海豹の21 竜宮への移住

  竜宮への移住

 浅井はデッキの上にシガレットの灰を叩き落して。水兵の言葉に呼応した。
『さうでせうなア、あの雑賀崎の漁師などは、箕島あたりで魚がとれなくなったので、ちっぽけな、その辺りに浮いてゐるやうな漁船を漕いで、日本沿岸ならどこへでも行くんださうですな。北は千島からカムチャッカ付近まで、南は九州から沖繩県あたりまで出掛けるといひますなア、これ位の勇気が日本人全体にあれば、日本人に生活難はありませんなア。なんださうですぜ……雑賀崎の人は旧の正月だけしか家に帰って来ないさうですなア、日本の漁業も将来は、太平洋に魚の居る地図を書いて、今のやうな不確定漁業から、確定漁業に進歩しなくちゃいけませんなア』
 水兵もシガレットを吸ひたくなったと見えて、ポケットから『朝日』の袋を取出して。漁具商の浅井から火を貰った。そして確定漁業といふ言葉を面白がって、
『さうならんと嘘ですなア』
『現に、近頃戸畑に移った支那海のトロール漁業の如きは、支那海の隅から隅まで、ちゃんと魚の地図を書いて、何月何日には、何度何分から、何度何分に向って、何んていふ魚が移動してゐるといふことまで、ちゃんと地図にしとるんですからなア。沖に居るトロール汽船に無線電信で命令を下せば、ちゃんと翌日には、命令通りの魚が、戸畑に着くんですからなア。太平洋全部に、そのやうな地図を拵へて、米国でやってゐるやうな大きな冷蔵庫を積んだ工船なり、母船なりと連絡をとれば、それこそ前途有望で遥かに儲かりますからなア』
 勇は、浅井のいふことに一々うなづいた。彼はそれか法螺であるとは思はなかった。科学的に進んだ現代文明に於て、それ位が出来なければ嘘だと思った。しかし彼はなほも沈黙を続けた。水兵は、浅井の言葉を非常に面白がって、
『さうですかな、そんなに日本の漁業も発達してきたんですかなア。それぢゃあ。太平洋の魚の地図を書くことも、さう遠い将来ぢゃありませんな。私も親父が捕鯨船の乗組員だったものですから、海軍に行くまで一年ばかり捕鯨船に乗ってみましたが、鯨の住んでゐる処の地図など出来ると非常に便利ですなア。今の処ぢゃア、鯨がどこで子を産むのか、どこからどういふ風に太平洋を泳いで廻ってゐるのか、それさへはっきり判ってゐないのですからなア、大きな船を仕立てて、鯨とりに行っても三日目に鯨に会ふのか、七日目に鯨に会ふのか、それがはっきりしてゐないんですからなア、それが頼りないので、紀州捕鯨会社もだんだん衰へたやうですなア』
 捕鯨船のことを聞いたので、一度それに乗りたいと思ってゐたのは、水兵の故郷の名を知りたいと思った。
『失礼ですが、あなたは紀州のどちらでいらっしやいますか?』
東牟婁郡の太地です』
 水兵の答が終るや否や、浅井は水兵の顔を覗いていうた。
『あゝ、あなた太地ですか。成程、それで、あゝ、あしこには昔から有名な捕鯨会社がありますな……今でも続けてやっていらっしゃいますか?」
『いや、もう根っから駄目ですなア、形ばかりです。昔は潮岬でうんととれたんでせうけれど、少し濫獲したんでせうな』
『あしこだけは、昔ながらの銛(もり)を使ってゐるといふがほんとですか?』
 漁具商だけあって、要所々々をきくのがなかくうまい。船の旅が退屈なものだから、三人は海の生活に就て、面白いことや悲しいことを日の入るまで語り続けた。それで、勇は、浅井と、少からず共鳴して、浅井は、勇を勝浦の大きな網の持主に紹介すると約束してくれた。

  黒潮に近く

 紀州の沿岸は、東西に平行した無数の岬が並んでゐて、その奥にいくつかの漁港が一つひとつ異った特色をもって、海に生活するものの根拠地となってゐる。九州から出発して、四国を東西に横断し、紀州の岬々にはひ上った地層は、加太岬では白堊系として上陸し、宮崎ノ鼻としては秩父古生層がはひ上り、日御崎としては片麻岩層が上陸してゐる。
