海豹の12 雄波雌波

  雄波雌波

『あなた一体何処で生れたの?』
 さう尋ねると、彼女は甘ったるい口調で、
『いやゝわ船長さん、こんな稼業してゐる者に、戸籍調べするものぢゃありまへんよ』
 さういって彼女は。左腕を彼の肩にかけたまゝ坐り直した。
『船長さん、それよりか、この船は何処の船だす、御手洗の船だす
なア、ちがひまっか』
『うム、まあそれ位の処だらう』
『知ってますぜ、船長さん、あなたは、水産会長の御養子さんだっしゃる』
 さういはれて、勇はびっくりした。悪いことは出来ないものだと彼は、今更ながら自分の不明を恥ぢた。
『どうしてお前はそれを知っとる?』
 彼は、彼女のくれたシガレットを燻(くす)ばらせながら、さう尋ねた。
『そら、わたい、ちゃんと、そんなこと位心得てゐますわ、……わたいなア、あなたを小さい時から知っとりまっせ。学校が同じぢゃったたもの。あなた卯之助さんの娘を知ってだっしゃろ、わたいなア。あの子の同級だすわ、今あの子も木ノ江に来てゐやはりまっせ』
 それを聞いて勇は少からず驚いた。
『すると君は何か、君は御手洗の小学校を僕より三年下だったんだね』
『さうです、さうです、わたい、あなたに号令かけてもらって、天満神社に参拝したことを覚えてまっせ。さっきな、わたいをな、この船に連れてきてくれた船頭さんが、この船は御手洗の水産会長のうちの船や、さういやはりましたけれど、なんだか、あなたに見覚えがあるやうに思ひまして、おなつかしう思ひましたわ』
 さういはれて勇は悪い気もしなかった。上手なことをいふと思って、大声で笑った。
『うまいことをいふなア、君は』
『旦那はんはしかし、わたいを覚えとってやおまへんやろ』
『忘れたね』
『いふとすぐ思出してやけど、わたい恥かしいよって、いはんときますわ。小五郎さんのお宅へも、一、二度行ったことおますんやぜ』
『ふム』
 女は、左腕を勇の頸から離して、帯の間からニッケルのコパックトを取出して、蓋の裏についてゐる鏡に顔を映しながら、猫が顔を洗ふやうに、ベタベタやり出した。いかにもそれが猫によく似てゐるので、勇はくすくす笑ひ出した。その笑ひにつられて、海の女も笑ひ出した。
『且那はん、何がをかしうおまんの』
『そりゃ、お前、それをいふちゃあ、君が怒るよ』
『怒りまっかいな、わたい知っとりますわ、わたいが白粉を塗るのが、をかしいんだっしゃろ。こりゃわたいの商売だすよってに、堪忍しておくれやすや』
 またコンパクトをしまって、こんどは右腕に抱付いた。
 空には星が瞬いてゐた。霞が消えて、その後に黒ずんだ本島の山影が見えた。ガソリン・エンヂンの運転する響が聞える。船は勇ましく波を切り分けて走る。
『いつから、あなたは芸者になってゐるの?』
 勇は物珍しげに尋ねた。
『わたいだっかいな』
 勇の咥へてゐた煙草を彼の唇から奪ひとって、一口吸うて、すぐ
煙を吐き出した彼女は早口にいうた。
『わたい十七の時に売られましたんや。ついこの間うちまで、大阪の新町にゐましたんやけど、うちもの親父さんがなア。お金が要るんでな、網が買へまへんやろ、それでなア、わたい厭やけど、木ノ江に帰って来ましたんや、身受けしてやろというてくりやはりましたいゝ旦那もありましたけどなア、お父さんがきゝやはりやしまへんのやわ、受出されたら、それきりになりまっしやろ、それで、わたいも親孝行しなけりやなりまへんさかい、犠牲になりましてん。木ノ江の方は大阪の出張所のやうになっとりますんね、うちのお父さんは、お酒が好きだすよってにな、漁が少い上に、漁で儲けたものもすっかり飲まはりまっしやろ、お母さんが違ひまっさかいなア。わたいは、家に居っても面白うおまへんさかい。うちへもあまり帰りやしまへんのやわ』
 それだけいうたけれども、どうしても彼女は、自分の本名を名乗らなかった。そのうち船は、ピラミッド型の高い山の聳えてゐる高根島を前方に認めた。
『あれはもう高根島だんなア? こん夜もまたお茶っぴきかなア』
 そんな言柴を初めて聞く勇には、その意味が解らなかった。
『あなたのやうに。人の話ばかり聞いて少しもお線香たいてやくれまへんさかい。今夜も白粉代だけ損しますわ』
『なに、そんな心配要らんさ、おれは今夜遊んだつもりで。君に尾道へ往復の間の線香をたいてやるさ』
 その言葉に海の女は安心したらしかった。
『まだ名刺も差上げませんでした、わたい万龍と申しますさかい、以後御贔屓(ひいき)にしておくれやすや』
 話を綜合して、万龍が数年前卯之助の近所に住んでゐた漁師の娘であることは解ったが、同じ御手洗でも字(あざ)が違ふと、組も違ふためにどうしても、彼女の父を勇は思ひ出すことが出来なかった。
 船は尾道についた。勇が用事を済ませてくる間、彼女は船の底に匿れて待ってゐるといひ張った。そして勇も彼の名誉のためにその方がよかったので、機関部の後の狭いダンブルの下へ彼女を忍ばせた。
 浜から上って、中学校の下の一般には辰巳屋で知れてゐる、今井音松といふ高利貸の金融業者の処にくるまで、勇は女と金とのことばかり考へてゐた。それは女に、尾道までの往復の線香をたいてやるといったものの、そんなことを予期しなかっただけに、余分な金を持って来なかった。それで、義理の父から預けられた金の中から、五円でも十円でも差引いて先方に手渡さなければならなかった。他にいろいろと方法を考へたけれども、魚市場の仲買店は、夜が遅いので閉ってゐるし、それに金の五円や十円のことを頼みに行かれる義理ではなし、彼は決心して、持ってきた二百五十円の中から十円だけ引抜いて、先方へ手渡すことにした。
 幸ひ、辰巳屋へ行った時に、玄関も暗く主人公も居らず。訳のわからぬ女中が出て来て、出しただけの金を受取ってくれたので、辰巳屋の妻君からそれだけの受取証を貰って、つうっと帰ってきた。幸か、不幸か、丁度油も切れてゐたので、義理の父へのいひ訳が出来た。つまり油をそれだけの金で買うたといへば、それで表面はつくろへると彼は考へた。然し、石油腹一杯を買ふだけの金は持ってゐなかった。で、そこでは通帳につけて貰ふことにした。細い注意のとゞく村上勇は、その帰り途、煙草屋によって、敷島一袋で十円札をくづし、そのまゝ船に帰った。