海豹の26 六分儀を手にして

  六分儀を手にして

 古綿を詰めたやうに、物凄く黒ずんでゐた水平線が、玉葱の皮をむく如く、一皮々々むけて行き、窒息するやうな重苦しい空気が、さわやかな酸素の匂のする馨はしいものに変った。雲の間に大きな亀裂が入り、待ち焦がれてゐた太陽が、ちょっと顔を見せた。今こそ、と、勇は、六分儀(セキスタント)を取出して、天測を始めた。そして、其処が
略犬吠岬の東方四十浬(カイリ)の処だといふことを知った。
『おい! 卯之助やい! 小笠原島へ出て行くかと思ってゐたら、犬吠岬へ出てゐるぞ』
『あ、さうですか、犬吠からどれ位離れて居ります?』
『四十浬位のやうだなア』
『それで安心しました』
 濤はだんく低くなって、丸味がついてきた。波の頂点も白くならないで、たゞ船の走る処だけが白い泡になって、濤の肌の上に模様を残して行った。
 村上勇は、機関室で寝てゐた松原政之助に船の位置を知らせた。大きな平べったい顔をした松原は、上着の袖で眠たさうに目をこすり乍ら勇の顔も見ないでいうた。
『ぢゃあ、もうすぐ港に入れますな』
 さういってゐる処へ、艫に寝てゐた油さしの鈴木伝次郎がやって来た。
『犬吠岬が近いんですって? ぢゃあ、銚子に船を入れられますな。私は銚子へ度々来たことがあるから、水先案内が出来ますぜ。船長さんは。銚子の入口を知っとってやないでせう』
 彼は、昨夜吐いた胃液の斑点を、上着の処々にくっ付けてゐることも忘れて、上陸することを楽しみに機関室へ降りてきた。
『さうぢゃなア。銚子へ入れるといゝなア、そして今日は、ひとつ、一日骨休みするかな』
 さういってゐる処へ、卯之助が飛んできた。
『若! かぢきが居りますぜ、延繩を入れませうか? きっと鮪もとれると思ふがな!』
 さういふと、油さしの鈴木伝次郎は、眼を三角形にして卯之助を睨みつけた。
『無茶をいふな! 卯やん。今から入れたら、今夜港に入られへんがな』
『然し、おまへ、銚子に入れた処で、魚は一匹も漁ってやしないし、勝浦まで帰るのに燃料も買はんならんだらうし、漁をしとかんことにや、金が無いぢゃないか。魚が一番多くとれるのは、暴風雨の翌日だよ!』
 卯之助は、昨夜一睡も寝ないで、船と若い船長の身の上のことを案じて徹夜したに拘らず、まだ経済のことを考へて、延繩を入れようと主張した。そこへ漁師の広瀬和造が出てきた。頭にタオルを巻付けて、暴風雨が何処へ行ったかといふ顔をして、船端から機関室を覗いた。
『今日は食ふがなア、どうぢゃな一つ、奮発して延繩を入れんかなア、こんな時は魚も腹が減ってるから、うんと食ひ付くぞ!』
『無茶をいふな、広瀬さん、わたしは、もう昨夜弱ったんぢゃ。今日はこれから銚子へ船を入れて休ませてくれよ』
 油さしは。機関室からデッキの方を見上げて、猶も嘆願するやうに、軟論を主張した。機関士の松原も、余程銚子へ帰りたいと見えて、妙な理窟をつけた。
『鰹は朝は食ふけれど、鮪は朝はあまり漁れんぜ』
 それに対して、
『松原さん、大丈夫ですぜ。暴風雨の翌朝だけは食ふんだから、魚も腹が減っとるんでな、何でも食ひ付きよるんぢゃ』
 広瀬はさういひながら艫の方に廻った。
 手廻しのいゝ卯之助は、延繩の入った籠を表の船艙から取出して、甲板の上に並べ始めた。広瀬が艫の方で船室に寝てゐた漁師を呼起すと、今まで弱ってゐた四人の漁師が出てきた。第一に飛出してきたのは、シャツの上にちゃんちゃんを着た小林猪之助といふ高知生れの目の丸い男であった。その次に鉢巻して出てきたのは、石川五右衛門のやうな頭をした細眼の川端治介であった。その次に出てきたのは、いが栗頭の古屋熊楠であった。最後に出てきた男は、鼻の低い下顎骨の飛出した、一方の目の少し小さい鳥井岩楠であった。鳥井は艫に立って海の中へ小便をしながら、いが栗頭の古屋にいうた。
