海豹の如く1

  海豹の如く

   序
 海が我々を呼ぶ。血潮が我々をさし招く。鰹と、鯨と、海豹(あざらし)が、豊葦原の子を差招く。おゝ、大陸が我々を見棄てゝもい、陸地の二倍半も広い海洋が、我々を待ってゐる。日本男子は、波濤を恐れることを知らない筈だ。因幡の兎は、鰐の頭を踏んで、日本に飛んで来た。我々は、太平洋を鯨の牧場となし、日本海支那海を鯛と鰊の養魚池として考へる。
 我々の祖先は海から来た。然し、今の日本人は、その出生地を忘
れようとしてゐる。漁民は嘆き、漁村は頽(すた)れ、海を慴(おそれ)る者が、日々数を増してゆく。彼等を救ふものは日本を救ふ。海は日本の城壁であり、海は日本の大路である。海を理解することなくして、日本の運命は打開出来ない。
 我々は、山を相続しなくとも、海を相続する使命を持ってゐる。それで、私は、日本の若き子等のために、海について自覚すべきことを、この書に書き綴った。日本の議会も。田園も、都会も海の人
に対して頗る冷淡である。殊に貧しき海の労働者に対して、日本国民が与へてゐる注意は、まことにさゝやかである。そのために、今最も悩んでゐる者は、日夜、波濤と闘ってゐる海の人々である。
 帽子を取って、彼等に最敬礼をなすべき処を、我々は、かへって彼等に、貧乏と、失業とをもって報いてゐる。然し、私は、海を忘れることが出来ない。黒潮は、私に、この書を書くことを命じた。
 太平洋は我々を招く。海豹の呼び声に、我々は呼応して、新日本の黎明を、海洋の真只中に仰がねばならぬ。日本の光栄ある海の歴史を、忘れる者は忘れよ。私は日本をして、永久に、海の寵児であらしめるために、謹んで、この書を海国日本に捧げる。     (一九三三・五)