海豹の20 海を忘れた日本人

 海を忘れた日本人

 鞆を出てから船は、真直に南に下った。妙なコースをとると思ってボーイに訊いてみると、山陽道を伝ふと客ぶ少いから高松に寄るのだといふ、のん気な船もあったものだと諦めたが、高松へ船が着いた時は、もう波止場のアーク・ライトに灯が入ってゐた。尾道のやうに、小さい帆船や、発動機船が密集してゐなかったけれども、ある陽気な空気が漂うてゐた。兵庫に着いたのは明るく日の朝の三時であった。紀州行きの船を待合すために、彼は波止場の傍にある待合室に入った。大阪から廻ってくる午前八時の勝浦丸は定期より三十分遅れて入った。朝早く兵庫に着いた時は、さうとも思はなかったが、島上町の波止場を日が明けてから出帆すると、神戸港の陽気な気持が、犇々(ひしひし)と感ぜられた。港のほとりに立並ぶ大きな倉庫の幾百棟、内海から集ってきた幾干艘の帆船、ランチにひかれて走る艀(はしけ)、川崎造船所の大きなガントリ・クレーン、それと相対して和田岬を圧してゐる一万五千噸の三菱の浮ドツク、煙突を赤く塗ったり青く塗ったりして、単調な海の色を飾ってゐる外国汽船の数々、勇は、海がいかにゆたかな祝福を民族に与へてゐるかを感じないわけにはいかなかった。
 商船学校で習った海運史のことを今更ながら、ほんとだと思った。然し一歩港外に出ると、はや、海港の殷盛は、どこへか消えてしまって、たゞ海洋の波濤のみが、小さな汽船の両舷を打つのであった。船のデッキから見ると、神戸の後に屏風のやうに広がった六甲山脈、それに対立した大阪の東側につっ立ってゐる生駒山脈、その二つを繋ぐ能勢の山々、それ等の山脈が、みんな一様の高さをもって、海の底からでも上ってきたかのやうに、山頂を一直線に削りとられ、幾百万年か前に、その山頂に水が蔽うてゐたのではないかと思はれてならなかった。
 外国人のあやつってゐるヨットであらう。船よりも大きな帆を上げて、少し風が吹けば顛覆するであらうと思はれるほど、水とすれすれに船べりを傾かせて、汽船よりも速く大阪湾を駆けってゐた。
『勇ましいですなア! 日本人ももう少しヨット遊びでもするやうにならぬといかんですなア』
 さういひながら、暑中休暇を利用して帰郷する水兵が、呉海兵団の帽子をかむって、村上勇の処に近寄ってきた。
『おや! あとからまたやってきましたぜ。競争してるんだなア。涼しいでせうなア、あれ位大きな帆を捲いて、鏡のやうな大阪湾を走り廻ると』
 そこへまた商人風の男が、浴衣の上に角帯を締め、絽の羽織をきちんと着て、風に飛ばされないやうに、麦藁帽を片手で抑さへながら、水兵と勇の話してゐる処に近寄ってきた。
『どうです。一つあんな船に乗ってみたいものですなア、面白さうですなア、あれは一体、なんぼ位しまっしやろな?』
『さあ、何でも、海兵団の教官がいってゐましたが、六、七百円で買へるさうですよ』
『金があると、一艘欲しうおまんなア、日本は海の国だすよってに、少し海事思想を養成する必要からも、若いものをあんな船に乗せて、日本の国を一周するだけの勇気をつけたいもんですなア』
 商売人に似合はない、活溌なことをいふので、水兵はぢろっと彼の顔を見た。
『あの形の船では日本を一周するのは危いですなア』
 さう水兵が答へると、その商人はなかなか黙ってゐない。
『しかしイギリスあたりの紳士は、みんな盛んなヨットに乗ってゐるぢゃないですか。毎年大西洋横断のヨット競争がありますね。日本も一つヨットを拵へて、米国と国際競技でもやりますかな。どうも日本の青年たちは、少し流行があり過ぎて、近頃はどこの学校にも山岳会といふのがあるやうですが、あれもいゝには違ひないが、日本は島国で、どうせ船に乗らなければ、他の国に行けないことが解ってゐるんだから、山岳会に敗けない位の海洋会といふやうなものを作って、海を征服しなければ駄目ですな』
 勇は、その商人があまり面白いことをいふので、
『あなたは御商売は何をしていらっしゃるのですか?』
 と尋ねてみた。すると、商人は、懐中から名刺入れを収出し、
『ほんにつまらぬ商売をして居りまして。魚をとる網や漁具を販売してゐる者だす、どうかお見知りおきを願ひます』
『あなたはどちらの方へいらっしやいますか?』
 と勇は、目分の商売に関係があるので、すぐ尋ね返した。
『ちょっと勝浦まで参ります』
『あ、さうですか、私も勝浦まで』
 それから二人は、紀州を中心とした漁業の話に移った。