『わしはもうこれで三日も顔を洗はんのぢゃが。沖へ出てくると、人間も猫より下等ぢゃなア』
 古屋も立小便につられて、その傍に寄ってきた。そして彼もまた甲板の上から小便しながら。鳥井にいうた。
『遠洋航海に出たらなア、十日も二十日も顔を洗はぬことは、いつものことぢゃ。お前は、遠洋航海に出るのは今度が初めてだから、咋夜の暴風雨でも、えらかったらうなア。然し、あれ位の濤は、毎月二、三遍あると考へとらんといかんぞ」
 さういはれて。鳥井は片笑ひしながら、
『おどかすなよ』
『だってお前は、昨、夜通し、金比羅大権現、往古大明神、熊野の権現様、といって、大分弱ってゐたやうぢゃないか!』
 古屋にさう冷かされて、鳥井は、続けて苦笑ひしながら、
『危い時の神頼みといってなア、信心はしとくもんぢゃ。やっぱり御利益があったぢゃないか。今日はこんなに凪いでるぢゃないか!』
 さういつてゐる処へ、油さしの鈴木伝次郎がやって来て、
『おい。鳥井! 船長にいうて、今日は延繩を入れないで、まっすぐに銚子へ入れるやうに頼んでくれやい。俺はえらうて、やれんわい、お前も昨夜ずゐぶん弱つてゐたやうだったが、弱い者がいひ出さんと、また一日港に入るのか延びるぞ』
『…………』
 それに対して鳥井は何も答へなかった。たゞ人並に、頭に鉢巻を縮めて、表へ廻った。籠の脇に浮標が並べられた。卯之助は、疲れも見せずに、せっせと働き続ける。広瀬和造も、両舷の間を行ったり来たりして、延繩を入れる準備に忙しかった。延繩の準備が出来たので、油さしの鈴木は気が気ぢゃないらしい。機関士の松原に耳打に行った。
『松原さん! 駄目ぢゃ、 駄目ぢゃ! あの卯之助の野郎、一人で頑張りやがってもう延繩の準備しよったぜ』
 さういふと、また機関室の傍の棚の上で寝てゐた松原は、半分身体を起していうた。
『しやうがないなア』
 そのうちに卯之助は、どんどん延繩を海の中へ放り込み始めた。広瀬もそれを手伝って、浮標の上に旗をくっ付けるのに、忙しかった。低気圧が過ぎたとはいへ、濤はまだ相当に高かった。たゞ雲
は、密雲の間に亀裂が入ってゐたのが、大きく破れて、東へ東へ流れてゆくやうになった。

  機関の故障

 鈴木は機関室から頸を伸ばして、浮標が竹竿の上に、白と黒の旗を交互に支へて、もう四つほど放り込まれたのを見るや否や、頭をすっ込めて、機関士の松原に囁いた。そしてすぐ、スピンドルを止めてしまった。機関はぱったり止った。それでもまだ船は惰力で走った。鈴木は機関室の入口から顔を出して大声で叫んだ。
『船長! 船長さあん! 故障ですぜ!』
 船が走らなくなったので、広瀬が第一に機関室を覗きにきた。
『どうしたんぢゃ?』
 さういふと、油さしは、
『昨夜の濤でなア。パイプに少し亀裂が入ったと見えて。ガスが洩るんぢゃ』
 広瀬はその言葉を信じて、艫の方に立ってゐた卯之助の方へ歩み寄った。
『昨夜の暴風雨で、機関に故障が出来たといふんぢゃ。困ったなア
 怪しいと睨んだ村上勇は、操舵室を出てのこのこ機関室までやってきた。
『松原さん、どうしたんですか?』
 松原は、返事をしなかった。それで、村上は声を落して、ぼんやり其処に腰をかけてゐた鈴木に尋ねた。
