海豹の24 朱唇玉杯

  朱唇玉杯

 処女航海の成功に、船主の兵太郎は、大悦びであった。それで船主は、みんなに飲ませるといって海岸の勝浦亭から三軒目の花の家といふ料理屋につれて行ってくれた。芸者を二人お酌にといって呼んでくれた。初めて芸者の出る宴会に出た勇は、何ともいへぬ妙な気になった。それが漁師仲間の習慣であるとはいへ、くすぐったいやうな気がしてならなかった。十日近くも水平線と睨みっこして帰ってきた青年に、若い女性がつけてゐる香水の匂ひをかぐだけでも、いひ知れない昂奮を齎(もたら)した。瀬戸内海であれば、遠く出ても、帰ると思へば、その日の中に帰って来られる処ばかりであったので、春先などは、遠く播磨灘まで漁に出ても、そんなに陸地が恋しいと思はなかったけれども、四百哩も五百哩も沖に出ると陸と女が馬鹿に恋しくなって、醜い女でも白粉を塗ってゐると、後から抱〆めてやりたいやうな特種な感情が湧き立ってくるのをおさへることが出来なかった。それで、御手洗の青年団の団長をしてゐた時は、女は勿論のこと、酒さへ飲まなかった村上勇も、船主が差し出す盃を無下に退ける勇気もなかった。
『わたしは禁酒してるんですから』
 と喉元まで言葉は出てゐたけれども、
『御祝儀だから、君、一杯だけは受けてくれんと困るね』
 さう船主にいはれて、まだ二十歳を越して間もないと思はれる、眼のぱっちりした痩形の小春といふ芸者に、盃を差出されると、女の好意を無にする勇気もなく、つひに盃を受けとってしまった。いや、盃より、芸者といふ名のつくものの手から盃をとるといふことの何ともいへぬローマンチックな気持に引き摺られたのだ。そして半分は好奇心から半分は官能的な本能に左右せられて、白魚のやうな指先に載った小さい盃に盛られた黄金色をした香のいゝ酒を、ちょっとでも唇に持ってゆくその気持を――その気持だけを愛してみたくなったのであった。
 その瞬間、小春が澄みきった瞳で、彼の顔を見てくれるといゝと思った。それは、軽い気持で、若い女に愛してもらひたいといふ本能が勇の胸のうちに湧いてゐたからであった。勿論、彼は深入りしようといふ気はなかった。然し彼にも、それが罪でなければ、若い女と徹夜してでも遊んでみたいといふ気が起らないでもなかった。金がかゝらなくて、そして無邪気に遊べるなら、美人が多いほど面白いとも思った。
 然し、小春は、瞳も上げないで、お酌をした儘、機関士の松原の席に移って行ってしまった。そこでは冗談をいったり、ふざけたりして心安さうに饒舌くってゐた。
 そんなことではいけない。とは思ったけれども、女を取られたといふ嫉妬心と、心持ちよく遊べないといふ邪慳な気持がむらむらと起った。
 酒が一時間続いた頃、階下から仲居が叫んだ。
『船長さん、お家から傘が届きましたよ』
 さういはれて、外には雨が降り出してゐたことに気が付いた。さう知らしてくれたのを幸ひに、階下に降りてみると、かめ子が、天鵞絨(ビロード)の衿のついた絣の上っ張りを着て、にこにこしながら、庭に立ってゐた。毒々しい小春に比べて、かめ子が職業的でない微笑をもって彼を迎へてくれるのが、ほんとに嬉しかった。
『もう帰って寝ようかね』
 さう独言のやうに勇がいふと、気転のきくかぬ子は、はやすぐ下駄箱から勇の足駄をとり出して、上框(あがりかまち)の処に二つ揃へて並べた。盃に三杯しか飲まなかったに拘らず、庭に下りた勇は、ひょろついて足駄を踏み外した。
『あ、危い!』
