海豹の11 海の魔女

  海の魔女

 海に帰ると気が晴々した。今夜は月さへ白く大空に輝いてゐた。実際かつ子さへ承諾してくれさへすれば、あのにくたらしい義母のみつ子と離れて、一生五。六噸級の小さい発動機船で夫婦が暮せれば面白いなアとも考へた。――いや、瀬戸内海にはまだく沢山の無人島がある。その無人島に行って、かつ子と二人で送るのも面白いと考へた。然しかつ子の白粉を一週間おき位に尾道から仕入れて来なければならないのも困ったものだと彼は考へた。赤い灯、青い灯をつけて、伊予高浜へ行く大型の汽船が走る。その後からまた小型の発動機船が走る、七夕のためか漁船は一般も見えない。大三島にかゝった、国幣大社大山祗(ずみ)神社御卵神燈が仄かに見える。木ノ江の町に灯ってゐる電気燈が、珠をちりばめたやうに光る。石炭船が沢山碇泊信号の燈をともして錨を下してゐる。今夜は、七夕祭だけあって、芸者を積んだ船が特別に沢山目にっく。発動機の音を聞いて、勇の操縦してゐる船にも、一般の屋形船が接近してきた。盛装した芸者が一人乗ってゐる。船の進路の貞正面にもっていって、屋形船の横っ腹をそらせた。吃驚した勇は、急カーブでその船を避けた。すると。美しいソプラノ声で、
『船長さん、頼む!』
 と女の声で右舷に女が飛乗ってきた様子だった。『大胆なことをするなア』と流石の勇もたまげてゐた。急カーブをきった勇はいそいでゐるので、屋形船が闇に消えるとともに、また進路を向け直して尾道へと急いだ。艫(とも)の方に確か屋形船にゐた芸者が乗込んだらしい。
『うるさいなア――』さう考へたがどうしたことか、芸者はなかなか船長室までゃって来なかった。『さてはダンブルの中に水夫でも居るかと探して居るのだらう。一人運転してゐるとは思ってゐないらしい』そんなことを考へながら。勇は平気な顔をして船の舳先を見っめてゐた。すると、操舵室の右舷の方からドアを開けて入って来る女があった。
『ははゝゝゝゝ、船長さん、誰も居やはらしまへんなア。あなた一人だっかいな。私が舵取ったりまほか、ダンブルを探したけれども、誰も人が居つてやおまへんなア、この船には機関士といふのが居らしまへんのか』
 言葉訛でその女が大阪から廻ってきた芸者であるといふことを、彼はすぐ感付いた。手には、沖がかりの船を目懸けてくるには珍しく、ちゃんと桐の三味線箱を待ち、身には肌まで透きとほるやうな相当な絹のきものを着てゐた。そして帯は、派手な刺繍(より)の入った――走って来る船に飛込んで来る女には相応しくないやうな帯を〆めてゐた。
 顔はと見ると、これまた海まで出て来る女としては、めづらしい程すっきりした上品な輪廓を具へてゐた。目は二重瞼で眉が濃くひかれ、鼻筋の通った、口もとの何ともいへぬ優しみのある女であった。
『君は勇気はあるね、海が恐くないかね』
『ははゝゝゝ、これが私の商売だすぢゃないか、船頭さんは海に疲れてゐやはりまっしやら、慰めてあげまひよと思ひましてなア、放れ業をして見せてあげるんだす』
 さういふが早いか、その美しい芸者は、勇の握ってゐたハンドルを奪ひとって自分手に運転を始めた。
『私なア、船長はん、船玉さんにするといって、ずゐぶん私の髪の毛をきってくれと、おっしやいましてなア、私の髪の毛をきって上げましたよ。あなたにも上げまひよか』
 さういった彼女にはたゞ単に人を愚弄するといったやうな様子は見えなかった。彼女はほんとうに船と脱頭を愛してゐるらしかった。ハンドルを譲った勇は、美人の傍に坐って、心ずしも気持が悪いとは思はなかった。これも海のローマンスの一つだと思って、多少痛快に考へないこともなかった。
『君は、どこで生れたんだね?』
 さう勇は、彼女の美しい口許を見つめながら尋ねた。

  薄暮海潮音

 クラッチを片手に持ち、片手に舵のハンドルを握った勇の肩から
肩先へ、真綿のやうに柔かな頬ぺたを、左褄をとった女がよせかけた。彼女は唇を紅に染め、頸を白く塗り、香水をぷんぷんさせてゐた。