 大阪弁を使ふので馬鹿のやうに見えるけれども、山登りの好きなといふ浅井は、岩の恰好によって地層を勇に説明した。それには勇も舌をまいて驚いた。そして、自分の無智を自ら恥ぢた。
『海岸の地層をよく研究しませんと、地層によって漁具の種類が違ひますからなア。網を作って、それを商売にしてゐる我々にとっては、地層によって網の破れ方が違ひますのでなア、この点も研究せんと、都合が悪いんです』
 船は小さい港々に着けたが、地層が面白く変化してゐる関係でもあらうか、瀬戸内海などに比べて、奇抜な風景の多いのに、勇も教へられた。新和歌浦は、要塞のやうに屹立した結晶片岩で守られ、湯浅港は秩父古生層のながらかな線で囲まれ、田辺港は紀州で珍しい第三紀層のやはらかい線で造られた港であった。
高野山が壮厳に見えるのも、熊野の権現さんが有難く思はれるのも、全く地質の関係でせうなア。あしこは、みな日本でも一番古い地層から成立ってゐるのですからなア』
 そんなことをいって、浅井は水兵と勇とを笑はせた。
 それは、翌朝、勇が潮岬を廻って勝浦港に入った時に、特に感じた光景であった。勝浦港の入口は突兀(とっこつ)たる火山岩によって作られてゐるが、湾を入ると真正面に、石英粗面岩の断崖の上に那智の滝が天から落ちたやうな勢で、白く見えるのには驚いてしまった。何といふ絶景、なんといふ驚異、勇はたゞ自然の不思議な力に頭をうなだらせるばかりであった。この不思議な大地の変化を知るだけでも、紀州に来た値打があったと勇は考へた。大自然の不思議な光景を演出してゐる割合に、勝浦の町は、整頓してゐず、雑然としてゐた。港の入口に、温泉があった。然し、如何にも不恰好な家を建並べて、自然に反逆してゐるやうに勇には思はれた。波止場には、宿屋の客引が大勢立ってゐて、激しい競争をしてゐた。
『どうだす、旦那さん、一浴び温泉でもあびて、いきやはりやしまへんか』
 浅井は親切に、勇を温泉に誘ってくれたけれども、勇は、漁師としての口があるかないか心配してゐたので、
『お願ひですが、あなたの御承知の「かねまる」とかいふ網を持ってゐられる方に紹介して下さいませんか?』
 それで浅井は快く、村上勇を「かねまる」へ連れて行ってくれた。その家は裏通りにあったが、相当にやってゐると見えて、家の構へはなかなか立派であった。主人公は背の低い、頭の禿げた中年の男であったが、浅井を尊敬してゐると見えて、
『浅井さん、そりやいゝ口がおまっせ。裏のなア、伊賀さん処は、こんど新造船が出来ましてなア。新しい手を入れてるんです。一つ紹介しませうか』
 それを聞いて、勇は胸を撫で下した。急に天地が明るくなったやうに思った。「かねまる」の主人は気軽に、庭に飛下りてきて、二人をすぐ、裏の伊賀兵太郎といふ人の家へ連れて行ってくれた。然し生憎、主人は浜に行ってゐるとかで留守であった。「かねまる」の親爺は、またすぐ二人を海岸に連れて行ってくれた。広い埋立地が、横切って海岸に出ると、そこに小さい造船所があった。その海岸には、世間が不景気であるにも拘らず、新しい船を造る人があると見えて、三艘の木造船が新造されつゝあった。海は太陽の光を反射して、銀のやうに光り、新造船の胴体は黄金色に見えて、こつん、こつん木を削ってゐる猿股一つの船大工の赤銅色した皮膚とが完全に調和して、力強い海国の美を描き出してゐた。
 兵太郎は、浜に繋いだ発動機船の機械の据付について、造船所の親爺と船の蔭で立話をしてゐた。色の浅黒い背の高い奥眼のぱっちりした男で、フィリッピン人のやうな顔付をしてゐた。「かねまる」の親爺が、浅井の紹介で、村上といふ青年が、漁師の口を深してゐると、伝へると、全部話を聞かないうちに、大きな声で、
