海豹の13 悲恋悲歌

  悲恋悲歌

 船に帰ると、万龍は、エンジンから発散するガスに酔うて、ずゐぶん苦しんでゐた。それでまた薬屋へ飛んで行って、仁丹を買うてきたりして少からず手間どった。然し、船が美しい尾道港を出て、高根島の沖を廻る頃になると、彼女は頗る元気づいて、また操舵室に坐り込み、小声で歌をうたひ出した。
 『船頭可愛や
  音戸の瀬戸
  一丈五尺の櫓がしわる』
『おい古くさい唄をうたふなア、近頃発動機船で行くから、しわる櫓がついて居らんぞ』
『それぢゃもう少し変った唄をうたひまひよか、
 沖の大船なア
 いそばたで
 三十三反の帆を巻き上げて
 おも舵 とり舵 ゆきやられ
 向ふの島から
 女郎衆が出て来て招くやら
 ……』
 そこまで歌った時に、大きな魚が一尺ばかり海面に蹴り出でて、また何処かに消え去ってしまった。
『ちょいと、ねえ旦那、今夜わたい七夕の晩やったこと忘れてゐましてん、今夜は天河で牽牛(うしかひ)さまと繊女(をりひめ)さまがお会ひになる晩でっしやる、ほんまに会ふんでっしやるかな、えらい、天にも面白いことがおまんなア』
『事実ぢゃないさ、天文の話をさう教へただけのことさ。来る時は見えとっだがなア、もう曇っちやったなア、アルタイルといふお星さまとヴェガといふ名のついてゐるお星様が近くなって見えるといふことをいふのさ』
『おほほゝゝゝ、えらいむつかしおまんな、わたいはあき盲だすよってに、どの星がどれやらさっぱりわかりやしまへん。しかし今夜は美しいしづかな晩だなア。わたい、今夜心中がしたうなりましたわ』
『あははゝゝゝ馬鹿をいへ』
『ほんとだんがいな、するなら今夜のやうな晩に、二人だけでぽかーんと海の中へ飛込んだら気持がよろしうおまっしやろなア。心中しまひょか、旦那」
『まあひとりでせい、一人で。俺はまだ死ぬのはいやぢゃ』
 さういふと、今まではしゃいでゐた万龍は急に赤い長襦袢の袂を歯でかみ始めた。あまり彼女の態度が急変するので、勇は尋ねてみた。
『どうしたんだい?』
『いえ、ねえ且那、済まんことしとりまんね。今日、今日はねえ、
私のほんまに仲の好かったお姐さんが、お客と二人で去年、大阪の築港で心中しやはりました晩なんだす。それを私はそのお姐さんの命日を一生忘れないつもりでゐたんだすけれど、すっかり忘れとりましたんだす。その方は誰も祀ってあげる人がおまへんよってに、私がお位牌を木ノ江まで持ってきて、朝夕お祀りしてるんだんがいな。その大事な仏さまをお祀りしないで、今日はすっかりいゝ気になって、お線香の一本も立ててあげなかったと思うて、口惜しうて仕方がないんだす}
 そのいってゐることが如何にも尤もらしいので、勇は、花柳界に沈んでゐる女にも、義理を重んじる美しい心があると思って嬉しかった。そして、日本の若い多くの青年が、暗い封鎖された家庭から解放されて、かうした自由な女に近付きたがるはずだとしみじみと考へさせられた。然し、また一面から考へてみれば、玄人の女は上手な誘惑法をとると思って、感心させられるのであった。
 女はしきって、木ノ江で遊んでゆかんかと奨めたけれども、来年一年青年団の仕事が残ってゐると思った彼は、五円札一枚だけ彼女に手渡して、彼女と木ノ江の浜で別れた。
『お客さん。忘れないで頂戴ね、お願ひしますよ』
 さういって、磯辺に下りた万龍は、浜に立ってゐた仲間の芸者に、
『あの人ほんとにいゝ方やよ。わたい、あの船を下りるの厭だしたわ』
 さう小声にいうてゐるのが聞えた。すると、声帯の破払だ左褄(ひだりづま)をとってゐる一人の芸者が、浜から勇に大声に叫んだ。
『旦那、万龍さんは、あなたの船を下りるのいやだといっとりまっせ。いっそのこと今夜御手洗まで積んで行ってやりなはれ。おほほほゝゝゝ』
 声は奥深く入江になってゐる静かな海面にこだまして、厭なほど澄みきっだ内海の空気を震動させた。沖から五艘七艘と、芸者を積んだ屋形船が、あかるい光をつけて帰ってくる。いくら瀬戸内海でも有名な遊女の港とはいへ、さう大っぴらに大声で布れ廻られてはたまったもんぢゃないと思った勇はわざと発動機の爆音を大きくして、女たちがもう怒鳴り立てぬやうに、けたゝましく出港した。磯には、ぼんやりした電燈の下に、美しい着物をきた女達が、大声で笑ひ興じてゐる光景が、なほ続いてゐた。