 さういって走り寄ったかめ子は、傘を持ったまゝ、勇を傍から支へた。その時、かめ子も香水をつけてゐると見えて、ローズの香がぷーんと勇の鼻をついた。
『若! 今夜少しお酔ひになったんですか?』
 花の家の玄関を出た時、かめ子は勇にさう尋ねた。
『いや、猪口(ちょこ)に三杯しか飲めやしないんだけれど、不断飲まないから、ちょっとで酔うたと見えるね』
 さういふと、やさしいかめ子は、片手で勇の腕をとり、片手で傘をさしかけて、川岸の我家まで勇をつれて帰った。勇は、かめ子と結婚したいなどといふ気は少しも起らなかったけれども、かめ子が一生懸命に彼を愛してくれることがほんとに嬉しかった。そしてもし、かうした愛が永久に続くなら、結婚するより更に幸福だと思ったので、その通りかめ子にいうた。
 するとかめ子は謙遜に、
『若、わたしは汚れて居りますからね。かうしてあなた様にお仕へすることが出来たら、ほんとに嬉しうございますわ、けれど、千五百円もまだ借金してゐるものですから、どうしてもまた木ノ江に帰らなくちゃならないのでございますの』
 それを聞いて、勇は、今更の如く驚愕した。勇は、今の今まで、かめ子が自由の身になって、父の処に帰つてきてゐるのだと思ってゐた。自宅の庭に入った時、勇は、かめ子の両手を握っていった。
『かめ子さん、それはほんと? どうしても私はあなたを自由の身にしてあげるからね、帰つていらっしやいね、こゝへ。だけれど、まだ一月や二月は此処に居ってもいゝでせう?』
 さういふと。かめ子は縁に腰をかけたまゝ、泣き出して俯向きに伏さってしまった。
『わ……た……く……し……は、きっと……帰って……来ます。あなたの……御恩は……決して……一生……忘れやしません。死ぬまで……親子で、あなたの傍に……置いて頂きます……』
 主人思ひの卯之助の娘として、柔順な心の持主であるかめ子を、もう一度木ノ江の狼の群に返すことは、勇としても耐へられなかった。かめ子は、高利貸に金を返しに行くときに会った万龍のやうに美人ではなかった。しかし眼元がとても涼しい。そして可愛い線を現してゐて、美しいといふよりか、愛らしいといふ感じを与へた。それで、勇としては弄びたいといふ気持よりか、妹として可愛がってやりたいといふ気が起ってゐた。しかし、千五百円の金が、勿論、自由になる身ではなかった。それを思ふと、人生は淋しくってならなかった。それで彼は、蚊帳の中へもぐり込んで、人生の淋しさに泣いた。
 父の卯之助もあとから帰ってきて、かめ子がまた木ノ江に帰ってゆかねばならぬといふことを聞いて、縁先で泣いてゐた。
『まあ、居れよ、こんどのやうに、漁があれば、少しづつ借金を払ふことが出来るから、おまへも帰らなくともいゝから。新宮の弁護士さんに頼んで、先方に話をつけることにしようよ』
 さう父のいってゐることを聞いて、勇も蚊帳の中から出てきて、かめ子にいうた。
『それが一番いゝぢゃないの、借金は二人して少しづつでも入れて行くから、あなたは綱を刺す内職でもして居れば、一日に五十銭や六十銭になるのだから、まあ当分はこちらに居っちゃあ、どうだね』
 それで話はきまっだ。かめ子はまた元気付いて、父の脊中を揉むために、勇の蚊帳の中に入ってきた。
 翌日、油と、食料と。餌を積んだ白洋丸は、また勝浦港を出帆した。少し暴風雨模様だったけれど、暴風雨の時の方が、かへって鮪が多くとれるといふので、冒険的ではあったけれども、勇気を出して沖に出た。

  踊れよ怒濤

