末路

  桃源の末路

 内海の八月は、天国を思はせる程静かなそして美しいものであった。御手洗の後の山には、蜜柑の木が、緑の葉を輝く太陽にさしのべて祝福を受け、葉の間に隠れたまだ皮の熟しない蜜柑の実は紺碧の海を見下して、微風に酔ひを醒ましてゐるかの如くであった。頼山陽が、東海の桃源と呼んだこの瀬戸内海の一孤島は、桃より蜜柑の収入の多いことを知って、みんな桃の木を伐り倒し。蜜柑山にしてしまった。そして毎年海より上ってくる収入より山からとれる収収穫方が多くなってきた。広島県庁でも、本島の農家より三倍も収入の多いこの島の農家の豊かな収穫を驚くやうな状態であった。
 その緑なす山が海に映す影の下には、形の変った幾十種類の魚類が集って、楽しげに餌を漁ってゐるのが、岸に立ってゐる者によく見えた。瀬戸内海も川が多く流れ込んでゐる本島の周囲は、少からず混濁してゐるが、御手洗島あたりは、丁度瀬戸内海のまん中でもあり、その水は青く澄み、夏の太陽がその澄み切った海面で分光し、虹のやうに美しい光線を海底の力に投付けた。ぼら釣りの船が暢気さうに二艘三艘と、錨を入れたまゝ海に浮かんでゐた。
 然し、かうした暢気な釣船のある半面に、網を持ってゐる漁業の専門家は、年々減って行く瀬戸内海の漁獲高に、尠からず悲観した。
 今朝も、広島の新聞を寝床の中で読んだ大五郎は、その中に、御手洗島付近を政府が禁漁区域にするかも知れないといふ記事を読んで、心配しながら起上った。その時勇は、義理の父の関係してゐる魚市場から帰ってきて、朝飯をかき込んでゐる処であった。
『おい勇、えらいことが出てるぞ、今朝の新聞には、御手洗島付近も禁漁区域にすると出てゐるが、さうなった日には、我々の水産組合は全滅ぢやないか』
 義父は立った儘、歯ブラシを口につっ込んで、タオルを帯の間に挾んでゐた。勇は、台所の板間に腰かけて食事をしてゐたが、また義父の悲観論が始ったと思ったので、七輪にかゝってゐたエナメルの茶瓶をとりには行ったけれども、義父の顔を見なかった。そして一、二分間、口の中の飯を飲み下すまで沈黙を続けた。
『そらな、勇、日本の各処に禁漁区域を作って魚の増殖を保護すれば、瀬戸内海でも魚が多く殖えることは事実だらうなア』
 やっと口の中に一杯ふくんでゐた飯を呑み下した勇は、はっきり答へた。
『やはり。これは何ですなア、この際思ひきって禁漁区域を作って貰はなけりゃならんでせうな、実際あれだけ政府が熱心になって、「大長」で国立水産研究所から鯛の孵化したものを、毎年何千万匹といって、瀬戸内海に流してくれるに拘らず、流す片一方から小さい目の網で、みんな引上げて佃煮にしてしまっちゃあ。国立研究所の必要はありませんですよ。私は、禁漁区域に大賛成ですね』
『そりゃ、理窟からいへば、さうぢゃけれどもなア、さうなると鯛の佃煮屋など、ほんとにすぐ困るな。御手洗町など火が消えたやうになってしまふよ。こりゃ、どうしても反対しなくちゃいかん。わしはひとつ、これから県庁へ行って来う。お前も青年団の連中に演説会でも開く運動をしてくれんか』
 かつ子が起上ってきたらしい。寝巻姿のまゝ縁を伝うて便所の方に走って行く。勇は、義父の昂奮した様子には無頓着な節度で漬物の鉢を水屋から持って来た。そして、固く沈黙して義父の方には振り向きもしなかった。
『実際、こんなことがあると、御手洗町は全滅してしまふよ。大勢県庁にでも押かけんと、どんなことになるやら解らんぞ。青年団のものを少し繰出してくれんかなア』
 義父が煽動的に示威運動をやらうといひ出したけれども、勇は冷静な態度を装うて、なほも続けて飯をぱくついた。それで大五郎は、少しいらいらしたと見えて、勇に催促した。
『勇、お前は賛成せんのか』
 それで、勇は仕方なしに口を開いた。
『私は禁漁区、大賛成です。私はこの方針があまり遅かったことを
悲しんでゐる位なんです。この間も和歌山県の水産試験所の技師が視察に来ていってましたがね。和歌山県でもこの際思ひ切って禁漁区を設けなければ、魚が全滅して、こゝ数年のうちに漁師全体が困るやうなことになるだらうといってゐました。何でも和歌山県では、雑賀崎から箕島あたりまで、沖合三哩位の区域を禁漁区域にすればいゝといふ考が、識者の開に輿論として起つてゐるさうです。もう既に雑賀崎の漁民などは。魚がとれないので、小さい船を操って、北は北海道から南は九州あたりまで出てゐるらしいですなア、ですから、広島県の漁師もどんどん外海に乗出して行って、玄海から西へ西へ発展してゆけばいいんだと私は思ふんですがね』
『大きいことをいふな、勇、この内海の漁師遠洋漁業をせいといったって、そりゃ無理だよ、第一網から買はなくちゃならんからな。いままで使ってゐた「もじ網」(目が細いのでどんな小さな魚でもとれる内海に発達した網)を捨てることが早や大きな経済上の打撃だ」
『しかし当局だって全く盲ぢゃあるまいし、漁民の為を思へばこそ、禁漁区域を設定しようといふのだから、数千人の漁民が困ることを知ってゐながら、無茶をしやしませんよ。たとひ多少不便であっても、この際禁漁区域設定に賛成して、魚介の増殖をはかった方がいゝと思ひますね。蝦などは忽ち殖えますよ。たゞの一年だけ辛抱して少し遠い処へ漁りに行くだけでも、非常な違ひになると思ひますなア』
『さうするとお前は、あくまでもわしの意見に反対か』
『まあ、さうですなア』
 さういふが早いか。短気な大五郎は、
『この親不孝者が、何を朝からべちゃくちゃ、父に向って反抗するのだ!』
 さういふなり、板間に腰かけてゐた勇の処までやって来て、彼の持ってゐた茶碗をたゝき落し、左の頬ぺたを右手で思ひきり激しく殴り付けた。
 その時もしも、勇が、ヴィッケル船長のことを思ひ出さなかったら、恐らく彼は義理の父に反抗してゐたであらう。
『悪に敵すること勿れ、善をもて悪に勝て』といったやうな文句を、曾て御手洗の海岸の福音丸の上で聞いたことを彼は思ひ出した。それで彼は、別にキリスト教の信者といふのではないけれども、ぐうっとその言葉が心身に徹してゐたので、義理の父に打たれても柔順にしてゐた。昂奮した大五郎は、自分の行為があまり極端だったことを恥かしく思ったが、それを弁護するために、更に第二の行動に移った。彼はつかつかと奥の間に入り、辰巳屋から来た手紙を持ってきて、
『この間お前はわしが渡した金から十円すり取っただらうが、これを見い、これを』
 さういって父は辰巳屋の受取書を彼の目の前につきっけた。その時、勇は、ごく落着いて静かに答へた。
『あの時には、油を買ふ金を持ってゆかなかったものですから、ついあの中から差引いたのでした』
『嘘をつけ、嘘を。ちゃんとわしは調べてゐるぞ。油屋から二円五十銭の請求書がきてるぢゃないか。別に。嘘つきめが、あの十円は何に使ったんだ、おい』