海豹の10 夢! 夢! 夢!

  夢! 夢! 夢!

 勇は、自分に子が生れた場合、ヴィッケル船長のやうに、デッキの上で子供を育てる勇気があるかどうかを考へてみた。そして、その勇気のないことを今更ながら恥入るのであった。こんな処をかつ子に見せてやらなくてはならぬと思った彼は、自宅に飛んで帰った。そして、今し方風呂から上って、顔に白粉をべたべたに塗って
ゐた。かつ子の処にいっていうた。
『かつ子さん、あなたに見せたいものがあるからついていらっしゃい』
 鏡に覗き込んだかつ子は、鼻の先を鏡の中でみつめたり、二つの眉を上に吊り上げたりして、返事さへ碌々しなかった。やっと厚化粧のすんだ’かつ子は、
『いやよ、私、すぐに出て行かりゃしないわ、何を見せて下さるの、活動写真?』
 さういって彼女は、細帯を幾筋も身休にまき付けて、大きな帯をくるくる身体に〆めた。
『駄目だなア、そんな不便な帯を〆めてゐちゃあ。遠洋航海にも夫婦で出らりゃしないなア』
『えツ? 遠洋航海? 無用だわ、女には』
『そんなことがあるものか、日本武尊のお妃様の弟橘媛は御東征を一緒にせられて、尊を助けるためには海の中に飛込まれたではないか。昔の女は強かったんだよ。恐らく天照大神さまも、お船に乗り廻られた強い御方だったらうと僕は思ふね。お宮が今日伊勢湾のほとりにあることを見ても、そのことを想像するに難くないね。御手洗島に来られた神功皇后だってさうぢゃないか』
 何げなしに煙草に火をつけながらさういった勇が、ふと箪笥の前に立ったまゝ竦んでゐるかつ子を見ると、かつ子が泣きじゃくりしてゐるのに気が付いた。
『おい、かつ子さん。行かうよ』
 さう促したが、かつ子は身動きもしない。ちゃうど、運悪く、そこへ義母のみつ子が出て来た。
『かつ子、お前はなんで泣いてゐるの?』
 義母はさういひ乍ら、勇とかつ子のちょうど中間に坐り込んでしまった。それで勇も、今まで立ってゐたけれども、そこへあぐらかいて坐りこんだ。
『うちの娘をあまり苛めないで下さいよ』
 義母のみつ子は、眉毛を吊上げて、頬ぺたの筋肉を震はせながら甲高い声で、勇を怒鳴りっけた。さういはれてみると、かへって勇も度胸が坐って、結婚してから初めて義理の母に反抗してみる気になった。
『お母さんは、私がかつ子に何をいったか少しもお聞きにならないで、私だけをお責めになるのは無理ですよ。私は何もかつ子を苛めやしませんよ。私はたゞ遠洋航海に夫婦で行かれるやうになりたいなア、といっただけなんですよ』
『そんな無理いったって、若い娘が沖になぞ出られるものぢゃないよ。それを苛めるといふのですよ』
 義母の口の悪いことをよく知ってゐる勇は、頬ぺたでも殴り飛ばして里に帰って行かうかと思ったけれども、今し方聞いてきたヴィッケル船長の話を思ひ出して、また心を静めた。
『あなたは生れつきの漁師の子ぢゃけれども、うちのかつ子は一人で表にさへ出しかことがないのですからねえ、漁師の仲間の娘と一緒にせられちゃあ困りますよ』
 義母はかけてゐた銀縁の眼鏡を外しながらそんなことをいった。彼女は漁師の子といふことを余程侮辱のつもりでいってゐるらし
い。かうした観念が海国日本を萎縮せしめるのだとは知りながらも、家庭の平和のために勇は、沈黙を守ることにした。勇は今更ながら間違った結婚をしたといふことを心から後悔した。父小五郎の
『勇、海へ行け、勇、海へ行け』といふ遺言を堅く守って、御手洗島の漁民の窮乏を救ふために、そしてまた父の借財を整理するために、あまり望まない結婚をしたのであったが、今となっては、余りにも人の力に頼り過ぎた違算のあったことを後悔するのであった。勇は、うつ向いて黙って泣いてゐた。彼は頭の中で、怒濤を乗切って、カリフォルニヤからメキシコの沖まで遠洋漁業に出かけてゐる兄一郎の勇しい姿を幻の中に描くのであった。一生漁師で終るならこんな、溜池のやうな瀬戸内海でいびり殺されて死ぬるより、広いく太平洋に乗り出て、海洋を征服したいと、熱情に燃ゆるのであった。
 勇が黙つてゐると、ロぎたない義母は、続けざまに悪口をきくのであった。
『うちもお前さんを貰うたのはいゝけれども、小五郎さんの借金まで背負ひ込んだので、それを払ふのにずゐぶん困っとるんだから、お前さんも精出して家が平和にをさまるやうにしてくれんと困るねえ』
 さうぃってゐる処へ父の大五郎が表から帰って来た。そして玄関口に立って、
『勇! 大至急、尾道までこの金を持って行ってくれんか、二百五十円円人っとるからなア、この中に、例の今井なア――それは勇の父の小五郎が発動機船を製造するときに金を融通して貰った高利貸の今井を意味してゐた――あすこへこれを持って行ってくれ、約束手形の期限が切れるので、今夜中に持って行かんと差押へするといって大騒ぎしてゐるから至急頼む』
 それはまた何といふ福音だったらう。勇はすぐ立上って、状袋に入った金子を受取り、すぐ浜に飛出して、自分手に発動機をかけ、自分手に運転して尾道に飛ばすことにした。