『どうしたんぢゃ?』
 鈴木は、如何にもほんとらしく、エンヂンのあちらこちらを見廻しながら答へた。
『昨夜の暴風雨で、パイプが少しいたんだと見えましてなア、ガスがもるんです。危険ですから、機関を止めちゃったんですよ』
 勇は、機関室へ降りて行って、油さしが一人で騒いでゐるのが癪にさはったけれども、老人の松原に少からず気兼ねしてゐた彼は、責任ある答を機関士から聞かうと思ひ、松原の枕許まで行って、寝てゐた松原の肩に手をかけて尋ねた。
『松原さん、パイプの故障ってどこですか?』
 真面目に村上がさう尋ねると、松原は、脇腹を押へながら、とんちんかんの返事をした。
『私は、少し今朝腹が痛うございましてな……』
 それだけいうて、彼は何も答へなかった。それで、村上勇は、機闘士と油さしが合議の上で、悪戯をしてゐるといふことを推察した。さう思った彼は、マッチをとって、断然、自らスピンドルを開いて、エンヂンに火をつけた。まだ冷えきってゐないので、エンヂンはすぐ動き出した。それから彼は卯之助を呼んで、エンヂンの番をさせた。棚の上に寝てゐた松原は、機械のことは少しも知らないと思ってゐた若い船長が、自分手に火をつけて、自分が連れてきた忠実な家来を、エンヂン・ルームの番につけたので、ちょっとしょげてしまったやうであった。
『あッ、いたたゝゝ! あ、痛たゝゝゝ!』
 松原は、腹痛を訴へて、苦しんでゐるやうな唸きの声を上げた。然し、卯之助は、機関士の方には見向きもしないで。油さしが、悪戯をしないかと、機械の周囲を見守った。鈴木は、機関室の昇降口から、半分身体をつき出して。海の方をぼんやり見てゐた。投げ込んだ延繩の浮標が。浮いたり沈んだりする。
『早や、かゝりよったぞ! 紀州までの油が買へるぞ! 今日は縁起がいゝなア、ナンバー・ワンを逃すなよ』
 漁師の間に、最初喰ひ付いた魚を逃すと、縁起が悪いといふ迷信があるので、延縄の上にくっ付けた浮標が、竿の上にっけた旗と共に、海の底へ浮いたり沈んだりするのを見つめた広瀬和造は、また大声で叫んだ。
『あれをとりに行って来うか、繩を出すのはこゝで止めて置いて』
『それがよささうぢゃなア』
 さう答へたのは、頭の先の尖った、大きな眼玉の小林猪之助であった。それで、小林はすぐ操舵室へ飛んで行った。すると船は、方向転換して、百八十度の角度に向き直った。一旦伸べられた繩が、また船首に近く据ゑられたウインチによって手繰り上げられた。魚の引掛ってゐる浮標まできて、針にくっ付いてゐるのは、大きな本鮪であることがわかった。
『占めたなアー これぢゃから、漁師はやめられんて!』
 さう小林猪之助かいふと、
『海がこはいやうな男は、もうこれから沖に連れて来んやうにせんと不可んな、あの油さしは駄目だぞ』
 石川五右衛門のやうな恰好をしてゐる川端治介が、小林の方に向直り、捲上げられた綱をまるめて、籠の中に納めながらいうた。魚は勢よく跳ね廻ってゐたが、二十分位経って、大分弱ったので、ウインチで甲板の上に捲上げた。その時、卯之助も機関室から顔を出して、大声で怒鳴った。
『今日は縁起がいゝぞ! やはり、暴風雨の翌日はよく食ふなア』

  荒濤にもまれつゝ

 デッキの上に上げられた本鮪は、三十貰以上もあらうと思はれる大きなものであった。勇も嬉しかったので、操舵室から半分身体を出して、
『万歳!』
 と怒鳴った。船はまた船首を回した。そして、延繩は。ぐんぐん伸ばされた。それを見た油さしの鈴木は、もう辛抱が出来ないといふやうな表情を顔に現して、デッキの上に飛上ってきた。そして、延繩をやってゐる広瀬和造の手に組付いて、