 藍色に見えてゐた大海は、昼から急に鉛色に変った。うねりはだんだん高くなり、入道雲は西南を蔽ひ隠して、バロメーターは急速に上下し、低気圧の襲来を告げた。
 然し、悲しいかな、船具屋で十七円出して買うてきた、バロメーターでは、それがどれだけ確実なものであるか見当が付かなかった。いや、たとひ見当が付いても、日本の海岸線から三昼夜も沖に出てゐる白洋丸にとっては、今更どうすることも出来ない運命になってゐた。うねりはだんだん激しくなって、日は暮れたけれども西の空が赤く見え、真夜中になっても密雲で蔽はれた暗黒の大海原に、颱風の進行してゐる方面だけが真赤になって見えた。さういふことに経験のある卯之助は、大声で怒鳴った。
『やあ! 来よるぞ! 錨の準備せえよ!』
 さういって、屋形の下で寝転んでゐた漁師達を甲板に呼上げた。そして、彼自身表に廻り、太いロープの先に錨をくゝり付け始めた。
 勇は、瀬戸内海の暴風雨には屡々遭ったけれども、外海の大暴風雨に遭ったことは今迄一度も無かった。然し、バロメーターの激しく昇降することに気のついた彼は、颱風を逃げるために、コースを急に東南東にとった。その間にうねりはますます高くなった。卯之助は、他の漁師等をせかして。『ケーシング』のカヴァーを締め付け、四つ持ってゐた錨を全部ロープの先に付け終った。
『もうこれで大丈夫だぞ! おい、もういくら暴風雨が来ても大丈夫だ、安心せい! 命を落すやうなことはないよ』
 さういってゐるうちに、うねりの上の小波が三角形に立ち始めた。それは恰も魚の群集が作る小波にも似てゐた。
『こんな時はなア、舵はききやしないからなア、空中飛行機のやうに帆で舵をとるより仕方がないよ』
 さういひながら卯之助は、また艫(とも)に廻って艫の帆を心持ち開いて、それを船体と百八十度の角度で並行させ、左右に動かないやうに艫にくくり付ける準備をした。その準備をしてゐるうちに、波はますます激しくなり、巾が百間もあらうと思はれるやうな大きなうねりになってしまった。六人の漁師達は、みんな屋形の中にすっこんでしまった。油さしまでが真青な顔をして、機関室の傍に設けられた寝台の上に転がったきり、もう立てなくなった。雨は激しく操舵室(ブリッヂ)の正面の硝子窓を叩き付けて、一寸先も見えなくなってしまった。たゞ見えるのは、低気圧の中心であらう、ほの赤くなって徐々
に北進する恐ろしい火の桂である。今にも操舵室が根こそぎ濤にさらはれさうになるので卯之助はどこから見付けてきたか、大きな鉄の棒を運んできて、舷側(サイド)と操舵室(ブリッヂ)の間を鉄棒で連絡させ、少し位の波が来てもこたへないやうな準備を暴風雨の中で進めた。
『ピューツ……!』
 笛のやうに、時にはまた音階を繰返してゐる子供の声のやうに、帆檣(マスト)から吊下げたロープとワイヤーが、底気味悪く唸りをたててゐた。
『大将、こりゃ、大分漁船がやられましたぜ』
 さういふ卯之助の声も、風のために遮切られて操舵室にゐた勇には充分聞えなかった。船の長さは十間、総噸数三十六噸、ポイント式の発動機で五十馬力しか出ない白洋丸は、こんな暴風雨に出くはすと、まるで大洋の上に浮んだ木の葉にも等しかった。それでも卯之助は恐れてゐるやうには見えなかった。船の五倍位も斜に落されて、またそれ位の距離をのし上って行くその壮烈な律動には、暴風雨を覚悟して海に出てゐる流石の勇も、多少辟易(へきえき)しないわけではなかった。あまり揺りかたが激しくなったので、卯之助は、操舵室に入ってきた。