『よっしや! かねまるさん、わかった、この人か? なかなか身体も丈夫さうやなア。うちの新造船で働いてもらはう!』
 さう大声にいうて快諾してくれた。この辺りは、瀬戸内海の姑息な漁師と、よほど肌合ひがちがふと勇には感じられた。浅井が乙種二等連転士の免状と、丙種船長の資格を、村上勇が持ってゐることを説明すると、
『そいつはなほ好都合ぢゃ! わしはそんな人を探しとったんぢゃ。早速、あんたに船長さんになって貰はうかな……、然し鰹船は初めてぢゃろから、あんたの資格で船を運転さして、船頭にしっかりしたものを入れるといゝわけぢゃなア、……うちはまだ他に二、三人漁師が要るんぢゃが、あんたの知ってゐる人で、あんたの部下になって働いてくれる人はありませんか?』
 と、伊賀兵太郎は勇に尋ねた。それで勇は、二、三名ならいつでもあることを答へた。
『瀬戸内の漁師は、あまり表海には役に立たんかも知れんけど、まあ頼むかな。それでは……』
 それで話はきまった。勇は、すぐさま卯之助に宛てて電報を打った。そして自分は、勝浦湾に注ぎ込む小さい川の辺りに建ってゐた兵太郎の借家に入れてもらふことになって、その日の晩から自炊することに決めた。
 その晩遅く勇の寝てゐる処へ、兵太郎さんの処の小憎が返電を持ってきてくれた。それによると、卯之助は、早速やってくるといふことであった。その電報だけで、勇は天にも飛上るほど嬉しかった。それから恰度三日目であった。兵太郎さんの小僧に連れられて、卯之助がひょっくり発動機船の手入れをしてゐた勇の処にやってきたのは。
『よう! 卯やん! よう来てくれたなア』
『やあ、若、頼みますぜ。こんなに早う来られるとは思ひませんでした。それでなア、若! 一つお願ひがあるのですがなア、うちの娘のかめが、病気で帰って来とるんですがなア。若とお父つあんの飯炊きに行かうっていふんですが呼んでやりませうかなア?』
『そりゃ、いゝ考へぢゃなア、卯やん、一つ呼んでもらはうか』
 それで卯之助はすぐ、郵便局にとって帰し、また娘の呼寄せの電報を打った。
 兵太郎は漁師の人選に因ってゐた。それは、日帰りの漁船であれば雇はれるものは何人でもあったけれども、三ケ月も四ケ月も帰って来ないといふ船に乗込む志願者は、漁師の多い勝浦でも、さう多くは見当らなかった。
『これだから日本の漁業が発達しないんだ! どしどし冒険的に出て行かなかったら仕方がないぢゃないか』
 兵太郎は、口をかけても次から次に話が駄目になるので、癪にさはったやうな口調でつぶやいた。それで彼は、周旋屋を通して、串本方向の漁師のうちに、遠洋漁業に出るものがあるかどうか深してみた。手が揃ふまでの間、勇と卯之助は、毎日発動機船の機械の手入れと船の掃除に、朝の中を費した。そして昼からは、勝浦温泉に入ったり、那智の滝を見に行ったりして、久しぶりに暢気な真似をしてゐた。
 卯之助が勝浦に着いてから四日目に、呼寄せた娘のかめ子がやってきた。勇も手がすいてゐたので、卯之助と二人で波止場まで迎ひに行った。卯之助が、病気だといふから、余程弱ってでもゐるかと思ってゐると、少し顔色が蒼いだけで、そのほかはどこも変った処はなく、きいてみると下の病気で困ってゐるだけのことで、大阪にゐては、とても入院料がかゝってかなはないものだから、芸者にならうと、木ノ江まで帰ってきたのだが、木ノ江でも思ったやうな用事が出来ないので、とうとう勇が御手洗を立った翌日、親の家へ帰ってきたといふことであった。長く会はなかったが、十九だと思はれないほど身体も大きく。肉つきもよく、二重瞼の眼のぱっちりしぺ眉の太い、現代好みのする顔付をしてゐた。こちらへ来る時に、わざと、島田髷をつぶして、女優髷に結ってきたためでもあらうか、少しもそれらしい処は見えなかった。