『ちょっと待て! 延繩を入れないで、船を港につけるやうにせいよ! 松原さんが腹が痛いといって、うんうん唸ってるぢゃないか!』
 さういって、どうしても、広瀬の手を離さない。それを見た川端治介は、
『貴様、何してるんだ! 俺達の商売を邪魔すな? そこを放さなかったら、海の中へぷち込むぞ!』
 さういふなり、鈴木の、胸倉を捉へて、拳骨で、左耳の上を殴り付けた』
『なに! 俺を殴ったな、覚えとれ!』
 さういふなり。鈴木は、機関室から海軍ナイフを取り出してきて、それを逆手に持って、平気な顔をして、延繩に桐の浮標をくっ付けてゐた川端目懸けて、斬り付けようとした。それを見た広瀬は、後から抱付いて、
『こら! 鈴木、なにをするんぢゃ! 無茶をするな!』
 抱〆めてゐる処を、古屋が鈴木の手から海軍ナイフを奪ひ取った。鳥井は、その大騒動を操舵室に報告した。それで村上勇は、烏井に舵をとらせて、艫の方へやってきた。背後から両手を広瀬に抱〆められた鈴木伝次郎は、なほも、泰然とそこに坐り込み、相変らず平気な顔をして、桐の浮標を繩に付けてゐた川端を、足で蹴らうとしてゐたので。若い船長は、油さしの鈴木にいうた。
『おい、鈴木! 乱暴をすると許さんぞ。我々は漁で沖に出て来てるんだからなア。いくら海が暴れて、難航するやうなことがあっても、すぐに港へ入ることは出来ないんぢゃ』
『それ位のことは知ってゐますよ』
 鈴木は。口を尖らしながら、顎をつき出して、若い船長にさういうた。
『ぢゃあ、君は、なにもデッキの仕事を妨害しなくてもいゝぢゃないか』
 勇が、静かにさういふと。鈴木はまた負けないで逆襲した。
『ぢゃあ、あなたは、卯之助のやうな機関のことを何も解らぬ人間を、エンヂン・ルームに連れてきて、我々の仕事の妨害をしなくてもいゝぢゃないですか!』
 広瀬は、鈴木がもう静かになったと思って、両手を放した。すると、その機会を利用して、復讐心に燃えた鈴木は、足許に坐ってゐた川端の下顎を、足で蹴飛ばした。しかし川端は、こんどは抵抗しないで、たゞ口で答へた。
『覚えて居れよ、貴様、俺はな、沖へ商売に来たんぢゃからな、お前さへ邪魔しなければ、こっちは喧嘩しないのぢゃ、しかし望みならば、いつでも陸へ上ってやってやるからな、その時はピストルでも用意して待っとれ!』
 川端が抵抗しないのを見て居た油さしの鈴木は、船長の村上に向直って尋ねた。
『あなたは、乗組員が今死ぬやうに苦しんでゐても、見殺しにするつもりですか?』
 その時、いが栗頭の古屋熊楠が、大声で叫んだ。
『――あれ! あれ! あれ!』
 さういって彼は、また浮標の浮沈みする方を指差した。

  太平洋を股にかけて

『やはり、暴風雨のあとに鮪がとれるといふのは、ほんとぢゃなア、また懸りよったな』
 広瀬和造も浮沈みする浮標の方を見つめながら、ひとり言のやうにいうた。濤は相変らず高い。鈴木はまだ船酔ひしてゐると見えて、大濤が来る度毎に、ケーシングの隅っこに片手を差出して体を支へた。川端はそれを見て、冷かすやうにいうた。
『奴さん、足がしどろもどろぢゃないか、……女郎買ひでもして、梅毒(かさ)かいてるのぢゃな……こら梅毒かき、しっかりせい!』
 さう罵られたけれども、鈴木は、立ってゐるのが苦しいと見えて、甲板の上に坐り込んでしまった。然し、口だけはまだ負けないで、
『馬鹿! 貴様が梅毒かいてるだらう!』
