海豹の25 颱風の中を行く

  颱風の中を行く

『大将! もうこれぢゃあ、危いから流しませうや』
 さういったけれども、勇は、ハンドルを捉へて、返事もしなかった。
『大将、代りませうか?』
 卯之助は、もう一度勇の疲労を察して言葉をかけた。晩方から四時間以上も操舵機を握り続けてゐた勇は、便所に行きたかったので、卯之助に代ってもらった。
『方向は解らなくともいゝからなア、風の奉公とは一点四分の三に舵をとってくれ!』
 さういひ捨てて、這ふやうに艫に廻った勇は、ロープとワイヤーにすがり付いて不浄をすませた。しかし、その時どうした拍子であったか、船はうねりと並行し、濤の頂上が砕けて、『ケーシング』の上に、怖ろしい勢で落ちかゝってきた。屋形と機関室の中で悲鳴が上った。機関はぱったり止った。その瞬間、勇はもう沈没したものだと思った。船は左舷に傾いたまゝ谷底にでも吸込まれるやうな勢で、数十間ほど下に落ちた。そしてもうそのまゝ浮上って来ないのぢゃないかと勇には思はれた。
『しまった! 可愛い同志を殺してしまったか! これだから人に操舵機は波されない』
 さう思ってゐた瞬間、船は不思議にまた谷底から浮上ってきた。
『やれ、やれ、安心した』
 と思ってゐる瞬間、船はまた、きりきりっと濤の絶頂で一度、まひまひっこをして、濤の頂上が砕けるとともに、谷底目がけて落込んで行った。思はず勇は、そこに準備してあった綱でくゝられたロープの一巻を海の中へ放り込んだ。それは、かうした時に、船が濤の谷底へ顛落する速力をゆるめるためであった。勇はこれまで、多くの漁船が大きな暴風雨に遭って、加速度的に濤に吸込まれた儘沈没してしまった話を度々聞いてゐた。それで彼は、かうした方法をとったのであった。ロープの一束を綱につけて放り込むと、船はそんなに激しく落込まなくなった。それで彼はまた這ひながら操舵室に辿り付いて、
『船を流すから!』
 と卯之助の耳に囁き、自分はまた操舵機を取上げた。平素濤に強い勇も、かうローリングが激しくなると、船よひを感じて気持が悪かった。しかし任務上彼は、死すとも操舵機は放さないつもりでゐた。さう頑張って、直立したまゝ舵を取らうと思っても、中心がとれないためよろめいて気分が悪くなったので、彼は手拭を啣(くわ)へたまゝ前方を見つめた。その間に卯之助は勇敢にも、船首の方に飛出し、百四十尋の綱の先に、二十五貫の錨をつけてまづ放り込み、百四十尋みな入れてしまふと、八貫の錨のついた六十尋の綱を更に流し、六十尋をみな出してしまふと、更に六十尋の綱をつないで、それに八貫の錨を重しに付けて、おも舵(右舷)の方に入れた。風が激しいので、錨綱が一直線になり、二十五貰と八貫と八貫、合計四十一貫の重い錨が、まるで浮標のやうに、水面に表れて流れるやうに見えた。ほかの者がみんな弱り果てて、屋形の中で唸ってゐるに拘らず、勇おもひの卯之助がたゞ一人甲板の上を右から左へ、左から右へと、荒れ狂ふ怒濤も怖れないで、ひとり雄々しく働いてくれる姿を見た時、勇は、その小さき英雄の姿に感謝せずには居られなかった。濤は唸りを立てて甲板上に砕け、風は丑の刻詣りに唱へる呪文でもあるかのやうに物凄い囁きの声を帆檣の上から勇の頭上に浴びせかけた。彼の肩は、石の塊を二つ頚筋に括り付けたやうに剛(こわ)ばって、彼が操舵機をまっすぐに保って濤を乗り切らうと努力する彼の両手を鉄のやうに硬直させた。弱い心が胸の底で悲鳴をあげる。