  日和(ひより)東風(こち)げぢゃ
  沖は白波ぢゃ
  殿御やらりよかあの中へ

  わしのショラさん
  岬の沖で
  波にゆられて鰹(かつお)つる

 彼女は、澄みきった調子の高い声で、ひとり足拍子に合せていゝ気になって船唄をうたった。それがいかにも哀調をおびて、彼の心にぴったり来たので、勇は別に彼女の寄り添うてくるのを振り落しもせず彼女のしたいがまゝにさせておいた。波が静かなので、大崎上島の上に輝いてゐる宵の明星が、海面に反射してダイヤモンドか何かのやうに、光った。遠くの方は薄く霞がかゝって、濃い紫の夜の空に白い模様を染め出したやうに見えた。
『船長さん、あなたこの唄知っとってか? 珍しい唄だっしゃろ、わたい昨夜習ひましてん。紀州の船頭さんに』
 さういひながら、彼女は、彼のポケットの中を探し始めた。
『――をかしいことをする女かおるものだなア、何を探してゐるんだらう。女海賊の真似でもするんぢゃないか』
 とも思ったが、――この馴れなれしいカナリヤが、刀を振上げてきても、とっつかまへて海の中に放り込むことは何でもないと思った勇は、ポケットを自由に探さした。さうしてゐると、彼女は何か特別の物忘れでもしたかのやうに、自分の懐の中を探したり、帯の中に手をつっ込んだり、長い袂を裏返したり、ずゐぶん大騒動して、無言の儘何物かを尋ねてゐた。あまり大げさな探し方をするので、勇は初めて彼女に言葉をかけた。
『何をしてゐるの? 何を一体たづねてゐるの?』
 さう親切に言葉をかけたが、彼女は、振向きもしないで、船長室の床の上を二つの大きな涼しい瞳で探しまはってゐた。
『大事なくものを失ったのよ、巻煙草だけは持っとりますんやけれど、今のさき持ってゐたマッチの箱を何処かに落してきましたよって、それを探して居りまんね』
『何だ、マッチの箱を探してゐるのか、僕はまた紙入れでも君が落したかしらと思って、心配したよ。マッチなら機関室の棚の上にあるから、それを持って来給へ。気をつけないと着物に油がつくぞ』
 彼女は出て行った。そして今度帰ってきた時には、赤い唇に金口のついた白い巻煙草を脚へてゐた。
『この機関室には、誰も人が居りやしまへんのか、えらいこの船は便利な船だんなア』
 さう尋ねられたけれども、勇はそれに対しても返事をしなかった。彼は相変らず船の舳先の前方を見つめて、女に相手にならうとはしなかった。すると女もさるもの、吸ひかけた煙草を彼の傍に持って来て、彼の口にねぢ込んだ。まんざらきらひな煙草でもないし、金口のついたシガレットは彼に珍しくもあるし、勇もそれを拒
絶しなかつた。然し、両手でハンドルを握ってみると、口の中のシガレットが落ちさうになるので、彼は唇の間からシガレットを左手の指の問に挾みとった。
『船長さん、何処へ行ってだんの? えらいスピード出してまんな。何処かの島蔭に船を着けて、気晴しなすったらどうだす。三味線も持ってきてゐますさかい。御希望でしたら弾きますよってに』
『この不景気に、君は暢気なことをいふなア』
『あんなことをいうてゐやはる、わたいしってまっせ、あんたはずゐぶん、お金を持ってゐやはりまっしやないか、内懐がふくらんでゐまっせ、おほほゝゝゝ』
 海の人は寛容でなければならぬといつも漁師仲間に教へられてゐる勇は、勝手に船に乗込み、勝手な振舞ひをする木ノ江の沖芸者が、船の進航を邪魔するので、面倒臭い奴だと思はないこともなかったが、また馴れなれしく彼の懐に飛込んできてくれた、その痛ましい彼女の半生を思うて、少からず同情の思ひに心が動かされた。そして勇はすぐ彼女と妻のかつ子とを比較して考へた。かつ子は暗く、彼女は非常に明るい。かつ子は彼の愛を要求し、彼女は彼に愛を押売りせんと凡ゆる苦心をしてゐる。そして彼女が相当に美しい若い女性であるだけ……かつ子より四つも五つも年下らしく、さうした海の女性にはめづらしい、若々しい皮膚を保存してゐる。情欲の焔がが、勇の胸のうちに燃えないことはなかった。『いっそ。高利貸に渡す金をすっかり木ノ江に持って行って、彼女を受出して高飛びしようか』そんな悪魔の囁きが聞えないでもなかった。然し、さうするには、青年団団長としての彼の名誉心がゆるさなかった。
『然し、船は沖合に居るし、知ってゐる者は誰もないし、女と自分さへ堅い約束を守って、すべてを秘密にすれば、天から見ていらっしやる神の他は誰も知らないことだ。ついでに遊んでしまはうか。船を「鮴(めばる)」の岩蔭にでも繋いで、暗い人生の悩みを、二人で語り明さうか……いや、いや、さうするには、己の理想が高過ぎる……理想は理想だ、現実は現実だ。女の柔かい腕の美しい曲線を見るがいい、かつ子とちかって彼女は、若者を魅するやうな腰のふくらみを持ってゐる。青春の血の躍る時に躍らさなければ、人生に春といふものは要らないぢゃないか』
 血相を変へて考へ込んでゐる勇を見た若い海の女は、彼にしなりかかって右腕をさし伸べ、勇に抱き付いてきた。然し、勇は機関を止めようともしなければ、また舵も放さなかった。彼女のきものにつけてゐる香水がぷんぷんと匂うてくる。二つの乳の柔かいふくらみと、気持のよい体温が、彼の右の上腿部に感じられる。その時彼は、落着いた口調で彼女に尋ねた。