 さう怒鳴っておいて、更に船長の方に振向いて尋ねた。
『船長さん!・ 松原さんが弱っとるのに、あなた助けないんですか? 早く銚子にでも船をつけて、医者でも呼んでやったら、どうだす。魚の一匹や二匹、どうでもいゝぢゃないですか。松原さんが死んだらどうします?』
『腹痛位で死ぬかよう』
 勇も、負けないつもりになってさういった。
『ぢゃあ、あなたは機関士を見殺しにするつもりですな』
『何も見殺しにするといってやしないぢゃないか。然しなア、鈴木、暴風雨の翌日はな、とても鮪が多くとれるんだから、そんなにせかせかいはれちゃあ、太平洋を舞台にして生きてゐる人間にゃあ、うるさくって一緒に行動が出来んぢゃないか。沖へ出てきたらなア。鯨か海豹のやうなつもりになって、少し暢気にやってくれんと、せかせかしちゃあ困るよ……魚には港もなければ家もないのだからな、沖に出たら、魚のやうな気持になって、少し位濤が揺れたところで、すぐ陸に上ってゆくやうなことをいうちゃあ、太平洋を股にかけて商売することは出来んよ』
 勇は、流してゆく浮標の数を算へながら、濤に揺れる発動機船の動揺を、二本の足で調子をとりながら、厳然たる口調でさういった。
 鈴木がいくら口説いても、勇が意志をまげないので。とうとう泣くやうな声を出して。両手を合して勇に懇願した。
『船長さん! 白状しますがね、私は淋病にかゝってゐるんです。それが昨夜から痛みましてなア、小便がつまってしまって出ないんです。それで、お願ひですが、私を助けると思って、銚子へ船をつけてくれませんか』
 鈴木は。そこに四人の漁師か聞いてゐるのもかまはずに、なりも振りも構はないで、デッキに頭を摺り付けてさういった。それを聞いてゐた川端は、
『馬鹿野郎! 腰つきが変だと思ったら、やはり淋病か、あまり淫売買ひをするからぢゃ。罰当り奴が!』
 さう罵られたけれども、鈴木は、余程体が弱ってゐたと見えて、今度はよう口返答をしなかった。勇は、咋夜からの鈴木の態度で、それが充分読めたから、
『よし、銚子へ船をつけてやる、初めからさういへばいゝぢゃないか、お前一人のために。みんなが迷惑するぢゃないか。チェ!』
 舌打しながら勇は広瀬にすぐに大声にいうた。
『広瀬君! 残念ぢゃけれども、繩を上げて、一旦銚子に着けようや。そして。鈴木だけ銚子へ置いて、もう一遍出てくることにしようか』
『さうするより仕方がありませんなア』
 広瀬がさういふと、眼玉の猪之助は。大きな眼玉で、デッキの上に両手を着いてしょげてゐる鈴木伝次郎を、ぎょろった見ながらいうた。
『こんな弱虫を沖に連れて来ちゃあ、仕方がないなア、ほんとに』
 それに和して、川端もまたいうた。
『こら、腰抜け、鱶にでも食はしたろか!』
 あまり乱暴なことを川端がいふので。船長の勇は、川端をたしなめるやうにいうた。
『おい、君、君、あまり無茶なことをいふなよ』
 繩はまた捲上げられた。そしてまた、大きな一間余りもある本鮪を捕へることが出来た。勇は操舵室に帰り、犬吠岬の方にコースを向けた。船はいよいよ陸地に近づいてきたと聞いて油さしの鈴木は、急に元気づいて、卯之助と代って機関室に降り、道頓堀行進曲を小さい声で吟誦(くちずさ)みながら屑糸を両手に持って、機械についた油を拭いてまはった。それを表で聞いた広瀬は。浮標とみき繩とを離してゐた卯之助に向っていうた。
『あれぢゃからな。カフェー通ひをしてゐる男は。沖にはもう連れて来られんぞ、もうあいつは、銚子でお払ひ箱にしてしまったらいいんだ』