『もう海に来るなよ。こんな怖ろしい商売をしても、月に五十円とはならないのだから、むしろ陸によって小学校の先生にでもなれよ』
 そんな弱音が、船首を見つめてゐる勇の意志を砕く。その時、彼に、操舵室の硝子窓の向ふに父の顔が覗くやうに見えた。
『勇! しっかりしろ! 日本は海に囲まれてゐるのだ。暴風雨が恐ろしいやうなことで、どうして海に出られるか……』
 さういって彼をたしなめるやうに聞えた。彼は疲れて、瞬間的に夢を見てゐたのであった。
 その時機関宮から、油さしの鈴木伝次郎が、顔一杯涙に濡らして操舵室に入ってきた。
『船長! 機関室は水で一杯です。どうするんですか? もう沈没するなら沈没するといって下さい。みんな板でも抱いて海の中へ飛込みますから。また、がぷんとやられて、その儘沈没するんぢゃあつまらぬから、早く諦めをつけるなら付けて下さいよ』
 さういひながら彼は、雨に濡れた菜葉服で涙を拭いた。
 それを見て、勇は可哀さうになり、
「鈴木。しっかりしろ! もう大丈夫だい。錨も三本入れたし。艫にはロープの巻いたやつを流してあるから船は沈みっこなしだ、安心して寝とれ! なに泣いとるんぢゃ!』
『なに、泣いとるって、船長。わたしには女房も子もあるんです』
『そんなこと解ってるわい』
『然し、船長、わかしは船乗りなんかいふものには、一生もうならんとかう思ってゐますね』
『ちえ、弱音を吐くな!』
『わたしはもう吐くものは吐いてしまうて、血が出ましてん。あまり苦しうおますよってに。海の中ヘいっそのこと飛込んでしまはうと思って、甲板の上へ上ってきましてん。沈没するなら沈没するで、あなたに覚悟さしてもらはうと思ってやって来ましてん』
 彼は操舵室の床板の上に倒れたまゝ勇の足許から、その長たらしい口上を述べた。その間も卯之助は、艫に廻って、帆で舵をとってゐるらしかった。
『悲観するなよ、もうこれより以上激しくならないから、低気圧の中心も余程北へ変ったやうだし、かうして船を流しとれば明日の朝あたり凪(な)ぐよ』
 さうはいうたものの風はなかなか静まらなかった。東は、だんだん白んできた。東雲は朱を注いだやうに水平線を染めて、薄気味の悪い暴風雨の後の日の出を告げた。しかし、それも瞬く間に雲に蔽はれてしまった。幸ひなことには、雨はもう降り止んだ。たゞ濤が高い。高さ六、七間もあらうと思はれる大きな濤が、小山のやうに目の前に現れてきては勇をおびやかし、さうかと思ふとまた、船の後に消えて彼を安心させた。視覚の関係でもあらう、濤の底に居る時はあまり濤か大きいとは思はないが、次の濤の真中頃に乗せ上げられて、前方の濤を見ると、今にも頭の上にかぶさってくるやうに見えて、恐怖にわなないた。
 とうとう彼は、十八時間ぶっ通して、飯も食はず、水も飲まず操舵機を握り続けた。そして卯之助もまた合羽を着たまゝ帆を舵として操縦するに十八時間頑張り通した。
 朝の九時頃になって雲が切れ始めた。西が明るくなった。その時、卯之助は大声をあげて、屋形の中に倒れてゐる漁師達を呼醍ました。
『おい! みんな出て来い! 青空が見え出したぞ。もう安心せい!』
 さういったけれども、出てくるものは誰もなかった。しかし、まだ濤が高いので、勇は、船を流れる儘に任せた。然し、もう大丈夫なので、卯之助を呼んで、飯炊きに食事の準備をしろといひ付けた。
 濤の頂上で散った白い泡は、龍のやうな形をして大きな濤の上に広がり、その次の瞬間には亀の子形に散らばって行き、最後には、大理石のやうな模様を紺碧の濤の上に描いて、単調な海面を彩った。