  浦島太郎の子孫

 淡路島が、大きな眉をひいたやうに見える。昔楠正成が籠った金剛山と、役の行者に縁故のある葛城山が大阪湾を我物顔につっ立ってゐる。風が東から吹くので、大阪を出帆した幾百艘の帆船が、み
んな白い帆を捲いて明石海峡を目指して西に走ってゐる。それが海上に飛んでゐる蝶々のやうに見えて、その美しいこと喩へやうもなかった。漁具商の浅井長吉は、その帆船の一つに視線を注ぎながら勇にいうた。
『いゝ景色でございますなア、かういふ景色はほかでは見られませんなア』
 船が友ケ島海峡にかゝってから、浅井がいろいろ紀州沿岸の漁業に就て説明してくれた。
紀州も潮岬の方へ行きますと、漁師もなかなか冒険的な人が多いやうでございますなア、みな小ぽけな二十噸級の発動機船で、南洋はスマトラから東は太平洋をつっ切って、メキシコあたりまで平気で行きますからなア、えらいものですわ。この間も、古座で聞いたことですが、あしこの人で、ジャワの王様の妹の婿さんになってゐる人があるさうですなア、大抵は。鰹をとりに行って、そのやうな冒険を平気でするらしいですなア』
 船のサイドに寄りかゝってゐた水兵は、話を面白がって、浅井と勇の腰を下してゐるベンチにやって来た。そして彼も腰を下しながらいうた。
『さうですか、なかく紀州はえらいですな、ジャワの王様の義理の弟になるやうな男がゐるんですか、漁師の中で?』
 漁具商の浅井は、得意になって話を続けた。
『浦島太郎が行ったといふ龍宮は、やはり南洋なんでせうな、古座の漁師が、王様の妹の婿さんになった処を見ると、浦島太郎も、そんなことになったのと違ひますかな、何でも古座あたりの青年は、太平洋位なんとも思ってゐないので、平気で太平洋をつっ切って、行ったり来たりするさうですよ』
 その話を聞いて、水兵の顔は輝いた。
『それぢゃア、米国へ密航する人も多いでせうな』
『密航といふと悪いけれども、ずゐぶん多く出掛ける人があるやうだっせ、だから潮岬のあたりの漁師は、米国をまるで、和歌山県の、どこか一部分のやうに考へてゐるやうですなア、メキシコの鮪釣りや鰹漁業は、とても大仕掛のやうですなア、この間もアメリカのサンピドロから帰ってきた人がいうてゐましたが、赤道を越えて南半球へ漁業に行くんださうですなア』
 勇は、浅井が、サンピドロの名を知ってゐるので、ある壊しさを感じた。
『私の兄貴もサンピドロで漁師をしてゐるのですが、あちらの漁業はなかく発達してゐるさうですな』
『さうぢゃないですか……近頃は、鰹釣りなども、生餌(いけす)を生管の中に生きたまゝ積込んで、一ケ月でもニケ月でも釣りに出かけるんだといひますなア。米国の漁業も発達したものですなア』
 水兵は黙ってそれを聞いてゐた。浅井はシガレットに火をつけて、うまさうに吸ひ始めた。勇は、浅井の物語る米国の漁業の発達をきいて、彼の顔をその方に向けて、大声にいうた。
『私の兄貴も行ってゐますがなア、そりゃ米国は金がある国だから、漁具や漁船は発達してゐるけれども、漁師になる人は無いっていふぢゃありませんか、カナダでも、アメリカでも漁業に従事してゐる者は、日本人か、それでなければイギリス人とイタリー人だけ
だっていふぢゃありませんか』
『なんでもそんなことだといひますなア、漁業の方面にゆけば、日本人もなかく有望ですなア』
 そこで、勇は、少からず乗り気になった。上半身を前方に傾けて、浅井の顔を見ながらいうた。
『日本人はすぐ満洲々々といふけれども、どんなに満洲が有望だといったところで、日本の二倍半位しかないのですなア、そこへゆくと、日本の千倍も二千倍も広い太平洋全体を日本民族の漁業区域にすれば、日本人が生活に困るっていふことは少しもないでせうなア』
 水兵はうなづいた。
『あなたのいふ通りです。僕はどうも、近頃、日本人が海を忘れたやうな気がして、慨嘆に耐へないですよ。僕も漁師の家に生れて今海軍に行ってるんですが、海軍から帰ったら、村の若い者だけで、一つ発動機船でも買うて、メキシコあたりへ行ってみようと思ってるんですよ。なあに、波の荒いのは、陸地の付近ちょっとですからなア』
 浅井はそれを聞いて感心してゐる。
『あ、さうですかね、ぢゃあ、太平洋の真中は波が高くないんですか?』
『いやー、波がないっていふんぢゃないんですがな、実際にあたってみると、風といふ奴は、陸地に暖められた空気と、海で冷えた空気とが交替するから起るので、太平洋などはサンフランシスコヘつく前二日間と横浜へつく前二回目とが一番えらいんださうですな、だから、その二日間だけ辛抱すれば、あとはまるで畳の上を行くやうなものですよ』
 水兵は、太平洋を我もの顔に説明した。それを聞いてゐた勇は、口には出さなかったが、密航慾がむらむらと胸の底にわいて来ることを感じた。そして幻のやうに。自分の小さい発動機船が太平洋の波に揺られて、東へ東へと航海してゐる光景を空想的に描いた。